2-1
駅のホームへ電車が滑り込んでくると、風が吹いた。
春は黄色の線の内側へ半歩下がる。
優斗はここで死んだ。
そう聞かされてから、もう三日経っている。
なのに、春の中ではまだ終わっていなかった。
なら、ラインはなんだった。
春は何度も考えた。
スマホの故障。
予約送信。
誰かの悪戯。
でも、どうしても噛み合わない。
スマホが震えると春の肩が揺れた。
送り主、
海藤優斗
喉が鳴り、指先が冷たくなる。
春はゆっくり画面を開いた。
『着いた』
意味が分からない。
どこへ着いたのだ。
誰に言っているのだ。
その時、
「――おい」
後ろから、低い声がした。
春は振り返った。
知らない男が立っていた。
黒いコート、スーツ。
おそらく三十前後。
疲れた顔をしている。
駅の風景へ自然に溶け込んでいるのに、
なぜか視線だけが引っかかった。
男は春を見ていない。
春のスマホを見ていた。
正確には、表示された名前を。
海藤優斗。
男の眉がわずかに動く。
数秒、何かを考えるように 春を見る。
それから小さく言った。
「……お前、海藤の友人か」
春の思考が止まる。
なんで知っている?知り合いか?
男は「しまった」という顔をすると、それ以上何も言わず、踵を返した。
人混みへ紛れるように歩き出す。
「まっ……待ってください!」
気づけば、春は呼び止めていた。
しかし男は止まらない。
「なんで優斗を知っているのですか」
返事はない。
まるで聞こえていないかのようだった。
男は階段へ向かうと、春は反射的に追いかけた。
人混みへ入った瞬間、男の輪郭が妙に曖昧になる。
見えている、なのに少し目を離すだけで、瞬きをするだけで一瞬どこにいるのか分からなくなる。
春は人を避けながら進む。
男が一度だけ振り返った。
少しだけ、いや、かなり面倒そうな顔だった。
そして、小さく口を開く。
「揺らぎを借りる。 見えぬ。 されど在る」
独り言みたいな、暗号のようだった。
春は眉を寄せる。
何を言っているんだ。
意味が分からない。
周囲の人間は、誰一人気にしていない。
男はそのまま歩く。
まだ見えている。
黒いコートも、歩き方も、距離も、見失ってはいない。
男が階段を上がる。
春も追う。
その背中が、人混みへ紛れかける。
すると男の声が、最後に小さく耳に届いた。
「――君は私を見失う」
その瞬間、世界がずれた。
男の輪郭が、景色へ溶ける。
陽炎のように、視界が揺れた。
消えたわけじゃない、確かにそこにいるはずなのに、視線が引っかからない。
焦点が滑る。
通行人の肩が目に入る。
ガラスの反射や広告の光がキラキラと目に入り眩しい。
そして景色の中へ、男の存在だけが埋もれていく。
どこだ、右か、左か、分からない。
頭の奥へ妙な感覚が広がる。
もう帰ればいい、事故だった。
知らない男だ、関わるな。
そんな考えが、自分のものみたいに自然に浮かぶ。
春は立ち止まりかけると、スマホを握る手へ無意識に力が入った。
画面には、まだラインが呪いのように残っている。
『着いた』
優斗は死んだが、何かがおかしい。
春は息を呑み、顔を上げた。
人混みの奥に黒いコートが見えた。
春は反射的に踏み出す。
追いつくと男の肩が止まる。
男は振り返るとはっきりと驚き、数秒春を見る。
まるでありえないものを見るみたいに。
「……なんで追って来れる」
春には意味が分からなかった。
ただ、今ここで目を逸らしたら、もう二度と優斗へ辿り着けない、そんな気がした。
だから春は、初めて自分の感覚を無視しなかった。
自分の勘を、信じてあげた。
男は動かず、人混みの中で春を見ている。
視線が鋭く観察されている、そんな感覚があった。
春は息を整えると男の眉が、わずかに寄る。
「……海藤から何を聞いた」
「何も」
春は即答し、更に言葉を続ける。
「ただ分かるのは、最近様子がおかしかっただけです。 寝不足で、図書館行ってて、でも何も言わなくて」
春は違和感を男に吐き出すようにぶつける。
これまでの人生でずっと飲み込み続けたものを、知らない男に言っていた。
知らない男だからこそ言えたのかもしれないが。
男は春の話を聴いて黙る。
その沈黙が春の胸がざわつかせた。
優斗は、本当に何かに関わっていた。
事故じゃないし、ただの偶然でもない。
男は小さく息を吐く。
疲れているようにも、苛立っているようにも見えた。
「……最悪だな」
低い独り言。
その直後、男の視線が春の肩越しへ向いた。
通路の奥の何かを警戒しているみたいだった。
男は舌打ちする。
今度ははっきりと焦りが滲んでいた。
「来るな」
春が口を開く前に、男が小さく言う。
「オン・イハ・マリシエイ・マリーチム・アーダデー・ナ――――」
空気は変わらないし何も起きない。
春はただ、意味の分からない言葉を聞いていた。
男は春から視線を外す。
そのまま、通路の奥へ歩き出す。
春は反射的に追いかけた。
「だから、待ってください!」
男は振り返らない。
「――――ドゥリシュヤテ・アスティ・ヒ・ソワカ」
その瞬間、通路が分からなくなった。
春は足を止めるが、すぐに走り出す。
しかし、男になぜかついていけない。
別の道へ入ってしまう。
春は男を見失うとがむしゃらに進む。
ひたすら探すしかないと思った。
曲がるまた通路、また階段、また同じ広告。
息が浅くなる。
おかしいのは明白だった。
同じ場所を回っている。
春は振り返る。
さっき通ったはずの自販機。
剥がれたポスター。
まただ。
そして頭の奥がざわつく。
帰れ、もうやめろ、関わるな。
そんな考えが、妙に、だが自然に浮かぶ。
春は壁へ手をつく、呼吸が乱れる、頭が痛い。
でも、スマホを握る手だけは、 離せなかった。
画面には、まだラインが残っている。
『着いた』
優斗は死んだ、でも何かがおかしい。
春は顔を上げると通路案内板がある。
そこへ映る矢印が、全て左に歪んで見えた。
左。左だ。左へ行け。
なぜか、そんな感覚がある。
理屈じゃない、そっちだと思った。
春は左へ走り、角を曲がる。
その瞬間、景色が変わった。
人が少なく、蛍光灯が切れていて空気が古い。
その通路の奥で黒いコートの男が、初めて足を止めていた。
男は振り返る。
今度こそはっきりと異常を見る目だった。
「……抜けたのか」
あの低い声だった。
春には意味が分からない。
男は春を見て、警戒、困惑、そして少しだけ気味悪そうな感情が全部混ざっていた。
「なんなんだ、お前」
「水野春!」
春は息を整えようとするが、上手くいかない。
胸が苦しかった。
頭の奥もまだざわついている。
それでも、だからこそ聞かなきゃいけない気がした。
「……優斗に何があったんですか」
男は答えない。
視線だけが、春を観察している。
何かを測るみたいに。
「事故じゃないんですよね」
男の眉がわずかに寄り、男はまた黙り、しばらくして諦めたような顔をする。
「……最悪だな」
春は一歩踏み出す。
「優斗は何してたんですか」
男は通路の奥を見る。
やはり何かを警戒しているみたいだった。
それから言う。
「海藤は仕事で死んだ」
春の思考が止まる。
仕事。
男は視線を戻さない。
「相手を見誤った。……それだけだ」
感情の薄い声だった。
でもその方が逆に、 現実みたいだった。
優斗が死んだその事実だけは、葬式でも理解したつもりだった。
でも今、急に別の形へ変わっていく、戻っていく。
事故じゃない、何かと向き合って、失敗して、死んだ。
春は何も言えず、男が小さく目を閉じる。
「本来なら、 俺が処理するはずだった」
言葉を言った直後、男の目つきが変わった。
春は反射的に振り返る。
通路の奥、人の流れ、広告、白い蛍光灯、そしてその隙間。
黒い影みたいなものが横切った。
春の呼吸が止まる。
視線を向けた瞬間、頭の奥がざわつく。
見てはいけないと、そう思うが目が離せない。
影が揺れ 輪郭が定まらず景色へ滲む。
男が短く言う。
「下がってろ」
男が春の前へ出る。
その背中を見た瞬間、春の頭の奥で何かが繋がった。
夜道に誰もいないはずなのに、 妙に気配を感じた帰り道。
理由もなく避けていた公園。
踏切で、電車も来ないのに急に足が止まった瞬間。
全部、そういったことが全て一瞬で浮かぶ。
「あったんだ」
怖い。恐い。意味も分からない。
なのに少しだけ、安心している自分がいた。
そのことが、本当に一番気持ち悪かった。




