いざ、緑の森へ
翌朝。すっきりと晴れ渡った朝日が部屋に差し込む中、僕とアニーは出発の準備を整えていた。
「よし……それじゃあアニー、次の『色』を確認しよう」
『うん!』
アニーが首から下げたルーペを持ち上げ、僕たちは二人で顔を寄せて、壁に立てかけられた大きなキャンバスを覗き込んだ。
昨日ひよりが塗ってくれた『緑』は、ルーペを通さなくてもすでに鮮やかな色を放っている。だが、その緑の奥——モノクロのまま眠っている領域へとレンズの焦点を合わせていく。
「……あ」
レンズの丸い枠の中に、新しい『色』が浮かび上がった。
「……赤だ」
緑に染まった深い森の奥、手前に佇む名もなき野花。そしてその背景にそびえる、まるで巨大な花びらを何重にも重ね合わせたかのような、どこか神秘的で奇抜なデザインの『塔』の一部。
それらの場所だけが、レンズ越しにハッとするほど鮮烈で美しい「朱赤」に染まって見えていた。
「次の色は赤か……! よし、目的も分かったし、行くか!」
『うん、行こう!!』
アニーは力強く頷いた。
僕はアニーの小さな身体をしっかりと両腕で抱きかかえ、大きく息を吸い込んだ。胸の鼓動が高鳴るのを感じる。
「ひより、行ってくるからな」
誰もいない部屋で留守番をしてくれている幼馴染に心の中で声をかけると、僕はゆっくりと手を振った。
キャンバスの端にはめ込まれた、あの小さな宝石へ——。
指先がひんやりとした宝石の表面に触れた、次の瞬間。
——ゴォォォッ……!
視界全体が眩い白光に包み込まれた。足元の重力がふっと消え去り、身体が浮遊感に満たされる。耳元で、まるで次元の壁が削れていくような、静かで圧倒的な風の渦音が響き渡る。
光の粒子が目まぐるしく回転し、現実の僕の部屋が、壁が、天井が、硝子のように透明になって弾けて消えていく。
そして——。
ザザァッ……!
心地よい湿り気を帯びた本物の「風」が、僕の頬を強く撫で上げた。
鼻をくすぐるのは、甘い土の香りと、みずみずしい葉の匂い。
「……っ!」
光が収まり、ゆっくりと目を開けた僕たちは、思わず息を呑んで立ち尽くした。
そこは、昨日までの「白黒の荒野」ではなかった。
僕たちの頭上には、昨日ひよりが命を吹き込んだ、鬱蒼としたエメラルドグリーンの木々が広がり、陽の光を浴びてキラキラと眩しく輝いていた。木々が風に揺れ、サラサラと心地よい葉音を奏でている。
『すごい……! 本当に、緑が……あたしたちの森が戻ってるわ……!』
腕の中のアニーが、震える声で感嘆の声を漏らした。
僕たちが復元した「最初の色」が、確かにこの異世界に溢れていたのだ。
踏みしめる土の感触、肌を撫でる風の心地よさ。
昨日までの無機質で乾いた灰色の世界とはまるで違う。命を宿した『緑』の森の空気を感じるたびに、僕の胸の高鳴りは大きくなっていった。
(メアリーは……無事だろうか。この緑の色が戻って、驚いてるんじゃないだろうか)
彼女の顔を早く見たいという気持ちが抑えきれず、僕の歩調は自然と速くなっていた。
「ねえ勇斗……ねえってばっ!!」
「わっ……! なんだよ、アニー」
後ろから必死に小走りでついてきていたアニーの声に気づき、僕が少しペースを落とすと、アニーは僕の脚をスルスルと器用に登り、あっという間に肩の上へとやってきた。
そして、僕の耳元でニヤリと意地悪そうな笑みを浮かべた。
『ねえねえ、メアリーってあの女、実は顔がカエルみたいに真っ緑かもしれないわよ?』
「は? そんなわけないだろ……」
『だって、白黒の世界だったんだから分からないでしょ? 今頃、緑色の顔になって泣いてるかもね!』
「そ、それはそうだけどさ……」
「白黒だったと言っても、濃淡は分かってたんだ。もし仮に肌や髪が緑だったとしても……かなり薄い色のはずだよ……たぶん」
『うふふっ、どうかしらねー!』
僕の動揺を見て取ったアニーが、肩の上で愉しそうに尻尾を揺らしながら喉を鳴らす。
軽口を叩き合いながら森の小道を抜けると、視界が一気にぱっと開けた。
「……うわぁ……っ」
そこは、前回メアリーと出会ったあの花畑だった。
だが、景色は前回と全く異なっていた。白黒の陰影でしかなかった地面からは、瑞々しい草木が生き生きと背を伸ばし、名もなき草花の茎や葉が見事なエメラルドグリーンに彩られている。
花弁そのものはまだ『色』を取り戻していないため、まるで一面に純白の花々が咲き誇っているかのような、どこか幻想的な光景だ。
そして——その白い花畑の中心に、ぽつりと佇む『白い影』があった。
こちらに背を向けたまま、静かに佇む人影。
「メアリー……っ!!」
僕は思わず大声で叫んでいた。
声に反応したのか、彼女の肩がピクリと跳ね、ゆっくりと立ち上がった。
風が吹き抜け、彼女の長い美しい髪と白いドレスの裾がサラサラとなびく。
……だが、彼女は一向にこちらを振り返ろうとしない。
「……? なんだろう……なんで振り返らないんだ……?」
足を止め、首を傾げる僕の肩口で、アニーが『くすくす』と声を殺して笑った。
『ほーら、言ったでしょ! やっぱり顔が真緑に戻っちゃったのよ! 恥ずかしくて勇斗に見せられないのよきっと。ふふふっ』
「冗談言ってる場合かよ……っ」
不安と緊張でゴクリと生唾を飲み込みながら、僕は恐る恐る、ゆっくりとメアリーの背後へ近づいていった。
間近で見る彼女のドレスは、変わらず真っ白なままだった。どうやら服や衣装には「緑色」は使われていなかったらしい。
一歩、また一歩。草を踏みしめる音を立てながら忍び寄る。
「あの……メアリー……?」
メアリーががばっと全身で振り向いたその瞬間、僕の時が止まった。
「っ……!」
息を吸い込むことすら忘れ、ただただ目を見開いて硬直する。
期待と不安で膨らんでいた僕の頭の中の想像——顔が緑色になっているんじゃないかとか、服のどこかが染まっているんじゃないかとか、そんなバカげた邪推は、一瞬で跡形もなく吹き飛んで消えた。




