感動の先に
僕は思わず、筆を持ったまま呆然と立ち尽くすひよりの両手をガシッと握りしめた。
「ありがとう! ひより! 本当に……本当にありがとう!!」
胸の奥からこみ上げてくる熱いものに、自然と目頭が熱くなる。
「え……いや……私、ただ言われた通り絵の具を練って塗っただけで……このくらい、大したことないから……」
ひよりは握られた手に戸惑いながらも、まだ目の前の絵から一切の目を離せずにいた。美大生としてのプライドも知識も吹き飛ぶほどの『圧倒的な光景』に、ただ息を飲んでいる。
「やったな! アニー! 本当によかったな!」
僕は嬉しくなり、僕より絵に近づいているアニーに弾んだ声で話しかけた。
けれど、アニーは額縁の真ん前にちょこんと座り込んだまま、まるで置物のようにピクリとも動かない。
「アニー……? どうし——」
心配になって顔を覗き込んだ瞬間、言葉が喉で詰まった。
アニーは小さな口をほんの少し開けたまま、そのアンバーとエメラルドの大きな瞳から、ボロボロと大きな涙の粒をこぼしていた。
灰色の絶望に閉じ込められていた故郷の「色」が、今、目の前で生き生きと脈動している。その光景が、どれほど彼女の心を救ったのだろう。
溢れる涙を止められないアニーを見て、僕まで完全にもらい泣きしそうになった。
僕は床に膝をつき、アニーの小さな身体をすっと両手で抱き上げ、優しく胸の中に抱きしめた。
「よかったな……本当に、よかったな……」
「うん……っ、うれしい……っ、よかった……っ」
いつもなら「触るんじゃないわよ!」と暴れる勢いのアニーが、えらく素直に僕の腕の中で顔を服にスリスリと押し付け、声を殺して泣きじゃくっている。
その小さな前足には大切なルーペをぎゅっと抱え込み、ふさふさの尻尾は嬉しさを隠しきれずにゆらゆらと大きく揺れていた。
やがて、ひとしきり涙を拭ったアニーは、僕の腕の中からそっと身体をひよりの方へと向けた。
そして、ふわりと大きな耳を寝かせ、ひよりに向かってうやうやしく頭を下げた。
『……ありがとう、ひより』
その声には、さっきまでの棘や突っ張った様子は微塵もなく、心からの深い感謝だけが込められていた。
頭を下げたアニーの涙声に、ひよりは一瞬呆然と目を見開いた。
そして自分ももらい泣きしそうになるのを必死にこらえるように、そっと視線を泳がせている。
「……ううん。私、ただ言われた通り練って塗っただけだし……このくらい、大したことないから……」
どこか弱々しく答えたひよりは、感極まっている僕とアニーの姿を見て、ふっと優しく柔らかい笑みを浮かべた。さっきまでのサバサバした雰囲気が嘘のように、僕らを穏やかな眼差しで見守っている。
静かな感動が部屋を包み込み、まずは一つ目のミッションが完了したことを皆が確信した瞬間だった。
「さっ!! じゃあ早速、絵の中に行こう!!」
僕が目を輝かせて言い放つと、僕の腕の中にいたアニーが『はぁぁぁ!?』と一転してブチギレた顔で睨みつけてきた。
『なんでよ!! こっちはバタバタして疲れ切ってんのよ!! 行くわけないでしょ、バカじゃないの!?』
「い、いや……でもさ、向こうで困ってた人がどうなったか気になるだろ……?」
たじたじになりながら言い訳をする僕に、アニーは凍りつくような冷ややかな視線を向けた。
『あーーーっそっかそっか、なるほどね。あの女に会いたいのね。あの女が今どうなってるか……いや、ただあの女に会いに行く“口実”が欲しいだけなのね……?』
「え!? 何!? 誰なのそれ!?」
ひよりがすかさず食いつく。アニーは待ってましたと言わんばかりにひよりへ顔を向けた。
『絵の中にいたのよ、すっっっごい美人の女の子!! 勇斗ったらその子にデレデレでさー! “色を取り戻すことくらい僕に任せてください! あなたのためなら僕、なんだって頑張りますからっ!!”とか言っちゃってさー!』
「いやいやいや!! 僕そんな言い方一切してないだろ!!」
『いーや! ほとんど 同じ言い方でマヌケな顔して言ってたわよ!!』
「はぁっ!?」
ひよりのおでこに、カッと般若のような怒り顔が浮かび上がった。
「じゃあ何!? 私は、その勇斗がデレデレ会いたがってる女のために、わざわざ実家まで走って道具持ってきて色塗りさせられたってわけ!?」
「いや! 違うって! そんなわけないじゃないか……っ!!」
一人と一匹からの恐ろしい形相と圧に射抜かれ、僕は冷や汗をダラダラ流しながら縮こまることしかできない。
『それにねぇ!!』
アニーが追い打ちをかけるようにピシッと前足を突きつけた。
『向こうとこっちの時間の流れが同じなら、あっちも今頃“夜”でしょーが!! 夜中の森の中にあの女の子がいるわけないでしょ!! 考えたら分かりそうなもんでしょ、このスケベ!!』
「あ……」
(た、確かに……正論すぎる……)
ぐうの音も出ない正論を叩きつけられ、あっけなく撃沈する。
「……じゃあ、行くのは明日か……」
ガックリと肩を落としてしょんぼりする僕を、ひよりとアニーは同時に冷たい目で「ハァ……」と呆れた溜息を吐くのだった。




