緑の余韻
——朝。
「カタ……コト……」
静かな部屋に響く心地よい物音で、僕はゆっくりと目を覚ました。
寝ぼけ眼で音のするキッチンのほうへ視線を向けると、エプロン姿のひよりがこちらを振り返った。
「あ! 起きた?」
弾んだ明るい声。
「合鍵使って勝手に入ってきちゃった。すごくぐっすり寝てたから、起こすのも悪いなと思って……。朝ごはん作ってたんだけど、なかなか起きないからお昼ごはんになっちゃったね」
ひよりがくすりと笑うと同時に、香ばしい和風出汁と焼き立ての香りが鼻を掠めた。僕のすぐ横で、アニーもピクピクと鼻を動かしながら「ふにゃ……」と目を覚ます。
「ごめん……連絡しようと思ったんだけど、力尽きちゃって……」
「いいのいいの! よっぽど疲れてたみたいだったし。それより、大学が夏休みで良かったね! これが講義のある日だったら完全なサボり確定だよ?」
「うっ……」
ひよりの容赦ない現実的なツッコミに、頭が一気に現実の世界へと引き戻される。異世界の王様に舐められたり剣で脅されたりしていた余韻が、一瞬で吹き飛んだ。
ふと見ると、テーブルの上に綺麗なドライフラワーの束が置かれているのが目に入った。
「どうしたの、これ?」
「ああ、それ? お母さんが最近ドライフラワー作りにハマっててさ。『勇斗くんにも持っていってあげて!』って。……正直、一人暮らしの男の部屋にはいらないよねぇ?」
「いや、ありがたく貰っておくよ。せっかくおばさんが持たせてくれたんだし……」
僕はベッドから起き上がり、そのドライフラワーを手に取って何気なく眺めた。そして、片付け忘れて散らばっていたテーブルの上——「緑の鉱石」の真上に、深く考えずにポンと置いた。
その瞬間だった。
——ギィィィンッ!!!!
「わっ!?」
「きゃっ!?」
緑の鉱石が、突如として眩いばかりの強い光を放ち始めた。
僕とひよりが思わず目を押さえる中、光に包まれたドライフラワーのカサカサとした茎と花弁が、みるみるうちに水分を取り戻していく。まるで時間を巻き戻すかのように、一瞬で瑞々しく青々とした生花へと姿を変えたのだ。
そして——パンッ!!!
乾いた音とともに、緑の鉱石は弾け飛び、光の粉となって消えていった。
鮮やかな花と、何事もなかったかのように綺麗さっぱり消えた鉱石のあとに残されたのは、静まり返った部屋と、呆然と立ち尽くす僕たちだけだった。
ひよりが目を丸くし、絞り出すように呟く。
「な、なにこれ……!?」
「アニー! どういうこと!?」
急な展開にテンパった僕は、思わずアニーに向かって叫んだ。
アニーは大きな目をさらに丸く見開くと、トントンとテーブルの上に飛び乗り、そのみずみずしく蘇った生花の周りをうろうろと歩き出した。
『わからない……わからないわ……っ!』
困惑しているのはアニーも同じだった。記憶を失っているせいなのか、それともアニーにとっても元々知り得ない未知の事態なのかすら判別がつかない。
部屋の中に重い沈黙が落ちる中、ひよりが驚いた顔のまま、ぽつりと呟いた。
「……緑だから……?」
「え……?」
「緑の石だったから……緑の植物が蘇ったってこと……?」
ひよりの言葉に、ハッと胸が跳ねた。
色の復元と、物質の性質——もしもこの鉱石たちが「色の力を戻す」だけじゃなく、それぞれの色に対応した何かを「再生・増幅」させるような現実的な力を持っているのだとしたら……?
「じゃあ……これは……」
僕はベッドの上でずっと握りしめていた右手に視線を落とし、そっと掌を開いた。
そこには、昨夜ゼインの大剣から外してきたばかりの、冷たくて漆黒の「赤の鉱石」が転がっていた。
「赤なら……どうなるんだ……?」
僕とひより、そしてアニーの視線が、僕の掌の上の黒い石にじっと注がれた。
思わず、昨夜ゼインが不敵に笑いながら言った「血の赤の美しさといったら……」という言葉が頭を過ぎり、背筋にスッと冷たいものが走った。
(あ、赤はヤバい……! もし何かに触れて、突然ドバッと血が吹き出したりしたら怖すぎる……!!)
「と、とりあえず! なににも触れさせないように、ケースか何かに厳重に入れておこう……っ!」
「そ、そうね……! そのまま大事に保管しておけば、そのうち何かの役に立つかもしれないし……!」
ひよりの提案で、僕は「赤の鉱石」を小さなプラスチックケースの中へ慎重に収め、固くフタを閉めた。
一命を取り留めたような安堵感を覚えつつ、僕たちはひよりが作ってくれたお昼ごはんをいただくことにした。
テーブルに並べられたのは、温かいお味噌汁と手料理の数々。一口すすると、やさしいお出汁の味が疲弊しきった身体の芯まで染み渡っていくようで、不覚にも少し泣きそうになってしまった。
(ひよりの優しさが心に沁みる……)
ひよりは自分の料理の味に自信がないのか、どこか不安そうな目つきで僕の顔色を伺っていた。
「すごく美味しいよ! ひより」
「〜〜っ、ほんと!? 良かった……!」
僕が素直な感想を伝えると、ひよりは柄にもなく耳まで赤くして照れ、誤魔化すように慌ただしく洗い物を始めた。手際よくトントンと叩くような水音を聞きながら、(ひよりはきっと、将来いい奥さんになるんだろうなぁ……)なんてことをしみじみと思う。
ふと横を見ると、アニーがテーブルの上にひらりと飛び乗り、食べやすく小さくほぐしてもらったお魚や、お皿に注がれたミルクをおいしそうに頬張っていた。
異世界でのあの恐ろしいドラゴン、ゼインの殺気、そして命がけの旅……。
そんな過酷な出来事を思い出し、生きて無事に帰ってこられた実感が湧いてきて、僕はアニーの小さな頭を愛おしく優しく撫でた。
「く〜ん……」
アニーは甘えたような可愛らしい鳴き声を漏らし、僕の手にゴロゴロと愛らしくすり寄ってきた。




