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2-2

 

「来る」


 男は振り返らず、 通路の奥を見たまま言う。

 何が来るのか、春にはもちろん分からなかったが、きっと「普通じゃない」ものが来るという予感はしていた。

 普通じゃない何かが、顕現なさる。

 春が男の目線を追った次の瞬間、黒い影が人混みの中からこちらを見た。

 目など確認できないのに、絶対に目が合ったと確信した。

 人混みの中に当然であるかのように、黒い塊がそこに在る。

 さっきまでは()()()()()()のに、今ではハチ公像のように、ずっと昔から()()()()()()()()()()()かのように感じる。

 黒い影のような立体的な何かの塊は、春が瞬きをするたびに、何かを照らす光の角度が変わるかのように明らかになっていき、それと同時に罪悪感と解放感に駆られていく。


 見てはいけない。

 見たら放っておけなくなる。

 そしたらまた、変な奴認定。

 誰に?

 だが見なくてはいけない。

 優斗の秘密がすぐそこにある。

 周りに合わせるのはもうやめたい。

 今まで通り見ないふりをするのをやめたい。

 しっかり見て、しっかり理解する。

 俺は、もう自分をごまかさない。


 黒い塊が晴れていくと春の頭の中も同時に晴れたかのようでスッとして気持ちよかった。

 硬そうで分厚く、乱雑な切り口の爪が見え、異様に多い指の関節は人ならざるが、全体的な形は人の手そのものだ。

 生気の無い曇りの空のような灰の肌には深く皺が刻まれ、たるんだコラーゲンの質感は死ぬ間際の老人の手が想像された。

 手首より繋がる腕は無く、関節でスパッと切断されていたようだった。

 切り口からは絶え間なく、黒いどろりとした原油のような液体が垂れ続けている。

 

 これはなんだ?

 恐怖というより好奇心が勝った。

 産まれてからずっと目をつぶって、アイマスクをして生きてきたとして。

 音と触覚と匂いと味だけで生きるのを強要されている世界があったとして。

 突然目を開いていいよとなったとしたら、きっとこんな感じだろう。


 春は周囲を見る。

 ホームから流れてくる人波、スーツ姿、学生、家族。

 誰も通路の中央に立つ巨大な手を見ていないし、ぶつかりもしない。

 自然に避けて歩いていく。

 原油に似た液体が靴先をかすめたように見えても、誰も足元を見ない。

 最初から、そこに何も無いみたいに。

 全員が目をつぶって、アイマスクをしているみたいに、()()()()()()

 男が小さく舌打ちする。


 「しょうがない」


 その諦めたような横顔から、疲労が消えている。

 男が短く詠じる。


 「 道返坐大神に畏み申し上げる。この足下より、彼方の口までを境となし、現し人の足を外へ流し給え。人ならざるものは、入りて帰る道を得じ――――」


 声は静かで目の前の誰かと一対一話しているようだ。

 春には意味が分からない。

 男が最後に低く落とす。


 「――――ここに、返らずの境を結び奉る」


 すると人の流れが変わった。

 さっきまで通路を歩いていた人間たちが、不自然なほど綺麗に逸れていく。

 誰も止まらないし誰も気づかない。

 ただ自然に、この通路だけを避けていく。

 駅の喧騒が少し遠くなる。

 確かに人はいる、電車の音もする。

 なのにこの場所だけ、現実から半歩外れたみたいに静かだった。

 春も気が付くとどこかに行こうと歩き始めていたがピタリと止まる。

 男の眉がわずかに寄る。


 「……残るのか、たいしたもんだ」


 春の心臓が強く脈打つ。

 意味は分からないが、その一言だけで理解してしまった。

 自分だけここにいる。

 男のまじないが自分には効いていない?

 歩かなければ、ここから離れなければという感覚がもう薄れている。

 春は無意識に男を見る。

 優斗のことを知っている人間。

 その視線だけで十分だったのかもしれない。

 男は数秒だけ黙る。

 それから諦めたみたいに息を吐いた。


 「……あれをどうにかしたら話す。だから今は、絶対動くな」


 巨大な右手を見ると、空中を押すような動きをする。

 その所作はどこか貴族的な、呪術的な、儀式的な、優雅さを感じた。

 次の瞬間、男の身体が弾かれた。

 横殴りに吹き飛ぶ。

 靴底が床を滑り、削る。

 壁へ激突する寸前に男が低く呟く。


हां(カン)


 短い声を出すと男の身体がピタリと止まった。

 足はついているが、まるで無重力下のように壁の数センチ手前で静止している。

 片足を床へ叩き地団太を踏む。


 コツン


 革靴の裏と床が乾いた音を出すと、身体が重力を取り戻したかのように地面に落下する。

 間を空けず、右手が再び押す形になる。

 男の身体が揺れるが今度は飛ばない。

 両足を軸に耐えているというよりは、相反する力を加え相殺しているかのようだった。

 男は右手から目を決して逸らさない。

 春の方を見ずに、別の詠唱を加える。


「オン・バロダヤ・ナーガム・アーダデー・タム・デーハム・ラクシャ・バラム・ジャレ・ヴァハ・ソワカ」


 人がここを避け、駅の喧騒が弱まっていたからか、その言葉がはっきり聞こえる

 すぐに春の周囲へどこから湧いてきたのか透明な水が現れた。

 細い帯のようだ。

 まるで蛇がとぐろを巻くみたいに、春の周囲の空中をゆっくり回り始める。

 春は息を呑む。

 輪を描くみたいに身体の周囲を巡り、水は床へ落ちないのだ。

 目が離せないでいると、通路の反対側の壁際に黒い塊が床から生えてきたのが見えた。

 つぎは大きな左手。

 黒い液体を纏いながらゆっくり現れる。

 男の目つきが変わる。


 「やはり増えたか」


 左手が春へ向いた。

 今度は俺が押される――――

 そう理解すると同時に左手が傾く。

 身が強張って、手が自然と守りの体制に入る。

 だが春は押されなかった。

 水面をたたくみたいな音がして、透明な帯の水が春の代わりに弾ける。

 押された力が、水へそのまま流される。

 春は動かないが、水だけが大きく揺れた。

 男は手から目をそらさない。

 少し間を空けて左右の手が同時に男へ向いた。

 両手が同時に動くと、先ほどまで立っていた男の身体が吹き飛ぶ。

 左右からの圧力が同時にかかった。

 挟み込むみたいに。

 すると男が低く呟く。


 「ह्म्मां(カンマン)


 今度はさっきよりはっきりとした声だった。

 すると男の身体がまたも空中で止まる。

 右手と左手が迫る。

 それでも動かない。

 男の足元へ亀裂が走る。

 空間が押されているようで床が軋む。

 なのに男は微動だにしない。

 右手が更に男を押し込みながら近づいてくる。

 左手も逃げ場を塞ぐみたいに、ゆっくり距離を詰める。

 人間の身長ほどの巨大な掌が、通路の左右から少しずつ近づいていく。

 

 「……来るか」


 男が短く詠じる。


 「オン・バロダヤ・ナーガ・カヴァチャム・アーダデー・アスミン・デーヘ・ドゥシュタム・ニヴァーラヤ・ソワカ」


 まじないを唱えると、男の身体を押していた圧が、掌から滑り落ちるかのようにするすると滑った。

 男は地面へ着地する。

 それと同時に巨大な左右の手が合流し閉じた。


 パン。


 乾いた音が地下通路へ響いた。


 柏手。

 祈るみたいに、何かへ縋るみたいに、柔らかく手が合わさっている。

 閉じた掌が徐々に離れると、隙間から白い光が漏れてくる。

 次の瞬間、熱が通路を走った。

 春の周囲を巡っていた水が白く弾けては、再び守るように水をつくる。

 蒸気で視界が霞む。

 人生で一番熱かった。

 男が片手を振ると、春と男の足元に水が一気に溢れた。

 地下通路へ大量の水が流れ出す。

 白い蒸気がさらに広がるが、今度は不思議と熱くなかった。

 視界が完全に潰れ、巨大な手の輪郭が霞む。


 「オン・イハ・マリシエイ・マリーチム・アーダデー・ナ・ドゥリシュヤテ・アスティ・ヒ・ソワカ」


 男が何か唱えると春の腕を掴んだ。


 「走れ」


 すると反応する間もなくとんでもない力で手を引かれた。

 白い蒸気の中を春は半ば引きずられるみたいに走っていた。

 足音。

 水音。

 背後で何か巨大なものが動く気配だけがした。

 男は振り返らない。

 春の腕を掴んだまま、迷いなく通路を曲がっていく。

 蒸気を抜け階段を上がっていく。

 湿度が一気に下がり、気持ちよかった。

 急に、駅の音が戻った。

 アナウンス。

 話し声。

 改札音。

 スーツ姿の男が横を通り過ぎる。

 女子高生が笑っている。

 駅の様子はいつも通りだった。

 誰も何も気づいていない。

 外に出ると男は足を止めた。

 春はまるで息ができなかったのだが、男は疲れていないようだった。

 呼吸が乱れる。

 肺が熱い。

 なのに周囲は、いつもの東京だった。

 男がようやく春の腕を離す。

 そのまま地面にしゃがみ込み、めんどくさそうに深く息を吐いた。

 さっきまでの鋭さが少しだけ消えている。

 春は言葉が出ない。

 あれだけ蒸気を吸ったのに喉が乾いていた。

 頭の中がまだ整理できていない。

 巨大な手。

 水。

 白い光。

 全部リアリティがない。

 なのに自分の腕へ残る水滴は本物だった。

 男がコートの内ポケットを探る。

 煙草を咥えかけて、舌打ちして戻した。

 春はそれをぼんやり見ていた。

 男が低く言う。


 「……見えたんだな」


 春はゆっくり頷き男はしばらく黙る。

 何か考えているというより、周囲へ何か残っていないか確認しているみたいだった。

 それから煙草の煙を吐き出すように小さく息を吐く。


 「最悪だ」


 春はようやく声を出せた。


 「……何なんですか、あれ」


 男は少しだけ誤魔化すか考えた。

 そんな間があった。

 でも、もう無理だと諦めたみたいに小さく言う。


 「(こん)だ」


 短い言葉に春は眉を寄せる。

 聞いたことがない。

 男は続ける。


 「人間の認識が溜まって形になったもんだ」


 淡々とした声だった。

 講義みたいに丁寧に説明する気はなく、必要最低限だけ喋っている。

 頭の奥がざわつく。

 でも今度は怖さだけじゃなかった。

 今までの違和感が繋がっていく心地よさだ。

 夜道で感じた視線。

 理由もなく避けた場所。

 誰も気づかない違和感。


 全部「あった」んだ。


 春は無意識に口を開く。


 「……優斗も」


 男の視線が動き横目に春を見る。


「優斗もあれを見てたんですか」


 数秒して男は言った。


 「海藤はあれを処理しようとしてた」


 その言葉には妙な現実感があった。

 事故じゃない、優斗は何かと向き合って死んだ。

 男がそっと立ち上がる。


 「……一般人なら、ここで気絶して、起きたら記憶がぶっ飛んでる」


 ストレスが強く乗っかった声。

 自分は悪くないのに、まるで悪いことをしたように感じる声。


 「だがお前はもう無理だ」


 春は何も言えない。

 春は男の目を見る。

 色々と諦めた、しかし覚悟を決めた目だった。


 「人避けを抜けた。渾も見えた。術も見えた」





 「もう戻れないと思え」


  



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