染色
「はぁ、はぁ……っ! あった! 奇跡的に物置の奥に残ってた……!」
十分も経たないうちに、ひよりが息を切らして部屋へと飛び込んできた。ひよりの実家は俺のアパートの近所だ。近い距離だが、その呼吸の乱れが急いでくれたことを物語っている。
その腕には、白い陶器のすり鉢やすりこぎ棒、日本画用の独特な筆、そして何やら液体や粉末の入った怪しげな瓶がどっさりと抱えられていた。
両手の道具を床へドカッと下ろすと、ひよりは長くて美しい黒髪を両手でバッと持ち上げ、首の後ろでキュッと高い位置にまとめ上げた。ポケットから取り出したヘアゴムでしっかりと結び直す。
さっきまでのサラサラとしたお出かけ用の髪型から一転、首筋が露わになった凛々しい「ポニーテール」姿。その真剣な眼差しは、完全に一人の『絵描き』の顔になっていた。
「よしっ。……で? この緑の石を粉末にすればいいのね?」
『な、なによ……急に気合入れちゃって……』
アニーもひよりの雰囲気がガラリと変わったことに驚いたのか、耳をぴくっとさせて少し身を引いている。
「素人が叩いて砕いたら飛び散るって言ったでしょ。この乳鉢を使って、ゆっくりすり潰して細かく滑らかな粉末にするの。……ちょっと勇斗、これ持ってて。硬いから力仕事は手伝って!」
「お、おう!」
ひよりに指示されるまま、僕は乳鉢をしっかりと手で固定した。
ひよりは緑の鉱石を乳鉢に投入すると、重厚な陶器の棒を握り締め、ゴリゴリと音を立てて粉砕し始めた。
ゴリ……ゴリ……サク……サク……
部屋の中に、硬い石が細かく削れていく独特の音が響き渡る。
最初は荒かった鉱石の破片が、ひよりの丁寧で力強い手つきによって、次第にきめの細かい、息を呑むほど美しいエメラルドグリーンの粉末へと姿を変えていく。
「……すごいな。こんなに綺麗な粉になるんだ……」
「そうなの。これが『岩絵の具』の基本。で、これをただ水で溶くだけじゃキャンバスに定着しないの。乾いたらパラパラ落ちちゃうからね」
そう言いながら、ひよりは持ってきた小瓶から透明な液体を垂らし、自分の指先でダマがなくなるまでじっくりと馴染ませていく。指先が鮮やかな緑色に染まっていくのも気にせず、集中した面持ちで絵の具を練り上げていく姿は、まさに『職人』そのものだった。
「……できた。極上の『天然・緑青』絵の具の完成」
ひよりは細い筆の先に、練り上げた鮮やかな緑の絵の具をたっぷりと含ませた。
さっきまであれほど騒がしかったアニーが、ピタリと口をつぐんでいる。アニーは小さな体をキュッとこわばらせ、息をすることすら忘れてしまったかのように、祈るような強い眼差しでひよりの手元を見つめていた。
僕とアニーの痛いほどの視線が注がれる中、ひよりは壁に立てかけられたあの巨大な白黒の額縁の前へと歩み寄る。
「……ねえ、勇斗。本当に……ここに塗っちゃっていいのね?」
「ああ。頼む、ひより」
ひよりはゴクリと唾を飲み込み、息を殺して、細い筆先をそっと静かに降ろした。
あのルーペで見えた、モノクロの『葉っぱ』のキャンバスへと——。
——すうっ。
筆先が紙面に触れた、次の瞬間だった。
「っ……!?」
塗ったのは、ほんの僅かな一筆だったはずだった。
だが、その緑色の塗料は、まるで乾いた砂漠が水を吸い上げるかのように、自らキャンバスの奥へとすーっと染み込んでいった。
次の瞬間、額縁全体がふっと淡く温かい光を放ち始める。
光の波紋が描かれた葉から葉へ、枝から幹へ、そして背景の山々へと瞬く間に駆け巡っていく。緑色の絵の具が生き物のようにキャンバスの上を伝い、塗っていないはずの森全体が、息を呑むほど鮮やかなエメラルドグリーンと黄緑色のグラデーションに一気に染め上げられていった。
『あ……ぁ……っ』
アニーの口から、掠れた感動の声が漏れる。
それだけではない。
部屋の中のはずなのに、どこからかサラサラ……と深い森を渡る木々の揺れる音が聞こえ、頬を撫でる爽やかな「風」すら感じられた。
色彩を得た草木や山々が、まるで生きているかのようにキャンバスの中でゆらゆらと揺れている。
「……なに……これ……っ!?」
筆を握ったまま、ひよりが目を見開いて立ち尽くしていた。
白黒だったはずの絵は今、そこだけ切り取られた『本物の緑の世界』として、圧倒的な生命力を放ちながらそこに存在していた。




