腹ごしらえと事前準備
「……ちょっとひより」
僕はひよりを引き寄せ、アニーに聞こえないように耳元でぼそっと囁いた。
「アニーのご飯どうしよう……うち、ペットフードなんてないし……」
ひよりは一瞬呆れ顔になり、同じく声を潜めてぼそっと返してきた。
「いいでしょ、猫みたいなもんでしょ、こんなの。ちょっと待ってて、買ってきてあげる」
『はぁぁぁ!? 聞こえてんのよ!! あたしのどこがギャーギャー鳴く猫なのよっ!! あたしは高貴なフェネックよっ!!』
地獄耳のアニーが毛を逆立ててブチギレる。僕は苦笑いしながら「まあまあ」となだめ、ひよりは「わかった、行ってくる」と呆れたように笑い、部屋を出て行った。
十数分後、戻ってきたひよりの手には、敢えて『パッケージに猫の写真が載っていない』高級キャットフードの缶詰が握られていた。ひよりなりの細やかな(?)配慮だ。字が書いてあっても、異世界のアニーには読めないだろうという計算である。
「はい、お待たせ。美味しいご飯よ」
小皿に盛って差し出すと、アニーは「なによこれ……?」と怪しむように鼻をピクピクさせた。だが、部屋中に漂う芳醇な魚の匂いに耐えきれず、そーっと舌を伸ばす。
「……! ……まあまあね。食べられないこともないわ」
気取った態度でそう言いながらも、アニーは猛烈な勢いでガツガツと食いついた。ふさふさの尻尾は「美味しい!」を隠しきれずにゆらゆら、ふりふりと大喜びで揺れている。
『ほんっと、猫みたいな野蛮な奴と同じにされて気分悪いわ! ……あむ、もぐ……まあ、これは悪くないわね……ペロペロ』
口のまわりにキャットフードのタレをつけながら、夢中で綺麗に平らげていくアニー。
それを見つめながら、僕とひよりは顔を見合わせてくすくすとお腹を抱えて笑った。
(……これ、キャットフードだよとは絶対言えないな……)
お腹がいっぱいになって幸せそうに毛づくろいを始めたアニーを横目に、ひよりは「じゃあ私、そろそろ帰るね」とポニーテールをほどき始めた。
「明日、何時に集合? 私もその絵の中に行くから!」
気合十分に言い放つひよりに、まどろんでいたアニーが片目をピクッと開けた。
『無理よ。あたしの魔力じゃ、一度に連れていける人間は一人が限界なの。二人も連れて行ったら、魔力が足りなくなってこっちの世界に帰ってこれなくなるわ』
「えっ……二度と帰れないの!?」
「だから僕一人で行くしかないんだ。……あ、そうだ。ひより、これ」
僕はポケットから一本の鍵を取り出し、ひよりの手のひらに握らせた。
「……え? これって……部屋の、合鍵……?」
ひよりの動きがピタリと止まる。
白く綺麗な首筋から耳たぶにかけて、みるみるうちに真っ赤に染まっていくのが分かった。つぶらな瞳を揺らし、ゴクリと唾を飲み込むひより。
「僕たちが絵の中に入っている間、もし火事が起きたり、ウチの親が勝手に入ってきてこの絵が処分されそうになったりしたら、ひよりがこの部屋に入って絵を避難させてほしいんだ。絵が壊されたら……僕ら、二度と戻ってこれなくなるだろうから」
『そうよ。勇斗の言う通り。だからあんたにこの絵の守護を任せるのよ』
アニーもひよりに向かって、力強く何度も頷いている。
「…………」
数秒の沈黙。ひよりの肩が脱力するようにガクッと落ちた。
一瞬でも勘違いしてドキドキした自分が恥ずかしくなったのか、ひよりは真っ赤な顔のまま、フンッと鼻を鳴らした。
「……なーんだ、そんなこと! 了解、任せときなさい! 勇斗の親が来たら適当に追い払っといてあげるわよ!」
「助かるよ、ひより。頼んだぞ」
「じゃ、明日! 無事に帰ってきなさいよ!」
バタンと勢いよくドアを閉めて去っていくひより。
嵐のような夜が過ぎ、部屋には静けさが戻ってきた。
電気を消してベッドに入ると、アニーが当然のような顔で布団の中に潜り込んできた。
『ちょっと勇斗、狭いわよ。もっと端によりなさい』
「お前なぁ……文句言いながら入ってくるなよ」
文句を言いながらも、アニーは僕の胸元に丸くなり、心地よさそうに小さな鼻息を立て始めた。ふさふさの尻尾が僕の腕に心地よく触れている。
「……明日は、あの緑の森がどうなってるか、確かめに行こうな」
アニーの柔らかい温もりを感じながら、僕は静かに目を閉じた。




