1-1
会場は静かだった。
静かで当然だった。
お坊さんの声も、椅子を引く音も、誰かが鼻をすする音も、全部同じ距離で耳に入ってくる。
花にまみれた祭壇の中央で、海藤優斗が笑っている。
大学の入学式に撮った写真だろうか。
紺のスーツが全く似合っていない。
見ていられなくて目を逸らした。
視線を向け続けるのが、なぜか疲れた。
焼香の列がゆっくり前へ進んでいく。
隣では慎也が、さっきから何度も鼻を触っていた。
泣くのを我慢するときの癖だ。
「……まだ信じられんわ」
慎也が胸を絞るように小さく言うと、春はそれに曖昧に頷く。
「だってついこの間だぞ。普通にいたじゃん」
「うん」
「なんか実感なくね?」
「……そうだな」
それ以上、言葉が続かなかった。
実感がない。多分、それは正しい。
ただ、春の感じている実感のなさは、慎也の言っているものと少し違う気がした。
優斗が死んだことが信じられないわけではない。
むしろ逆だった。
優斗が死んだ、という事実だけが妙に重くて、それ以外の全部が薄かった。
事故の話も。
警察の話も。
親族の話も。
全部、遠い。
まるで最初から、 自分と関係のない誰かの話みたいだった。
「お前、大丈夫か?」
慎也が春を見る。
「顔色悪いぞ」
「寝てないだけ」
「まあ、そうだよな」
「なんかさ……」
「うん?」
「…まあ……なんだっけ。言いたいこと忘れた」
慎也は少し笑った。
「でた。ド忘れモード」
「うるせえ」
「ほんと、ずっとだよな」
「うるせえ」
昔から、確かにそうだった。
小さい頃から、時々こういうことがあった。
周りは普通なのに、自分だけ何か引っかかる。
でも口にすると、大抵変な空気になる。
だから、なるべく考えないようにしてきた。
言おうとして、やめて、忘れたふりをした。
慣れるとその方が楽だった。
前の席で、優斗の母親が頭を下げていた。
参列者が、順番に言葉をかけていく。
「優しい子でしたね」
「本当に突然で……」
「残念です」
皆、ちゃんと悲しんでいた。
それは分かる。
しかし春は、自分だけ別の場所に立っているような感覚が抜けなかった。
焼香の順番が来て、立ち上がった瞬間スマホが震えた。
反射的に画面を見ると、時間が映る。
4/16 (木) 12:34
通知はなかった。
気のせいか、と思った。
画面を閉じようとして、指が止まる。
ロック画面のまま開かれた通知欄に、見覚えのある名前が残っていた。
海藤 優斗
その下に、小さく。
『今向かってます』
日付は、三日前だった。
親指で画面を押す。
トーク画面が開く。
直前のやり取りをさかのぼるが、本当にどうでもいい内容だった。
『講義サボる?』
『出席だけ取る』
『じゃあ学食集合で』
春はしばらく、たぶん一生変わらない画面を見て、なにか見落としているのではないかと三日前のことを何度も思い返していた。
*
「いや、お前絶対寝坊してるだろ」
少し掠れた、笑い混じりの声が聞こえる。
「だから、普通に起きたって」
駅を歩くが、ところどころ通話が遠くなる。
『声終わってんじゃん』
『もしもーし』
電話の向こうで優斗が笑い、しばらく何も聞こえなくなると通話を切ると、すぐにラインで連絡を再開した。
『お前また徹夜した?』
『レポート』
『嘘。ゲーム』
『半分は乱闘してましたわ』
『クズ』
『半分クズな?』
春は欠伸を噛み殺した。
改札前は混んでいる。
スーツ姿の会社員と、制服の高校生と、キャリーケースを引いた外国人が、ごちゃごちゃに流れていく。
『慎也もう大学来てるって』
『はや』
『あいつ今日一限しかないからな』
『そうだった』
『いつものとこ?』
『いつものとこ』
雑踏の音と遠くでブレーキ音が駅を埋める。
春は改札を抜けた。
柱の広告が春の新生活キャンペーンを流している。
その前で、小さい女の子がしゃがみ込み、母親が困った顔で手を引いている。
「行こ?」
女の子は首を振った。
「やだ」
「なんで?遅れちゃうよ?」
「やーだ」
泣くほどではないが、本気で嫌がっている声だった。
春は何となく周囲を見た。
人混みと広告しかない。
電車がホームへ入ってくる音、アナウンスと改札音。
何もおかしくない。
それでも、少しだけ空気が冷えている気がした。
春は目を逸らす。
考えない方がいい。
昔から、時々こういうことはあった。
嫌な予感というか、寒気というか。
こういうのってスピってるというのだろうか。
とかなんとか考えているうちにいつものところに着くと、優斗はもう来ていた。
柱にもたれたまま、スマホを見ている。
黒いパーカーに、見慣れたリュック。
『前』
ラインを入れると優斗は顔を上げヘッドホンを取る。
「あ、いた」
軽く手を上げると、春も片手を上げ返す。
「寝癖やば」
開口一番、優斗が言った。
「うるせえ」
「後ろ爆発してる」
「帽子被ればよかった」
優斗が笑うと、春はその顔を見ながら少しだけ安心していた。
さっきまでの妙な感覚が少し薄れる。
友達と話していると、 余計なことを考えずに済む。
「慎也は一限だっけ」
「学食、席取ってるって」
「珍しく有能じゃん」
二人で歩き出す。
駅前は昼前の人混みで騒がしかった。
ティッシュを配る人。
イヤホンをつけた大学生。
キャリーケースを引いた外国人観光客。
風に混じって、中華料理屋の油っぽい匂いが流れてくる。
歩き始めたと思ったら優斗が急に立ち止まった。
「ん?」
春も足を止める。
「……いや」
優斗は横断歩道の向こうを見ていた。
「今、なんか知り合いいた気した」
「誰」
「分からん」
優斗は笑いながら首を振る。
「見間違いかも」
信号が青になると人の流れが一斉に動き出す。
「疲れてんじゃね」
春が言うと、優斗は小さく肩を竦めた。
「かも」
それで終わった。
二人とも、それ以上は気にしなかった。
八号館の学食は昼のピークの少し前だった。
慎也が窓際の席で手を振っている。
「おせー」
「お前が早いんだよ」
荷物を置くと三人でトレーを取る。
優斗はいつも通りカツカレーだった。
「またそれ?」
「一番うまい」
「胃もたれしない?」
「若いので」
「二十歳越えて胃もたれ言うやつ初めて見た」
「ジジイ」
慎也が呆れた顔をする。
優斗は笑いながら席へ座った。
その瞬間、春のスマホが短く震えた。
画面を見ると姉からメッセージ、それとニュースアプリ。
『東京メトロ丸ノ内線、人身事故のため一部遅延』
ただそれだけ。
春は画面を閉じる
「どした?」
優斗がスプーンを咥えたまま聞く。
「いや」
春はスマホを伏せた。
「なんでもない」
昼を過ぎると、学食の席は少し空き始めていた。
窓際では新歓らしい集団が騒いでいる。
どこかのサークル勧誘動画が、スマホ越しに大音量で流れていた。
「うるさ……」
慎也が顔をしかめる。
「こういう時期だけ陽キャ人口三倍になるよな」
「冬には絶滅する」
優斗が水を飲みながら言った。
「お前ら今年どうすんの」
慎也がポテトを摘みながら言う。
「新歓」
「行かね」
「行かねえな」
「二年でそれ言ってんの終わってるって」
「去年でもう十分見た」
優斗が笑う。
「ウェイ新入生に囲まれてビンゴ大会とかしたくない」
「お前去年地味に楽しんでたじゃん」
「タダ飯は楽しかったし、おんなn、、色々美味しかったよ?」
慎也が呆れた顔をする。
「お前ほんとブレねえな」
「隠せてない」
誰かが笑って、誰かが返して、また別の話になる。
全てどうでもいい話。
春は、こういう時間が嫌いじゃなかった。
無理に盛り上げなくていいし、沈黙があっても気まずくない。
昔から、 この二人といる時だけは、 変に考え込まずに済んだ。
「てか履修決まった?」
慎也が春を見る。
「まだ」
「お前、またギリギリやぞ。もう修正期間、、」
「毎回なんとかなる」
「去年も同じこと言って地獄見てたじゃん」
「それが俺を強くした」
「それは本来しなくていい努力」
優斗が笑いながら水を飲む。
気づくと優斗の視線が、しばらく窓の外へ向いていた。
春もつられて見る。
風に揺れる木と、通り過ぎる学生の姿しかない。
「どした」
春が聞くと、優斗は少し間を空けてから、
「……いや」
とだけ言った。
それから、いつもの調子で肩を竦める。
「最近ちょっと寝不足かも」
「珍しいな」
「特に昨日あんま寝れてない」
慎也が笑う。
「お前いつも早く寝てるだろ」
「寝たけど浅かったし、結構早くに目が覚めた」
「何時」
「6」
「ジジイかよ」
そのまま話は別の方向へ流れていった。
講義の愚痴。
教授のモノマネ。
単位の話。
笑い声。
窓の外では、 春の風がずっと吹いている。
気づけば、もう三限が始まる時間だった。
「じゃ、俺バイトあるから先行くわ」
慎也が立ち上がる。
「はや」
「一限しかないたまに有能な奴なんで」
「自分で言うな」
トレーまとめながら、優斗が笑った。
春も立ち上がる。
「優斗は?」
「俺ちょっと図書館寄る」
優斗がリュックを背負う。
「一号館の?」
「うん」
「早速さぼっていつもの仮眠再開?」
「多分」
「多分ってなんだよ」
三人で学食を出る。
廊下には次の講義へ向かう学生が流れていた。
誰かが走っていく。
遠くで笑い声が響く。
エレベーター前で、 慎也が手を上げた。
「じゃーな」
「おう」
優斗も軽く手を上げ返すと春もそれに続いた。
それだけだった。
特別な言葉なんて、何もない。
大学が終われば、 また普通に会うと思っていた。
*
夜十時を過ぎても春は起きていた。
机の上には開きっぱなしの履修登録画面。
結局まだ迷っている。
ベッドへ寝転がったまま、スマホを眺める。
SNS。
動画。
ニュース。
適当に指を動かしているうちに画面が震えた。
海藤 優斗
通知欄に名前とメッセージが出る。
『今向かってます』
短い文だった。
春は眉を寄せる。
『なんで敬語』
そう打とうとして、やめた。
まあいいか、と思った。
優斗は時々、意味の分からない連絡を寄越す。
酔っている時なんて特にそうだ。
春はスマホを伏せた。
窓の外で遠くを走るバイクの音がした。
窓を開けると、まだ春だから、少しだけ風が冷たかった。
*
その翌日、優斗は大学に来なかった。
「寝坊だろ」
一限終わり、慎也が欠伸混じりに言う。
春はスマホを見た。
「珍しいな」
「昨日寝れてないとか言ってたしな」
慎也は特に気にした様子もなかった。
春もその時点ではそこまで気にしていなかった。
優斗は真面目ではない。
講義をとばすこともあるし、昼過ぎまで寝ている日も普通にあった。
「学食どうする」
「行く」
二人で席を立つ。
廊下には学生が溢れていた。
春特有の、少し浮ついた空気。
新しい教科書。
サークル勧誘。
まだ馴染み切っていない一年生。
その中を歩きながら、春はもう一度スマホを見る。
連絡は来ていない。
学食で慎也がラーメンを啜りながら言う。
「優斗いたら絶対カツカレー食ってたな」
「毎回それだよな」
「金ない言うくせに地味に高いもん食う」
「実は稼いでんだよ」
「ないな」
春は少し笑った。
昨日と何も変わらない気がした。
いつも通りの日常。
午後になって講義が始まっても、優斗から連絡は来なかった。
慎也が電話をかけるが出ない。
「ガチ寝てんじゃね」
慎也は笑っていたが、 夕方になる頃には、少しだけ声の調子が変わっていた。
「……あいつバイト今日じゃなかったっけ」
「知らん」
春は短く答える。
スマホを見る回数が増えていた。
『今向かってます』
短い文字が、 通知欄に残ったままだった。
講義が終わると、がやがやする教室で 誰かが言った。
「昨日、駅で事故あったらしいよ」
それだけ妙に聞き取れた。
別の誰かが反応する。
「あー、なんか救急車めっちゃ来てたやつ?」
「人身?」
「原因不明だって」
雑談だった。
誰も深刻そうには話していない。
春は何となく顔を上げた。
窓の外は、 もう薄暗くなっている。
横を見ると慎也がスマホをいじっている。
「昨日、駅前で事故あったらしいね」
「事故?」
「駅。原因不明の死体だってニュース出てる」
春は反射的にスマホを開くと小さな記事が目に入る。
『昨日21時半ごろ 駅構内で男性の遺体見つかる』
まだ身元は出ていない。
春は記事を見つめたまま、小さく息を吐いた。
その瞬間、頭の中に昨夜のラインが浮かぶ。
『今向かってます』
送信時刻 23:07
春は小さく眉を寄せる。
……なら、違うか。
少なくとも23時には優斗はスマホを触っていたから、事故の時間とは合わない。
「まあ、違うだろ」
いつの間にか入っていた力が、そっと抜けた。
慎也も頷く。
「連絡つかんだけで決めつけるのもな」
そう言いながらも、慎也は何度もスマホを見ていた。
教室の空気が、少しずつ変わっていく。
誰も何も言わない。
嫌な感じは残っていた。
*
駅前に出るといつも通りに人が多かった。
信号待ちの列とコンビニ前でたむろする大学生。
いつもの誰かの笑い声。
慎也は歩きながら何度かスマホを見ていた。
指が画面を高速でたたく。
多分、優斗にスタンプを連打している。
春もポケットの中で、 何度もスマホを触った。
でも、 トーク画面だけは開かなかった。
「……なあ」
慎也が前を向いたまま言う。
「優斗じゃないよな」
春は少し遅れて頷いた。
「……違うだろ。11時過ぎても連絡とってた」
「じゃあ酔ってどっかに落としたか」
「それやん」
その声には、 自分でも分かるくらい確信がなかった。
信号が青になると、の流れに押されるみたいに 二人も歩き出す。
何となく、手が寂しくてスマホを取り出すとニュース通知が目に入る。
『原因不明事故 身元判明』
胸の奥が、嫌な音を立てた気がして画面を開く。
『海藤優斗さん(20)』
春の足が止まる。
周囲の人間が、ぶつかりそうになりながら横を通り過ぎていく。
慎也が振り返る。
「……は?」
「なに?どしたよ」
春は答えなかった。
答えられなかった。
頭の中で言葉が上手く繋がらない。
優斗。
事故。
死亡。
さっきまで、 どこか現実味のない話だったはずなのに。
急に、名前だけが生々しく背中に乗っかった。
慎也は春のスマホを覗き見ると顔色が、少しずつ変わっていく。
「……マジかよ」
掠れた声だった。
クラクションを鳴らされ、ハッとすると急いで信号を渡る。
昨夜の通知が頭に浮かんでいた。
『今向かってる』
春は急いで、トーク画面を開いた。
海藤 優斗
一番下。
『今向かってます』
送信時刻 23:07
画面を見つめたまま固まる。
事故は二十一時半ごろ。
確かにニュースにはそう書いてあった。
なら23時7分のラインは、なんなんだ。
「……おかしくね」
気づけば口から漏れていた。
慎也が顔を上げるとすごく汗をかいていた。
「え?」
春はスマホ画面を見せる。
「これ、時間が合わないんだよ。ほら!ここ!」
慎也は数秒、黙ったまま画面を見ると、少し考えるように視線を逸らした。
「……送信予約とか?」
春は何も言えなかった。
一瞬だけ、なるほどと思った。
事故の前に打って時間指定していたなら、説明はつくし辻褄も合う。
でも。
数秒遅れて、別の感覚が浮かぶ。
いや、正常に戻ったのだ。
そんなわけないだろ。
優斗が、『今向かってます』なんて内容を、 わざわざ予約送信する意味がない。
というか、ラインにそんな機能あったか?
春はゆっくり顔を上げると、慎也はもう半分納得した顔をしている。
無理やりでも 現実へ辻褄を合わせようとしている顔だった。
周囲では、信号の電子音が鳴り、人が歩いている。
世界は普通に動いているのに、春だけが、そこから少し外れ始めている気がした。




