低出力の解像度
(……静かすぎる)
耳を澄ませても、高周波の唸りが聞こえない。Wi-Fiの飛沫も、スマートフォンの電波も。街を埋め尽くしていた電子的ノイズが、この世界には一切存在しない。
代わりに、身体を静かに撫でる未知のエネルギーが、凪いだ水面のように世界を満たしている。
「ギギィッ!」
背後から走る殺気に、反射的に地を這い距離を取る。直後、頭があった場所を錆びた短剣が切り裂いた。
「……ッ、なんだ、こいつは」
ま
緑の皮膚をした小鬼――ゴブリン。一族の試練で見たどんな霊体よりも存在感は生々しく、物理的な「個」として完成されている。
ゴブリンが跳ねる。速い。
「……ふざけんな。こっちは死にかけたばっかりなんだよ」
レイジは指を組み、一族で叩き込まれた基本術式を意識の底から引き出した。平均的な、だが周波数だけは極端に細い霊力を指先に集める。
「――『遮断』」
硬質な音が響き、ゴブリンの刺突を霊力の膜が受け止めた。
だが、衝撃が重い。一撃ごとに、レイジの細い霊力の根幹を揺さぶる。
(出力の桁が違う。まともに同期を維持できねぇ……!)
レイジは舌打ちし、足元の石を掴んだ。正面から打ち合うスタミナはない。
ゴブリンが二度目の跳躍を見せた瞬間。
レイジは手の中の石を、奴の眉間ではなく、あえて「踏み出した足元」へと叩きつけた。
「調律――摩擦係数、零」
霊力を込めた石が、ゴブリンの足場の基底信号と干渉し、一瞬だけ地表の摩擦を強制的にデリートする。
「ギッ!?」
バランスを崩し、無様に転倒するゴブリン。その喉元へ、レイジは隠し持っていたペン型の小型ナイフを迷わず突き立てた。
断末魔。静まり返る森。
荒い息を吐きながら、レイジは座り込んだ。
ゴブリンの喉元へナイフを突き立て、絶命を確認する。
荒い息を吐きながら顔を上げると、所々が欠けた安物の木の杖を構えた少女が立っていた。
彼女の杖の先では、放たれようとしていた不格好な「光の塊」が、不安定に明滅している。
「……あ、死んだ……みたいですね」
少女――エレナは安堵したように肩の力を抜いた。杖の光は制御を失い、ボロボロと地面にこぼれ落ちて霧散した。
「大丈夫ですか! 驚きました……今の、魔力を使わない戦い方」
レイジは「魔法」という用語の定義を探るべく問いを返した。
「魔法、か。……悪いが、俺のいた所じゃ馴染みがなくてな。あんたが杖に集めていた光と、さっきの小鬼の力は同じものか?」
エレナは不思議そうに小首を傾げた。
「ええ、世界に満ちる根源的な力……『魔力』ですよ。でも、貴方からはそれがほとんど感じられません。なのに、どうやってあのゴブリンを……。もしかして、それって『気』の類ですか?」
「……あぁ、そんなもんだ。身体の中の熱を練って外にぶつける。あんたの言う『気』で間違いない」
「なるほど、剣士の方が使う技術ですね! 魔法が主流のこの辺りでは珍しいですけど、それであんな精密な動きを……」
納得したように頷くエレナを見て、レイジは内心で息を吐いた。とりあえずの偽装は通った。
(気、ね……。外からそう見えるなら都合がいい。どうせ俺は、この世界のメインシステム(魔法)には正規ログインできないんだからな)
レイジは、エレナの杖から漏れ出し、虚空に無駄打ちされる魔力を見つめた。
電子的不具合として弾かれた男は、今、異世界の「魔力」という強大すぎるエネルギーの「構造的な欠陥」を、誰よりも正確に観測し始めていた。
「あの、この辺りはたまにゴブリンが出るので……もしよければ、一緒に森を抜けませんか?」
エレナが杖を握り直し、申し訳なさそうに切り出した。
レイジは周囲を一瞥する。
「……あぁ。助かる」
木漏れ日が落ちる獣道を、二人は並んで歩き始めた。
静寂な森の中、レイジは自身の体調を裏でスキャンし続けていた。出力不足の霊力とはいえ、自身の身体のステータスを把握する程度の精密さは健在だ。致命傷はない。ただ、先ほどのゴブリンとの戦闘で消費したカロリーと、未知の環境への適応で神経がわずかに張り詰めている。
ふと、前を歩くエレナの足取りが、ごくわずかに不規則なリズムを刻んでいることにレイジは気づいた。
「おい、ちょっと待て」
「えっ? ゴブリンですか!?」
ビクッと肩を震わせ、エレナが杖を構える。そのオーバーな反応に、レイジは小さく溜息をついた。
「いや、違う。右足のふくらはぎ、切ってないか?」
「あ……」
エレナが自身の足元へ視線を落とす。革のブーツの少し上、生身が覗く部分に、木の枝か何かで深く引っ掛けたような裂傷があった。血が滲み、土埃と混ざって痛々しい。逃げ回る最中にアドレナリンで麻痺していた痛みが、指摘されたことで急速に戻ってきたらしい。
「いっ、いた……。気づきませんでした。ちょっと、治癒魔法をかけますね」
エレナは杖を傷口に向け、呪文のようなものを紡ごうとする。しかし、彼女の杖の先に集まる魔力は、先ほどゴブリンに向けようとしていた光と同様、ひどくノイズが混ざり、明滅を繰り返していた。案の定、光は形を成す前にパチンと弾けて消えてしまう。
「あうぅ……。焦ると、どうもうまく構成できなくて……」
無駄の多い魔力の動きを視界の端で捉えながら、レイジは無言でしゃがみ込み、エレナの傷口へと手をかざした。
「えっ、あの……」
「動くな。少し『気』を流す」
レイジは極細の霊力を指先に集め、エレナの傷口の細胞組織へとアクセスする。
やることは単純だ。断裂した組織の断面に自身の霊力の波長を同期させ、細胞が本来持っている修復プログラムの進行速度を強制的に引き上げるだけ。出力は全く必要ない。必要なのは、物質の最小単位にまでピントを合わせる狂気的なまでの「細密さ」だ。




