出会い
6歳の記憶を無理やり呼び起こしながら、僕はひんやりとした蔵の中へ足を踏み入れる。
――あの日見た、あの絵が見たい。
胸の奥から湧き上がる衝動が、僕の足を前へ前へと突き動かす。
2階へ続く木のはしごは、ところどころ木肌が欠けて角が丸くなっていた。
大丈夫だろうか、上った後、ちゃんと降りることができるだろうか、とふっと不安がよぎる。
ギシギシと頼りなく軋む踏み板にそっと足を乗せる。
2階へ上がり、あの日じーちゃんが絵を出してくれた箱の後ろへと手を伸ばした。
あの頃は自分の背丈よりも遥かに大きかったキャンバスが、今は少し屈めば見下ろせる大きさになっている。時間の経過が、僕の体躯を通して妙にリアルに伝わってきた。
じーちゃんがしてくれたように、覆いかぶさった厚い布に手をかける。
……この中にあるんだ。あの、息をのむほど美しかった世界が。
胸を膨らませ、溢れだしそうな期待とともに、僕は布を勢いよく引き剥がした。
美しい緑の山に囲まれた湖。見たことのない造形の塔、風になびかれた後ろ姿の髪の長い女性。そしてそこに降り注ぐ、まばゆい光と太陽。
胸に期待を膨らませながら、布を勢いよく外した。
「……え?」
期待に満ちていた僕の思考が、一瞬で凍りついた。
そこにあったのは、間違いなくあの時に見た絵だった。
湖畔に立つ異国風の塔も、大きな古木も、背を向けた女性の姿も、すべて記憶の中にある構図のままだ。
だが——色が、無い。
緑あふれていたはずの山々は煤けた黒に塗り潰され、温かい光を放っていたはずの太陽は、かろうじて輪郭を残すだけの冷たい白になっていた。あらゆる色彩が失われ、濃淡の灰色だけで描かれたその世界は、まるで最初から命など宿っていなかったかのように死に絶えている。
「なんで……? じーちゃんがこんな真っ黒な絵にしたってこと……?」
思わず指先でキャンバスの表面に触れようとした、その時だった。
モゾリ、と胸元が蠢いた。
「うわっ!?」
服の襟ぐりが内側から引っ張られ、僕は思わず尻もちをついた。
シャツの隙間からポンッと飛び出してきたのは、猫よりも小さな毛玉だ。
薄黄色の綺麗な毛並みに、体に不釣り合いなほど大きな耳。顔の半分を占めるような真っ黒な瞳が、パチパチと瞬きをしている。
フェネックという砂漠の小さな狐にそっくりな姿。
——だが、その背中にはパタパタと忙しく羽ばたく鳥のような小さな翼が生えていた。
そして何より目を引いたのは、その細い首元だ。
使い込まれて鈍い光を放つ、真鍮製の大きな虫眼鏡が、革紐でしっかりと首から下げられていた。空中に飛び出した反動で、虫眼鏡がコツンと小さな音を立てて揺れる。
『ふぁ〜あ……あー狭かった! おい少年、そこ退きな。あたしの絵が見えないじゃん』
「……へ?」
思考が完全にフリーズした。
背中に翼を生やしたフェネックが、宙をゆらゆらと泳ぐように舞い、僕の目の前の床へと軽やかに着地する。首から下げた真鍮の虫眼鏡が、カチャンと小さな音を立てた。
「……喋っ……た……!?」
尻もちをついたまま、僕は必死で後ずさる。
見たこともない謎の生物。しかも流暢に喋っている。パニックになりそうな頭を押さえながら凝視していると、そいつは僕の驚きようなど気にも留めない様子で、大きな耳をパタパタと揺らした。
『なによその顔。どいつもこいつも、最初に会った時は同じ間抜けな顔すんだから……あ、でも!』
そいつはパッと表情を輝かせると、つむじ風のようにくるりとその場で一回転した。大きな黒い瞳が、キラキラと輝いている。
『ふはぁーっ! やっと出られた! 自由だーっ! 蔵の埃っぽい空気でさえ、今は愛おしいわ!』
「出られたって……どこから……」
『どこからって、その絵からに決まってんでしょ。あんたがこの絵に触れてくれたからロックが解除されたの!』
絵……?
僕は吸い寄せられるように、床に転がる白黒のキャンバスへ視線を落とした。
灰色に染まった湖畔、不気味な塔、背を向けた女性。
その風景の隅——古木の枝の上に、小さな影が描かれていることに初めて気づいた。翼の生えた小さな狐のシルエット。
——そうだ、6歳のあの日。
じーちゃんと一緒にこの絵の表面を撫でた。あの時、確かに僕はこの絵の中に『こいつ』を見たのだ。
「じゃあ……君は、ずっとこの絵の中に閉じ込められてたのか?」
『そういうこと。ありがとね、少年! これで完璧!! ……って、言いたいところなんだけど……』
フェネックは誇らしげに胸を張ろうとして、ふと自分の右前足に視線を落とし、ウッと表情を曇らせた。
『……ちょっと、これ見てよ』
差し出された右前足を見て、僕の息が止まる。
薄黄色の美しい毛並みが、そこだけ嘘のように抜け落ち、下塗りの白と煤けた黒の濃淡——そう、あの絵と同じ「白黒」に変質していた。
『絵の色が消えたせいか、あたしの身体まで侵食されちゃってさ。……まったく、一体絵の中で何が起きてるわけ?』
「身体が……白黒に……?」
『ま、暗気な顔してもしゃーない! 改めてあいさつね。あたしの名前はアニー。よろしくね、勇斗』
アニーはちょこんと床に座り直し、大きな耳をピンと立てて僕を見上げてきた。
その顔を正面から見て、僕はハッと息をのんだ。
左右で色の違う瞳。
右目は吸い込まれそうな深い紫、左目は生き生きとした濃い緑。宝石のようなオッドアイが、薄暗い蔵の中で怪しくも美しく光っていた。
「な……なんで僕の名前を……!?」
『なんでって、昔、義郎と一緒にあたしを見に来た時に言ってたからに決まってんじゃん』
「義郎……じーちゃんのこと……?」
『そうよ。あんたがここに来たってことは、義郎死んだの……?」』
アニーは寂しそうに耳を伏せ、首から下げた真鍮の虫眼鏡にそっと触れた。




