1-2
式場の窓から、午後の光が差し込んでいた。
春だった。
暖かくて、眠くなるくらい普通の日だった。
受付の横では、 親戚らしい人たちが小声で話している。
焼香の列がゆっくり進む。
遺影の中で優斗は笑っていた。
大学でふざけている時と、 何も変わらない顔だったその写真を春は見つめる。
この前まで生きていた。
学食で笑って、くだらない話をして。変なラインを送ってきて。
なのに周囲の人間は、もう優斗を事故で死んだ人として受け入れ始めていた。
それは当たり前の事なのだが、春はなぜか受け入れられなかった。
なぜかは自分でも分からなかった。
「ほんと急だったねえ……」
後ろで女性の声がする。
「駅で転んだとか聞いたけど」
「怖いわよねぇ」
普通の会話だった。
事故。
不幸。
かわいそう。
優斗が死んだことを、皆ちゃんと整理している。
現実を整理している。
しかし春だけが、そこへ上手く辿り着けなかった。
「慎也くん、春くん」
不意に名前を呼ばれ、 春は顔を上げる。
優斗の母親だった。
以前、何度も会ったことがある。
人はそう簡単に変わらない。
そう思っていた。
でも、優斗の母親は数日で別人みたいに痩せていた。
そんな急激に弱ってしまったような状態でも、 無理にでも笑おうとしている。
「来てくれてありがとうね」
春は小さく頭を下げた。
何か言わなければと思った。
でも、 言葉が出てこない。
代わりに、優斗の母親が遺影を見ながら小さく笑った。
「ついこの前まで普通だったのにね」
その言葉が妙に胸へ刺さる。
ついこの前まで普通、本当にそうだった。
優斗は笑っていた。
カツカレーを食って、ジジイとか言って。
どうでもいい話をして、また明日、会うはずだった。
「事故、だったんですよね」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
自分でも驚いた。
優斗の母親は少しだけ目を伏せる。
「警察の方が、そう言ってたから」
柔らかい声だった。
疑っていない声。
ちゃんと、現実を受け入れようとしている人の声だった。
春は小さく頷く。
それ以上何も言えなかった。
ポケットの中で、スマホが少しだけ重かった。
『今向かってます』
あのラインだけが、まだどこかで優斗が生きている証拠みたいに思えた。
葬式が終わり、帰る頃には日がかなり傾いていた。
春の夕方に差し掛かっていた。
駅へ向かう人の流れに混ざりながら、
春は一人で歩く。
慎也はダメージが大きかったらしく、まだ会場へ残っていた。
黒のネクタイが苦しい。
新品の黒のスーツにも慣れない。
何か嫌なものが全て黒として体と首に巻き付いているかのようだった。
全部、現実感が薄かった。
通りを歩く人たちはいつも通りだった。
カップルや買い物帰りの家族、笑いながら歩く高校生。
春はポケットの中のスマホを握る。
気づけば、
また優斗のトーク画面を開いていた。
ずっと変わらない。
当たり前だ。
死んでいるんだから。
そこまで考えて、春は足を止める。
本当に?
頭の奥で、またあの感覚が疼いた。
事故は21時半ごろ。
でもラインは23時過ぎ。
説明がつかない、なのに周囲は誰もそこへ引っかからない。
送信予約。
勘違い。
誤差。
皆、無理やりでも現実へ辻褄を合わせる。
春だけが、そこから取り残されているようだった。
駅前へ出る。
人混みの向こうに ニュースで見た改札が見えた。
野次馬やマスコミは、もうすっかりいない。
駅員も警察もいない。
事故なんて最初から無かったみたいに人が流れている。
春はしばらく、改札を見つめていた。
帰れなかった。
帰るべきか迷った。
優斗は死んだ。
そう言われているけども、どうしても実感が湧かなかった。
優斗が転落して死んだことがなぜか納得できない。
酔っていた?
ふざけていた?
足を滑らせた?
違う気がした。
理由は説明できない。
ただ、核心はないが納得できない。
その時不意に、誰かの声が頭をよぎる。
『俺ちょっと図書館寄る』
学食で別れた時の、 優斗の声だった。
春はゆっくり顔を上げる。
一号館の図書館、優斗は確かにそう言っていた。
気づけば、 春は大学の方へ歩き出していた。
理由は、自分でもよく分からなかった。
ただこのまま事故だったで終わらせたくなかった。
違和感を飲み込まないで、納得したかった。
*
大学図書館は、まだ灯りがついていた。
閉館まではあと三十分。
自動ドアを抜けると、静かな空気が肌に張り付く。
受付の奥では、司書さんがパソコンを見ている。
ページをめくる音。
遠くで椅子を引く音。
ペンをカリカリ、グリグリと紙に押し付ける音。
それ以外、ほとんど何も聞こえない。
春は少し立ち止まる。
自分でも、なんでここへ来たのか、上手く説明できなかった。
ただ、優斗は確かにあの後ここへ来ていた気がした。
『俺ちょっと図書館寄るわ』
昨日、別れ際に確かにそう言っていた。
仮眠でもするのかと思って、特に気にしていなかった。
春は受付へ向かう。
「すみません」
自分の声が、妙に場違いに響いた。
「3日前、ここって何時まで開いてました?」
司書の女性は少し驚いた顔をしたあと、壁の時計とカレンダーを見る。
「3日前ですか?ええと、基本開館日は21時までですが」
春は小さく頷く。
21時。
事故は21時半ごろ。
頭の中で、また時間が引っかかった。
「……友達がその日ここ来てたっぽくて」
司書は少し考える顔をした。
「閉館前ですか?」
「多分」
「さすがに個人は……ちょっと分からないですね。忘れ物ですか?」
「いいえ、そうではないんですが……」
春は小さくつぶやくように言う。
当たり前だった。
一日に何百人も来る場所で、
一人の学生なんて覚えていない。
でも、春はそこで言葉を止められなかった。
「……検索とか、何調べてたかって分かったりします?」
司書は困ったように笑う。
「利用履歴とかは、本人以外は見ることができないんです」
当たり前だった。
春は小さく頭を下げる。
「あはは……ですよね。すみません、ありがとうございます」
司書はそれ以上気にした様子もなく、 またパソコンへ視線を戻した。
春はその場を離れると、奥の検索用端末スペースに目を向ける。
閉館前だからか人は少ない。
蛍光灯の白い光だけが、静かに白く机を照らしていた。
春は空いている席へ座ると画面を開く。
利用者ログイン画面。
学籍番号とパスワード。
春の指が止まる。
やめた方がいい。
そんなこと、分かっていた。
しかし、
『今向かってます』
あのラインが、なぜか頭から離れない。
まるで、脳の真ん中を手でわしづかみにされ、直接引っ張られているようだった。
どこかへ、導くように。
春は小さく息を吐く。
優斗の学籍番号を打ち込む。
パスワード欄。
少し迷うと、それから、ゆっくり入力した。
誕生日。
エンターキー。
ログイン成功。
胸の奥が、少しだけざわつく。
優斗の名前が、画面右上へ表示される。
まるで、死んだ人間が、まだここにいるみたいだった。
春は無意識に、周囲を見回す。
誰もこちらを見ていない。
静かな図書館には、ページをめくる音、遠くの足音がある。
世界は普通のままだった。
春は視線を戻す。
検索履歴。
そこには、まるで見慣れない単語が並んでいた。
『民俗学』
『都市部失踪事例研究』
『認識補完と集団心理』
『神隠し伝承の変遷』
春は画面を見つめる。
意味が分からなかった。
優斗が、こんなものを調べる理由がない。
むしろ、こういう話は「胡散臭っ」 とか言って笑う側だった。
スクロールしていくと、履歴は途中から、似た内容ばかりになっていた。
論文。
郷土資料。
古い新聞データベース。
『集団認識における補完作用』
『都市伝説と共有記憶』
『失踪者証言に共通する認識齟齬』
春は小さく眉を寄せる。
どれも、今の自分へ妙に引っかかる言葉だった。
画面右端には、閲覧時間が残っている。
20:41
20:52
20:57
閉館ギリギリまで、 優斗はそれを見ていた。
春は無意識に、スマホを取り出す。
『今向かってます』 23:07
頭の中で、また時間が噛み合わなくなる。
その時。
履歴の一番下に、小さく表示された関連資料へ目が止まる。
『駅周辺における失踪事例』
春は小さく息を止める。
優斗が死んだ、 あの駅だった。
周囲は皆、優斗の死を 事故として受け入れている。
でも春だけ、そこへ上手く辿り着けない。
春はゆっくり椅子へもたれた。
静かな図書館。
蛍光灯の白い光。
色々と考えていると、まもなく閉館を知らせる音楽が流れ始める。
その音を聞きながら、春は初めて思う。
優斗は事故の前に、何かを知っていたんじゃないか。
閉館の音楽が終わる頃、春は図書館を出た。
昼間の暖かさだけが、まだ少し空気に残っていた。
キャンパスを歩く学生の姿も、 昼よりずっと少ない。
アルコールが乗った笑い声。
自転車のブレーキ音。
遠くでサークル帰りらしい集団が騒いでいる。
世界は普通だった。
普通すぎるくらいに。
春はポケットの中で、スマホを握る。
優斗は、何を知っていた?
何を調べていた?
どうして、あの駅だった?
春は歩きながら、小さく息を吐く。
帰ろうと思った。
今日はもう、考えるのをやめた方がいい。
事故だった。
偶然だった。
検索履歴だって、ただ興味本位だったのかもしれない。
そうやって、全部説明できる、できるはずだった。
*
気づけば、春は事件があった駅前へ来ていた。
大学帰りや、遊びの帰りに 何度も使ったことのある駅だった。
なのに今日は、少しだけ別の場所みたいに見える。
地下へ続く階段。
ガラスへ反射する白い照明。
流れ続ける人波。
春は改札を抜ける。
生ぬるい空気。
地下特有の、 少し湿った匂い。
電車が通るたび、音と 風が吹き抜ける。
ここで、優斗は死んだ。
そう言われている。
春は長い通路を歩く。
壁へ貼られた広告。
白いタイル。
足音。
人は多いのに、妙に静かだった。
ホームへ降りると黄色い線が見える。
ホームにはスマホを見ている会社員やイヤホンをした大学生らしき人。
誰も事故のことなんて、もう気にしていないみたいだった。
春はホーム端を見る。
ニュースには、この辺りで転落したと書いてあった。
でも、どうしても、優斗がここで落ちる姿が想像できない。
その時だった。
一瞬だけ、誰かと目が合った気がした。
ホームの奥。
春は反射的に顔を向ける。
でも次の瞬間には、もう分からなかった。
電車待ちの列、駅のアナウンス、それだけ。
春はしばらく、その場所を見つめる。
今、誰かいた気がした。
見られていた気がした。
でも、本当に?
ホームへ電車が滑り込んでくる。
風が吹き髪が揺れる。
開くドアと降りてくる人の流れ。
春はその場から動かなかった。
優斗はここで何を見た?
何に気づいた?
しばらく考えて、春は小さく息を吐く。
帰ろう、そう思った。
これ以上考えても、どうにもならない。
事故だった、ただの偶然だった、優斗は死んだ、それだけだ。
そうやって、いつものように現実へ戻ろうとした。
納得をしようとした。
その時、スマホが震えた。
春の肩が、 小さく跳ねる。
画面を見ると、ラインの送り主には、
海藤 優斗
心臓が、止まりかけたかと思うと急激に動き始める。
ありえない。
そんなはずがない。
優斗は死んでいる。
春は固まったまま、 汗ばんだ手でゆっくり画面を開く。
トーク画面の一番下、
『今向かってます』 23:07
その下に、今まで無かったはずの、未読メッセージが一件増えていた。
春は息を止める。
さっきと変わらず、ホームへ電車が入ってくる音が響く、人が歩いている、アナウンスが流れている。
世界は普通に動いている。
なのに、春だけが、そこから少し外れていく。
画面の下に未読が1件。
送信時刻、23:31
春の指が、わずかに震える。
開けば、何かが変わる気がした。
もう戻れなくなる気がした。
でも、春はゆっくり、その未読へ指を伸ばす。
――そこで、画面が切り替わった。




