日没までのカウントダウン
「追うな。大丈夫だ」
静かだが、有無を言わせぬ響きを持った声。
エレナがピタリと足を止めると、女性はふっと表情を緩め、気怠げに首の後ろを掻いた。
「あいつの生存本能はゴキブリ並だ。泣き喚きはするだろうが、あの程度の羽虫にやられるタマじゃない。絶対に死にはせんよ」
「そ、そうですか……? でも……」
「私はセレス。一応、あの馬鹿弟子の師匠をやっている。大会中はどうやら、うちのへっぽこが世話になったようだな」
セレスの言葉に、リリアーナがコホンと一つ咳払いをして、ドヤ顔で一歩前に出た。
「ふむ! 私はリリアーナ商会代表のリリアーナなのだよ! して、こちらが我が商会の優秀な専属エンジニアのレイジと、実働部隊のエレナだ!」
「……レイジだ」
「エレナです。あの、フィンくんとは予選から一緒で……」
セレスは涼しげな目で三人を――特にレイジとエレナを、まるで珍しい機械の構造でも見透かすような、鋭く熱を帯びた眼光で舐め回すように見つめた。
「エンジニア、ね。なるほど……近くで見ると、ますます『不可解』で面白い」
「ん?」
レイジがいぶかしげに眉をひそめる。
「いや、こちらの話だ」
セレスはすぐに元の飄々とした昼行灯の顔に戻ると、面白そうに口角を上げた。
「ところで、お前たち。ここで心配していても暇だろう?」
「ええ、まあ」
「ならば……どうだ? あいつが巨大熊蜂の群れに追われて泣き叫ぶ無様な姿――いや、我が弟子の『見事な活躍』を、特等席で見学しに行く気はないか?」
「ふはは! 面白そうなのだよ! へっぽこの泣き顔を特等席で拝んでやるとするのだ!」
リリアーナが真っ先に乗り気で腕を組む。
「俺も少し興味あるな」
「……でも、フィンくんが本当に危険なら助けに入らなきゃ!」
セレスの案内で西の山奥へと向かった三人は、見晴らしの良い高台の巨木の陰から、眼下の光景を見下ろしていた。
「いやぁぁぁぁっ! 来ないでぇぇぇ! 刺さないでぇぇぇぇっ!!
フィンは涙と鼻水を撒き散らしながら絶叫していた。
人間の頭ほどもある巨大な針を構えた『巨大熊蜂』の大群が、羽音を激しく轟かせて襲いかかる。
ガギィィィンッ!!
「ぶぎゃぁぁぁっ!?」
突き刺さったはずの巨大熊蜂たちが、重戦車に正面衝突したかのような打撃音とともに、弾丸のごとき勢いで逆方向へ吹っ飛んでいく。
「……なるほどな」
レイジはあくび混じりに目を細めた。
「魔闘祭で猛者たちの攻撃を受け続けたおかげで、無意識の環境魔力同期が前よりスムーズになってやがる」
「すごーい! フィンくん、全然ダメージ受けてないよ!」
エレナが感心したように声を上げる。
当のフィンは「死ぬ! 死んじゃうぅぅ!」と半狂乱のまま両腕を振り回していたが、防御が完璧すぎて蜂たちの群れは勝手に自爆し、全滅状態に陥っていった。
「やった……? 俺、生きてる……! 今のうちだぁぁぁ!」
フィンは半泣きのまま、巨大な蜂の巣の中心へ突進した。ドタバタと無我夢中で手を突っ込み、ずっしりと重い最上級の蜂蜜がぎっしり詰まった巨大な蜜房の塊を力任せに引きちぎる。
「取れたぁぁぁぁっ! 蜂蜜取れたぞぉぉぉ! これで助かったぁぁ! 師匠の組み手を回避できるんだぁぁぁっ!!」
地面に膝をつき、蜂蜜を抱きしめて涙ぐむフィン。歓喜と安堵に包まれたその瞬間――
サッ。
風を切る密やかな音が響き、フィンの手元から「ぽん」と重みが消えた。
「……え?」
フィンがポカンと目を見開く。
見上げれば、頭上の枝に軽々と着地した一匹の小柄な魔物――すばしっこい盗人の猿が、フィンの抱えていた蜂蜜の壺を大事そうに両手で抱え、ニヤリと挑発的な笑みを浮かべていた。
「あ……あ……」
フィンの顔からすーっと血の気が引いていく。
キッキッと嘲笑うように鳴いたサルは、そのまま木々の奥深くへと姿を消した。
「俺の……俺の希望がぁぁぁぁ……っ!!」
頭を抱えて地面に転がり、絶望の悲鳴を上げるフィン。
「……計算してみりゃ一目瞭然だな。完全な詰みだ」
高台から見下ろしていたレイジが、冷めきった口調で小さく息を吐いた。
「どういうこと、レイジ?」
不安そうに尋ねるエレナに、レイジは指を折りながら淡々と現実を突きつける。
「この険しい山奥から道場まで、足場の悪い山道を全力で駆け下りたって復路だけで最低1時間はかかる。あのアジリティの高いサルを追撃して奪還するか、別の巣を探して採取し直すなら、さらに1時間以上は持っていかれる。つまり状況を打破するには、どう甘く見積もってもあと最低2〜3時間は欲しいところだ」
「ひ、ひどい……! 物理的に絶対に間に合わないやつじゃない……!」
あまりの絶望的なタイムスケジュールに、エレナが引きつった顔で両手を口元に当てる。
「くっくっく……やはり期待を裏切らん。我が弟子ながら見事な間抜けぶりだ」
隣で見ていたセレスが、心底楽しそうに妖艶な笑みを深めた。最初からこの時間配分とアクシデントの発生率まで織り込み済みだったかのように、ゆったりと腕を組む。
彼女は静かに踵を返すと、暮れなずむ道場の方角へと歩き出した。
「よし、そろそろ戻るとするか。……とびきり極上の『組み手』の準備をして待ってやらねばな」
迫り来る夜の闇の中、「あと2時間……! あと2時間あればぁぁぁっ!」というフィンの悲痛な叫び声が、虚しく山びことなって響き渡っていた。
エレナはセレスのしなやかな背中を盗み見ながら、ほっと胸を撫で下ろすように小さく吐息を漏らした。隣に並ぶように歩幅を早め、嬉しそうに目を輝かせて微笑みかけた。
「すごく厳しい人に見えたけど、本当はフィンくんのこと、すっごく大切に見守ってるんですね!」
セレスは足を踏みだし直すと、片眉をひょいと上げてエレナを見下ろした。
「大切、ねぇ。そんな温い感情であのゴキブリを育てたつもりはないが?」
「ふふ、誤魔化さなくてもわかります! なんとなくだけど、フィンくんの防御が破れそうになったら、一瞬で助けるつもりだったんでしょう?」
図星を突かれたセレスは、面白くなさそうに「チッ」と軽く舌を鳴らし、あからさまに視線を逸らした。
「勘違いするな、小娘。弟子が死ねば、新しい使い走りを育てるコストがかかる。ただの費用対効果だ」
「……冷酷無比な悪鬼に見えて、中身はフィンのスペックを正確に把握してるだけのエンジニア寄りだ。だからこそ、あのヘっぽこも死なずにあの防御力を手に入れた」
「……ふん、妙な分析をする男だ」




