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ヘブンズガーデン・ゼロ  作者: 山中一郎
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第一章   雨降りの温室

「ゼロ! 起きて!! ゼロ!!」


 ゼロのセンサーに、聞き慣れた声が聞こえてくる。

 徐々に徐々に起動していくゼロのメインカメラの映像が、ゼロに必死で呼びかける一人の少女の姿を捉えた。

 小さな女の子。

 着ている服は薄汚れて、所々がほつれているが、その可愛らしい顔とブロンドの髪、そして心地よく響くその声が、ゼロに彼女が誰なのかを認識させた。

 ナタリー・クルス。それは、クルス夫妻によってゼロに定められた、ゼロが護るべき少女の姿だった。

 聞き慣れた声に、ゼロが電源を抜かれた時から変わらぬ、見慣れたナタリーの姿。ナタリーの泣きそうな呼び声に、ゼロは彼女が自分の電源を再び入れてくれたのだと分かった。


「起きて……! お願い、ゼロ……」


 ゼロは自身の体が起動したことを確認するように、涙の跡が残るナタリーの頬へと手を伸ばした。小さく軋む音を立てる鋼鉄の腕が、彼が長い間動いていなかったことを感じさせる。


「ゼロ……? ゼロ!!」


 ゼロが起動したと分かると、ナタリーはゼロの胴部に抱き付いた。


「ゼロ……。良かった……。ちゃんと電源入れられた……」


 ゼロはナタリーの頭を優しく撫でてから、彼女の体を強く、ぎゅっと抱きしめた。


「ゼロ、苦しい、苦しいよ……」


 慌ててナタリーを放し、ゼロはゆっくりと立ち上がる。

 辺りは暗く、点滅する電灯の灯りが、ナタリーとゼロを断続的に照らし出す。ゼロが電源装置を抜かれて眠っていたその物置には、埃を被った箱や、様々な工具が一緒に置かれていた。

 ゼロに強く抱き付いたまま、離れようとしないナタリーの様子が、ゼロにはどうにもおかしく思えた。ナタリーは怯えているかの如く体を震わせている上に、彼女の手足にはたくさんの傷が付いている。


「ゼロ! お願い、助けて! 早くここから出よう! 私があなたを起こしに行ったかもって、お母さんが探しに来るかも……」


 ナタリーがゼロの手を掴んで、引っ張った。鋼鉄の塊であるゼロは、ナタリーがどれだけ頑張って引っ張ろうともびくともしないのだが、ゼロはナタリーに何があったのかを知りたくて、彼女に連れられて暗い部屋を出ようとした。

 まず、ゼロが奇妙に感じたことは、部屋の扉が酷くへしゃげていることだった。加えて、へしゃげた扉の隙間から見える廊下の床と壁が、黒く焦げているようにも見えた。

 ナタリーが扉の隙間をくぐって、ゼロに呼びかけた。


「ゼロ、大丈夫? 外、出られる?」


 ゼロは扉に手を掛けて、壊れた扉を外そうと強く引っ張った。扉は大きな音を立てて、床を軽く抉って外れた。物置から廊下へと出たゼロは、部屋の中と同じく点滅する電灯が照らす、廊下の壁と床にライトを向けた。

 せめて赤外線センサーがあれば、暗闇でも視界を確保することはできたのだが、ゼロの頭部からは、必要最低限な装置以外、全部が取り外されてしまっていた。取り外された装置は、恐らく、“完成機”に再利用されていると思われた。

 ゼロがしゃがんで床を調べてみると、やはり、黒色の正体は焦げ跡のようだった。それと、煤だ。床に敷かれていたはずのカーペットは全て焼き尽くされ、広大なヘブンズガーデン内の移動に必須なトラベレーターも滅茶苦茶に壊れており、天井は所々崩れて、千切れた電線が天井裏から垂れ下がっている。

 ゼロは困惑した。まるで、ヘブンズガーデンが爆発でもしたかのような、ただ事ではない惨状がそこに在った。


「ゼロ、早く。早くここから離れよう」


 ナタリーが不安気にゼロにすがり付く。ゼロはナタリーの言う通りに、廊下を部屋から出て左に進もうとしたけれど。


「駄目! そっちは駄目! そっちには“あの人”たちがいたの!」


 慌ててナタリーがゼロを引き止めた。そして、ナタリーは何かに気が付いたように声を潜めて、言った。


「ゼロ、ゼロ! 早くあっちに行こう! 声がする! “あの人たち”が、こっちに来る!」


 暗闇の向こうから聞こえてくる呻き声。ひたひたと廊下に響く、裸足の足音。


 “あの人たち”。


 ゼロはその言葉を聞いて、ナタリーの両親を想像した。何故なら、このスペースコロニーにはナタリー以外には、彼らしかいないからである。

 電灯が壊れ、暗闇と光差す景色が入れ替わり続ける廊下に、扉を開けて入って来たのは、二つの人影だった。どちらも目の所に穴の開いたずだ袋を頭に被り、首にずだ袋の口紐をきつく締め、血の付いたボロ布を体に纏った、不気味な風体である。

 そのずだ袋にはどちらにも、“Dud”(ダッド)と書かれていた。ゼロはそれがその人たちの呼称を差すのか、単に文字通り“役立たず”の物を入れておく袋を被っているだけなのかは分からなかったが、その人たちをダッドと仮に呼称することにした。

 痩せ細った成人と思われるそのダッド二名は、魂が抜けたようによたよたと、ゼロとナタリーの方へ、手に持った斧や鉄パイプを力無く揺らしながら、歩み寄って来ていた。


「ゼロ!! 早く!!」


 ナタリーに呼ばれ、ゼロはダッドたちがいるのとは逆の方向へ走った。しかし、廊下を区切る扉は歪んでしまっているらしく、開かない。

 ナタリーが必死に扉を引いているが、扉はガタガタと揺れるだけだ。それを見たゼロが、今度は彼がナタリーの代わりに扉に手を掛け、無理やり隙間を作って、ナタリーを先に扉の向こうへ逃げ込ませた。


「ゼロ! 後ろ!!」


 ゼロが振り向くと、ダッドがゼロに掴みかかってきた。ずだ袋に開いた穴から、血走った眼がゼロを捉えている。ダッドは、ゼロの体の装甲がない、中身が剥き出しの箇所へ、斧や鉄パイプを突き刺そうと奇声を上げながら、それらを振り上げる。

 ゼロは応戦しようとしたが、彼の武装も彼が眠っている間に一つ残らず取り去られてしまっていた。腕に仕込まれた機関銃も、外敵を引き裂く電動鋸も、彼には残されていない。あるのは、人間よりも多少強い力を持つ程度の、鋼鉄の両手と両足だけ。

 ゼロはダッドたちを必死に振り払おうと身をよじる。ゼロの本体、ゼロの命とも言える、主要ハードウェアは全て頭部に備えられている。故に、ゼロは頭部へ攻撃されることを恐れた。

 しかし、ゼロの抵抗も意味を成さぬほどに、ダッド二名の動きは、執念やら、怒りやら、そういった物に後押しされているかのようにおぞましく、凄まじい物であった。

 ゼロの腕の関節に鉄パイプが突き刺されると、ゼロの視界にノイズが走る。ゼロがダッドたちをようやく振り切った時、ナタリーがゼロを呼んだ。


「こっち! 早く、ゼロ!」


 ダッドたちが倒れている間に、ゼロは扉をこじ開け、大きく開いた隙間をくぐった。


「ゼロ!」


 抱き付いてくるナタリーを優しく離して、ゼロは急ぎ、扉を閉めなおそうと手を掛けた。

 ダッドたちがゼロたちを追いかけてくる。言葉にならぬ奇声と共に、閉まっていく扉の隙間に腕を滑り込ませる。

 ナタリーが悲鳴を上げて後ずさった。ダッドたちは、無理やりにでも隙間を通ろうと暴れている。扉の隙間から漏れる光に照らされながら、ダッドたちの蠢く腕と頭は、のたうち回る蛇のようで、ナタリーの恐怖をひたすらに煽った。

 ゼロは仕方なく、扉を掴む手に力を込めて、ダッドたちの頭が出ていないタイミングを見計らい、隙間から伸びる腕を押し潰して扉を閉めた。

 電灯の灯りがなくなった廊下で、ナタリーは暗闇の中に薄っすらと認識できる、千切れた腕を見て、声にならない悲鳴を上げた。ゼロはそんなナタリーの視界を隠すように彼女を抱き込み、先へと進んだ。

 閉じた扉の向こうから、ダッドたちの泣いているような声が聞こえてきた。





 電灯が完全に壊れたその廊下は、周囲の様子が殆ど掴めない程に暗い。ゼロのライトが照らす範囲だけが、ゼロとナタリーに把握できる全てである。自分の足音や、ゼロの体が軋む音が反響する音が、暗闇の中に存在しない怪物の姿を、ナタリーの目に浮かばせるようだった。

 ゼロも恐怖を感じていたが、ナタリーの手前、冷静にいるよう努めていた。


「今日、私が起きたら、お母さんがいきなり、私を怖い顔で叩いたの。何回も、何回も、私に怒りながら……」


 ゼロの背中にぴったりくっついて、おどおどした様子で歩くナタリーが、ぼそりと話し始めた。


「だから、私、いっぱい逃げて……、それで、この前ゼロが電源を切られて、お父さんにあの倉庫にしまわれちゃったの思い出して……」


 ナタリーは話しながら、段々に涙ぐんで、泣き出してしまった。


「ゼロなら、ゼロなら私のこと助けてくれるって思って……、倉庫まで行こうとしたら、いつのまにか何処もぐちゃぐちゃに壊れてて……、それに、あの怖い人たちが歩いてて……」


 嗚咽を漏らしながら話すナタリーの頭に、ゼロは手を置いた。すると、ナタリーは我慢の限界を迎えて、ゼロに抱き付き、思い切り泣き出した。


「恐かったの……! 起きたらそこら中おかしくなってて、お父さんは何処にもいないし、お母さんは……!」


 震える声で頑張って話すナタリーを、ゼロは抱きしめて、ナタリーが落ち着くまで彼女の頭を撫で続けた。


「ゼロ……。ゼロは、私のこと助けてくれるよね?」


 涙ながらに尋ねるナタリーに、ゼロはライトを青色に強く、何度も点滅させて答えた。


「ゼロ……。ありがとう……」


 涙がおさまってきたナタリーを連れて、ゼロは暗闇を進みだした。崩れた壁の瓦礫が足下を危うげにさせる廊下は、まだまだ続いている。何処か落ち着ける場所まで、早く移動しなくてはならない。今、何が起こっているのかを知るためにも、まずはこの廊下を出ないことには始まらない。

 廊下を区切る扉をまた一つ開けた所で、ゼロは進む足を止めた。そして、ゼロの後ろを歩くナタリーが、ゼロの前にある物に気が付く前に、ゼロはナタリーに向き合い、指のジェスチャーでナタリーに物陰に隠れているよう指示した。


「どうしたの? ゼロ。何か……、あったの……?」


 首を伸ばして、ゼロが何を見つけたのか確かめようとするナタリーを、ゼロは両手で彼女の肩を抑え、そっと物陰へと戻した。ナタリーが大人しくなったのを確認してから、ゼロはもう一度、彼が見つけた物をライトで照らした。

 それは、全身が黒く炭化した焼死体であった。それも、折れた鉄パイプで胸部を貫かれ、壁に磔にされた焼死体である。

 ゼロはその焼死体にそっと触れて、それが誰なのか調べようとした。しかし、黒焦げになったその死体は、元の形が判別できないどころか、所々が欠損してしまっていて、誰の死体なのかまるで判別がつかない。唯一分かることは、その体躯からして成人であったのだろうということだけだ。恐らく、廊下中に焼け跡を残した爆発か、火災によって焼かれてしまったのであろう。しかし、胸に刺さった鉄パイプを見るに、誰かに襲われたのは間違いない。

 ゼロは思考した。ゼロの電子回路は現在までに得た情報で、既にヘブンズガーデンで起こり得るはずのない事態が起こっていることを把握していた。

 先程出会ったダッド二人と、今ここにある焼死体。そして、すぐ後ろの物陰に隠れているナタリー。ゼロは目覚めてから既に、四人の人物に出会っていた。

 ヘブンズガーデンにいるのは、ナタリーとその両親、計三名だけであるはずなのに。


「ゼロ……? ねえ、まだ……?」


 ナタリーが不安気にゼロを呼ぶ。ゼロが焼死体から離れ、ナタリーを迎えに行こうとした時だ。ゼロは、磔にされた焼死体の足下に落ちている、大量の紙の燃えかすと、メモリーカードの存在に気が付いた。ゼロはそのメモリーカードを拾い上げた。メモリーカードの表面は少し焦げて、ラベルもはがれてしまっていたが、どうやらまだ中の情報を読み取ることができそうである。

 ゼロは頭部にあるスロットにメモリーカードを差し込み、中身を読み取ろうとした。だが、メモリーカードに保存された五つのファイル(全て動画ファイルのようだ)はどれも暗号化され、簡単には読み取れそうもない。タイトルも日付も、全ての情報が隠されてしまっていた。


「ねえ、何があったの? ゼロ?」


 ナタリーを迎え、ライトで焼死体を照らさぬようにゼロはその場を去った。ゼロに背中を優しく押されるナタリーは、ゼロが何も教えてくれないので、少し怒っているようだった。





 廊下を照らすゼロのライトが、床に落ちている一枚の書類を見つけた。ゼロがそれを拾い、内容を確認すると、その書類はとある論文の表紙のようだった。

 タイトルは、“宇宙線被曝量が及ぼす、クルス・プロジェリア症候群への影響”。

 書かれた日付は、二〇三五年。執筆者名は、“オリジン・ノウレッジ”。

 オリジン・ノウレッジとは、ステラのペンネームである。研究者としてステラが論文を書く時に、彼女が使っていたペンネームだ。

 表紙だけのその論文は、ステラが書いた物らしかった。何故、表紙だけがそこに落ちていたのかは分からないが、ゼロは先程の焼死体の足下に落ちていた、燃えかすのことを思い出していた。

 ひょっとすると、あの焼死体の人物がこの表紙を落とし、論文自体はあの焼死体が焼ける時、一緒に燃えてしまったのかもしれない。

 ゼロはその表紙を床に置いて、その場を去った。ゼロが見聞きしたものは、全て頭部のHDDハードディスクに記憶として保存される。そのHDDが無事な限り、ゼロの記憶はいつでもはっきりと思い出すことが可能だ。文書を持ち歩く必要はない。

 そして、暗闇の廊下の一番奥に辿り着いたゼロたちは、最後の扉を開けた。扉はやはり歪んで、ゼロが無理やりこじ開ける必要があったが、なんとか開くことができた。そして、その扉の先に在ったのは――――

 まるで森のように鬱蒼と植物が生い茂る、元は美しい景観を見せてくれていた、変わり果てた温室であった。

 温室には、故障した天井のスプリンクラーが水を撒き続け、切れかけた電灯が薄く周囲を照らす。その様は、室内であるにも関わらず、雨が降っているかの印象を受ける。普通に歩いても、横断するのに二時間以上かかる広大な面積のこの温室に、行く手を阻む植物が好き放題に生えている。根が腐って植物が枯れていないのを見るに、スプリンクラーが壊れたのはつい最近のことであると思われた。

 まず、ゼロは温室の入口の横にあるエレベーターを調べた。水平に移動するそのエレベーターは、ヘブンズガーデンを移動する際に使われる物だ。これがなくては、ヘブンズガーデンは人が暮らすには広すぎる。

 エレベーターの方を見たゼロとナタリーは、思いがけぬ異様なエレベーターの外観に、恐怖した。

 エレベーターの扉と、その周囲の壁に跨って、赤いスプレーで文字が書かれていたのである。


“Stella has bats in the belfry!!”(ステラは狂っている!!)。


 狂気に踊るように大きく書かれたその文字は、ステラが狂っているとゼロたちに告げていた。


「お母さんの名前……」


 ゼロもナタリーも、誰がその文字を書いたのか、どうしてこんな場所に書かれているのか、何も分からず。その落書きは、ただただ不気味さだけを彼らに残した。

 ゼロはエレベーターに近づき、状態を確かめた。予想できていたことではあったが、やはり、エレベーターは壊れていた。エレベーターの開閉ボタンは反応しない上、温室の窓から見えるエレベーターのレールは、所々折れ曲がっていて、とても使えた物ではないと分かった。

 次に、ゼロは温室入口周辺を見渡した。入口付近の壁には、温室の地図とヘブンズガーデン全体の地図が取り付けられていたはずである。


「ゼロ、ゼロ。あれ……」


 ナタリーが指差す方に、ゼロの探していた地図があった。しかし、ナタリーはと言えば、地図の下に転がる、卵型の機械の方に目を引かれているらしかった。その壊れた機械をゼロが調べてみると、どうやらそれは、温室を管理していた自立行動型の作業ロボットの残骸であると分かった。


「……。壊れちゃってるね。可哀想……」


 ナタリーは残骸を拾い上げ、悲しそうに眺めている。ゼロはその残骸に、近くに咲いていた黄色い花を一つ摘んで、供えた。ナタリーはそんなゼロを見て、小さく微笑んだ。

 そして、ゼロは壁に付けられた二つの地図を見た。

 一つは、衛星全体の地図。

 現在ゼロたちがいる温室は、ヘブンズガーデンの一番端にある施設である。その逆端、温室をずっと歩いて廊下に出て、ステラの第一研究室の近くを通り、再び廊下を歩いていった最奥に、ナタリーたちクルス一家が主に生活していた居住区がある。ナタリーの大好きな、綺麗な花畑の部屋がある場所。その居住区には、小型の緊急脱出艇が二機備えられていたはずだ。

 ヘブンズガーデンで何が起こっているのか、ゼロにはまだ分からないが、彼はナタリーの安全を優先することにした。今、ヘブンズガーデンは明らかに危険な場所だ。あのずだ袋の人物や、酷く壊れた設備。もしかすると、ヘブンズガーデン自体が崩れていっている可能性だってある。一早く、ナタリーをこの危険な環境から遠ざけなくてはならない。

 しかし、普通に歩いてヘブンズガーデン内を移動するのは、時間がかかりすぎる。本来なら、水平移動するエレベーターや、床に設置されたトラベレーターで、快適かつ高速に移動できるのだが、今やどちらも使い物にならない。

 恐らく、半日近くはかかると思われる道のりを、ゼロたちは歩かなければならない。何か、得体の知れない危険が潜んでいるであろう道のりを。


「ゼロ? 地図見てるの?」


 顔を上げて、ゼロと一緒に地図を見ようと背伸びするナタリーに、ゼロは地図の居住区を指差した。それから、次にナタリーを指差して、その次にもう一度地図の居住区に指を置き、そこから上の方に指を滑らせた。


「ひょっとして、脱出艇まで行くの……? ヘブンズガーデンから、出るの?」


 ゼロが頷くと、ナタリーは顔をうつむかせた。ナタリーが言うには、彼女は母親のステラから逃げて、必死の想いでヘブンズガーデンを走り抜けてきたのだ。その道のりを、戻ろうというのである。ナタリーが恐がっているのはゼロにも分かっていたが、それでも行かなくてはならない。ゼロはナタリーが口を開くのを、じっと待った。


「……、分かった。ゼロと一緒なら、行く」


 ナタリーがそう言うと、ゼロはナタリーの頭を撫でた。ナタリーは嬉しそうに顔を崩してゼロに抱き付き、ゼロのメインカメラを兼ねたライトに、その笑顔を見せた。

 次にゼロは、もう一つの地図である、温室の地図を見た。

 温室は大きく円の形を描くように広がる施設だ。地図は居住区側の出口付近に、固定電話が備えられていると示していた。この固定電話は緊急時に、外部、つまり地球とも連絡が取れるようになっていたはずだ。ゼロは地図の固定電話のアイコンを指差し、ナタリーにまずはここを目指すという意思を伝えた。


「うん……。分かった。いいよ」


 ナタリーは同意したが、それからずっと、ゼロに抱き付いたまま離れようとしなかった。





 スプリンクラーの雨が降る温室の中を進むにあたり、ゼロは入り口付近に生えていた大きな広葉樹の葉を一枚ナタリーに渡し、傘の代わりにさせた。「なんか、お話しに出てきそうだね」と言って、ナタリーは喜んでいた。ゼロも、剥き出しの機構に水が入り込まないよう広葉を十枚程度、植物のつるで円形に縫い合わせて傘を作った。「ゼロは器用だね」とナタリーが言うと、ゼロはライトを青く点滅させて喜んだ。

 以前とは違い、温室の中は育ち放題に育った植物が行く手を阻み、視界も悪い。目印を探しながら進まなくては迷ってしまうだろう。幸い、温室には歩道があり、生い茂る植物に隠されてはいるが、その歩道を辿れば固定電話にまで辿り着く事が出来そうであった。


「ゼロ、ねえ、ゼロ……。ちょっと休もう? 疲れたよ……」


 草木を掻き分けて、一時間程歩き続けた頃。ゼロの後ろを付いて歩いていたナタリーがついに音を上げた。逃げてゼロの下までやって来た上に、こうして密林と化した温室を進んできたナタリーは、体力の限界を迎えていた。

 ゼロはナタリーに、自分の頭を両手で押さえるジェスチャーをして謝った後、ナタリーが休めるような場所を探しながら進んだ。すると、ほど近い場所に、園芸用具をしまっておくための物置小屋を見つけた。ゼロとナタリーはそこに入り、しばらく休むことにした。

 草木の向こうに見える物置小屋に近寄ろうと、ゼロたちがそちらへ向かい始めた時だった。

 突然、ゼロの右方の草木が激しく揺れ始めた。ゼロは警戒して、ナタリーを自身の背後に回らせた。

 草木が揺れる。厚く重なった植物たちが強引に掻き分けられ、葉の擦れる音や、枝が折れる音が、次第に大きくなっていき――――

 騒音沸き立つ植物の陰から、ずだ袋の頭が一つ、跳び出した。

 ナタリーが悲鳴を上げる。ダッドは地面を這いずるように手足を動かして、ゼロたちに迫った。

 ゼロのライトに照らされた、ずだ袋に開いた穴から覗く充血した双眸は、ナタリーを真っ直ぐに捉えている。ゼロはダッドをナタリーに近づけまいと掴みかかる。ゼロに肩を掴まれたダッドは、奇声を上げながらゼロの腕を掴み、何度も叩いた。自分の手が血まみれになっても、ゼロの鋼鉄の腕に激しく拳を打ち付ける。

 怒るように、鳴き喚くように。

 一瞬だけ、ゼロはダッドと目が合った。狂気に囚われ切った瞳であった。多少の涙を孕んだ、真っ赤に燃えてしまいそうな瞳であった。

 ずだ袋の人物はゼロに掴まれながらも暴れ続け、ゼロに押さえられた左肩を強く引っ張った。ゼロは放すまいと力を入れてその肩を抑えたが、ダッドの狂気は常軌を逸していた。

 自身の怪我をまるで恐れず、ゼロに掴まれていた左肩の皮をずり剥けさせるまでに力を入れて、血を大量に流しながらもゼロの手から逃れたのである。

 ダッドはナタリーを捕まえた。そして、ナタリーの首を絞め、怒りのままに激しく彼女の頭を揺らした。

 恐怖と苦しさのあまり、ナタリーは涙を流していた。

 ゼロは急ぎ、ダッドの背後に近づき、後頭部を殴り付けた。しかし、ダッドはナタリーの首から手を放さない。放すどころか、ますますその力は強まっていくようである。

 ゼロは焦り、ダッドの頭を何度も殴り、ゼロが五発目の拳を打ち付けた所で、ようやくダッドは地面に倒れた。

 ナタリーは苦しそうに咽て、地面にへたり込む。ゼロはすぐにナタリーに駆け寄って、ナタリーの様子を見た。ナタリーはしばらく泣きながら苦しそうにしていたが、次第に息は整っていき、やがて声を発せられるようになった。


「大……、丈夫……。ありがとう……、ゼロ……」


 ナタリーの体には外傷は見られない。ナタリーが無事であると分かり、ゼロが安心すると、その背後でまた草木の揺れる音がした。ゼロが振り向くと、そこにはもうダッドの姿はなかった。

 どうやら、密林の中に逃げていったらしかった。





 ダッドが去った後も、ナタリーは怯え、顔を青ざめさせていた。ダッドの狂気の様を見たナタリーは、彼女の理解の範疇を超えた恐怖が忘れられずにいるらしかった。

 ゼロが心配して、ナタリーに手を差し伸べた時、その手に付いていた血を見てしまったナタリーは、ゼロにすら恐怖を示した。

 ナタリーを休ませるため、ゼロは手に付いた血をスプリンクラーの雨で洗い流してから、物置小屋へ彼女を運んだ。


「ゼロ……。ゼロも、誰かのこと叩いたりするんだね……」


 ゼロに抱き抱えられて移動している時、ナタリーはぼそりとそう言った。

 ゼロは物置小屋の電球を点けて、ナタリーを地面の湿り気から離れた、木の板の上に寝かせた。ゼロは、またダッドが襲ってくることを警戒し、外の音に特に気を配った。

 スプリンクラーの雨音が、さあさあと、ぴちゃぴちゃと、物置小屋に響いていた。

 ゼロは寝苦しそうに寝返りをうつナタリーに、腹部のポケットから六種の錠剤を取り出し、渡そうとした。生まれつき体が病弱であるナタリーは、一日に三度、決められた時間に薬を飲まなくては生きてはいけない。ヘブンズガーデンにはナタリーのための薬が大量に保存されているが、この惨状ではそれもどうなってしまったか分からない。

 そのことも、ヘブンズガーデンからナタリーを急ぎ脱出させなくてはいけない理由の一つであった。


「あ……、ううん。いらない。なんか、今日は薬を飲まなくても平気なの。だから……」


 ゼロはナタリーが薬を飲みたくなくて、言い訳をしているのだと思った。しかし、ナタリーは続ける。


「ほんとだよ。本当に平気なの。なんか、不思議。今はね、今までにないくらい体の調子が良いの。だって、もう一日くらい薬飲んでないのに、なんともないんだよ?」


(一日も、薬なしで?)


 ゼロは驚いた。

 ナタリーが半日以上薬を飲まずにいれば、今頃まともに起き上がることもできないに違いないのに。

 ナタリーは本当の事を言っている。ゼロはナタリーの様子からそう思ったけれど、ゼロは念のためにナタリーに薬を飲むよう勧めた。

 ゼロはライトを赤と黄色に交互に光らせ、薬をナタリーに差し出し続ける。ゼロの退かない態度にナタリーは溜息を吐いて、薬を受け取り、飲み込んだ。


「本当に大丈夫なのに……。ばか」


 悪態を吐きながら、ナタリーはゼロに涙目を向ける。けれど、薬を飲んだナタリーに、ゼロは手を伸ばし、彼女の頭を撫でた。


(負けるものか、私は怒っているんだ)


 そう自分に言い聞かせながら、ナタリーは、ゼロに撫でられる心地よさと喜びに抵抗する。しかし、その甲斐も虚しく。段々とナタリーは機嫌を直していき、最後には、ついつい笑ってしまうのだった。





 物置小屋に入ってから少し経って、寝転がるナタリーはゼロを見るや、何かに気付いて立ち上がり、ゼロに近寄った。


「ゼロ、たくさん濡れちゃったね。錆ないように拭いてあげる」


 ナタリーは彼女のポケットを探ったが、自分がハンカチを持っていないことに気が付いた。


「あ、そっか……。この服、落ちてたの適当に着ただけだから、ハンカチなんて持ってきてないや……」


 すると、ナタリーは服の袖を引っ張り、ゼロの体に当てた。ゼロはランプを黄色に光らせて、ナタリーの手を抑えて止めたが、ナタリーは強引にゼロの体を袖で拭き始めた。


「じっとしてて、ほら」


 ナタリーにそう言われて、ゼロは困りつつも、言われた通りにじっとしている他なくて。結局、ナタリーがゼロの全身を拭き終わる頃には、彼女の袖は真っ黒になっていた。

 ゼロが何か物言いたげにランプを黄色に点滅させるも、ナタリーは満足そうに再び木の板に寝そべった。


「疲れた……。お腹空いた……」


 ナタリーはぼそりとそう言うと、そのまま目を閉じて寝息を立て始めた。

 ずっと気を張っていたのだろう。それに、ろくに食事も摂っていないに違いない。

 ゼロは眠るナタリーの頭を撫でた。表情どころか顔すらない機械の体でも、どこか愛おしそうにナタリーを見守るゼロは、しばらくそうして、ナタリーの傍で彼女を愛でていた。





 ナタリーが眠っている間、ゼロは焼死体の所で見つけたメモリーカードの暗号を解読することにした。

 暗号化には、イーストン・クルスの考案した変換アルゴリズムが用いられていた。これなら、ゼロにも解くことができる。何か有益な情報が得られることを願い、ゼロは機械仕掛けの頭脳を稼働させ続けた。

 そしてその一方で、暗号の解読に使用するのとは別の、余った領域の電子回路で、ゼロは昔のことを思い出していた。

 ゼロが電源を切られる前の、ヘブンズガーデンでのこと。

 クルス一家との日々。ナタリーとの思い出を。



          ◆◆◆



 西暦二〇三三年、十月十六日のこと。ヘブンズガーデン内温室にて。


「おお、ゼロ。どうだ? 体の調子は。どこか動かし辛い所とかあったら言ってくれよ?」


 ゼロが温室の隅で壁によりかかり、温室に設置されたテーブルで、ナタリーが母のステラと勉強するのを眺めていた所へ、ナタリーの父、イーストンが話しかけてきた。

 ステラの研究助手であると共に、高度な機械技術者でもあるイーストンは、ゼロの生みの親であった。

 ゼロはイーストンの質問にライトを青く光らせて答えた。


「そうか。まあ、今度また点検させてくれ。耐久性のデータを取っておきたいからな」


 ゼロが頷くと、イーストンはゼロの横に並び、ゼロと同じくステラとナタリーが勉強する様子を眺めた。


「ゼロ。昨日な、ステラとナタリーと話している時に、お前の話題が出たんだが……」


 ゼロは軽くイーストンの方にカメラを向け、彼の話を聞いていた。テーブルの方ではナタリーが頭を抱えて、算数と生物の問題に唸っている。


「そしたらな……、その……、ナタリーがな……」


 イーストンは苦笑いを浮かべながら話を続ける。ナタリーの様子が気になるゼロは、イーストンの話に意識を傾けながらも、カメラをナタリーの方へ向け直した。


「“ゼロと結婚する”って言い出してな……」


 がたん、と。

 ナタリーが椅子を倒して立ち上がり、ゼロとイーストンの方へと駆けてきた。どうやら問題を解き終わったらしい。駆け寄ってくるナタリーに、ゼロはどうしたものかとイーストンを見た。

 イーストンはへらへらと笑っていた。


「ゼロ! 遊びに行こう! 勉強終わったの!」


 ゼロがイーストンとステラの顔色を窺がうように、二人に忙しなく何度もカメラを交互に向けた。


「ああ。いいんじゃないか? 遊んできなさい」


 イーストンはそう言ってくれたが、ステラの方は何も言わず、ゼロと顔を合わせようともしなかった。


「ステラのことは気にするな。ここは旦那の僕が機嫌を取っとくさ。さあ、ゼロ。今日もナタリーを頼んだぞ」


 ナタリーに手を引かれ、ゼロは温室を出ていった。温室を出た所の廊下を、可変速式トラベレーターに乗って移動していく。普通に歩いていては何時間もかかる距離も、これに乗れば数十分程度で移動することができる。ただ、降りる際に慣性で倒れないように気を付けないといけない。


「あ、ゼロ! この辺! この辺にね、いっぱい黄色の花があったの! 綺麗な鳥もいたんだよ! ここから入ろう?」


 ナタリーはトラベレーターから降り、温室の入口を開けた。先程とは別の入口。広い面積を持つ温室は、いくつもの出入り口を持つ。


「ね、ね! 綺麗でしょ!? こんな所にも、こんなにたくさん花が咲いてたんだよ!?」


 ナタリーの言う通り、入口をくぐると、ゼロにも一面に広がる黄色い花が見えた。丁度、園芸用の卵型のロボットが、花の手入れを行っている所だった。


「久しぶりに見たね、この子」


 園芸ロボットを両手で抱きかかえて、ナタリーがゼロに見せようとするが、園芸ロボットは重くてナタリーには動かせない。園芸ロボットは前に進もうとしているのに、ナタリーに抱えられて前輪が浮いているせいで、がたがたと後輪が音を立てていた。

 同じ機械のよしみ、ゼロは園芸ロボットが哀れに思えて、ナタリーに手を放してあげるように、両腕を広げるジェスチャーをした。


「あ、うん。そうだね……。可哀想」


 ナタリーが園芸ロボットを放すと、園芸ロボットは心なしか、慌てているかのようにその場を離れていった。


「なんか、私から逃げていったみたい」


 ナタリーは少しむくれて、地面に座った。ゼロもナタリーに合わせて地面に腰を下ろした。それからゼロは、腹部のポケットから薬を取り出し、ナタリーに渡した。


「えぇー、もう? 今朝に飲んだばっかりなのに……」


 嫌そうにするナタリーに、ゼロが黄色のライトで薬を飲むよう勧める。ナタリーは溜息を吐いて薬を受け取り、飲み込んだ。ナタリーは不機嫌そうに地面に仰向けに寝転がり、天井に映し出される青空と、流れる雲の映像をじっと見つめた。

 植物で溢れる温室の空気は心地よいと、何時かナタリーは言っていた。

 服が汚れるので、ナタリーに注意しようかとゼロは悩んだが、あまり口出しばかりすると彼女が可哀想だと思い、止めた。


「一緒に寝よう? ほら、ゼロも」


 ナタリーに誘われ、体の中に砂が入らないか心配しつつ、ゼロも地面に寝転んだ。天井に映された青空は、単に地球で撮影した空の映像を流しているにすぎない。

 偽物の空。ゼロはそれを知っていたし、ナタリーもそのはずだった。


「綺麗だね、空」


 けれど、ナタリーはゼロにそう言った。

 作り物であると知っていて、尚もナタリーはその空を美しいと言った。ゼロはナタリーに顔を向けた。ゼロとナタリーは本物の青空を知らない。

 だからだろうか。


「ね、ゼロ?」


 ゼロにも同じく、ナタリーと見るその空が美しいと思えた。思えたから、ゼロはライトを青く光らせ、親指をぐっと立てる、“Yes”のジェスチャーで、ナタリーに同意して。


「あはは。良かった。おんなじだね、私たち」


 ナタリーは顔を少し赤くして、笑った。


「ゼロも私も、おんなじ。一緒だ」


 ナタリーは起き上がり、仰向けのゼロの顔を覗きこんだ。ナタリーの笑顔がゼロの視界を覆い尽くす。


「いつか地球に帰ったら、一緒に本物の空を見よう? 約束ね」


 頷いたゼロを見る、影がかかったナタリーの顔は、幸せそうに笑っていた。ゼロはナタリーと指切りをして、約束を了承したのであった。


「そうだ。ゼロ、ちょっと待ってて」


 ナタリーが視界から外れ、何かをし始めた。ゼロが気になって体を起こすと、ナタリーは黄色の花を集めているようだった。

 ナタリーの大好きな黄色の花。両手に茎を残した綺麗な花をたくさん握って、何をするのかと思えば、それらの茎を編み込んで、ナタリーは花の冠を作った。


「はい、ゼロ。あげる」


 できた花冠を、ナタリーがゼロの笠状の頭に載せる。ゼロは黄色くライトを点滅させて、“Yes”のジェスチャーでナタリーにお礼を示した。


「ふふ」


 嬉しそうにするナタリーが何かに気付く。何処かから聞こえてくるクラシックの音楽。着信音だ。

 ナタリーはポケットからスマートフォンを取り出して、電話に出た。


「ナタリー、ランチができたから帰ってきなさい。それと、午後はまたお勉強だからね」


「えー、まだやるのー?」


「文句言わない。さあ、早く来なさい。パスタが冷めちゃうでしょ」


「ミートソース!?」


「残念。シーフード。それじゃ、待ってるからね」


「はーい」


 通話を終えて、ナタリーがゼロの方を向いた。


「この前、補給船がきた時にミートソースの缶一杯あったのになぁ。私、エビ苦手……」


 ゼロはぼやくナタリーの後について、温室を出た。

 出ていく前に、一度だけゼロは振り返り、温室の中を見た。整然と生い茂る緑と、地面に点在する黄色い花たち。そして、青い空。


(地球には、こんな景色がたくさんあるのだろうか)


 ゼロはそんなことを思いながら、ナタリーから離れすぎないように、今度こそ部屋を出ていった。



          ◆◆◆



 一つ目の動画ファイルの暗号化が解けると、ゼロは思い出すのを止めた。

 ナタリーはまだ眠っている。まだ、時間が空いている。

 だから、ゼロは動画ファイルを開くことにした。焼死体の足下に落ちていたメモリーカードの中に入っていたその映像を見れば、あの焼死体が誰なのか、見当もつくだろう。

 胸部を鉄パイプで貫かれ、壁に磔にされていたあの焼死体。何故、あんな死に方をしていたのか。このメモリーカードを持っていた意味はなんなのか。それは、この変わり果ててしまったヘブンズガーデンの今と関係のあることなのか。

 ゼロは手がかりが手に入ることを期待しつつ、動画ファイルを再生し始めた。



          ◆◆◆



 その動画の右下に表示されている日付は、西暦二〇三一年、一月二十五日。ヘブンズガーデンが宇宙に作られた二ヶ月後だ。そして、この日付から、ゼロはとあることに気が付いた。

 西暦二〇三一年、一月二十五日。ナタリーの誕生日。

 この日は、ゼロが初めて起動した日でもあった。


「お父さん、何撮ってるの?」


 画面に大きく映るナタリーの顔から始まった動画は、ズームとピントを合わせて部屋の全景に移っていった。

 そこは居住区の真下にある、イーストンの作業室だ。撮影しているのはイーストンであるらしく、彼の持つカメラは作業室にいるナタリーとステラを画面に収めていた。

 撮影をするイーストンは、まず一言、映像に加えた。


「ヘブンズガーデンが宇宙にできてから、今日で二ヶ月。僕たちの娘の記念すべき誕生日だ。ステラの研究のために始まったこの生活にも、大分慣れてきた。そういう訳で、今日からは僕の研究も次の段階に進めていこうと思う」


 この動画がどういう物か、ゼロは理解した。そういえば、あの時イーストンはカメラを構えていたと、ゼロのハードディスクにははっきりと記憶が残っていた。


「ナタリーがいて大丈夫なの? 暴れたりしない?」


「心配いらないって。僕が作ったんだぞ?」


「どうだかね」


 ステラが呆れる傍で、ナタリーが楽しそうに作業場を走り回る。

 まだ、ナタリーが三歳だった頃だ。昔から、ナタリーはよく笑う子だった。


「ナタリー、今日はお前に誕生日プレゼントがあるんだ」


「プレゼント!?」


 ステラに抱き付いて喜んでいたナタリーが、目を輝かせてイーストンを見た。


「ああ、なんだと思う?」


「指輪!」


「うーん違うなぁ」


「お洋服!」


「ませてるなぁー、ナタリーは」


 ゼロは気落ちした。ナタリーはイーストンが“誕生日プレゼント”と言った時、どんな物がもらえると期待していたのか。少なくとも、できそこないのような見た目の鉄の塊であるとは思ってもみなかっただろう。


「実はな、今日はナタリーに新しい友達をプレゼントしようと思ってるんだ」


「友達!? 本当に!?」


「ああ。って言ってもまぁ――――」


「どんな人!?」


「ははっ。甘いな、ナタリー。なんと! 人ではありませーん!」


 ゼロは頭を抱えた。この映像記録がゼロに与える心的苦痛は計り知れない。勘弁してくれと、鋼の心の中でゼロは叫ぶ。


(頼むから、それ以上話を膨らませないでくれ。余計なことは言わず、とっとと事を済ませてくれ)


 ゼロはひたすらにイーストンを恨んだ。


「分かった! 犬! わんちゃんだ! 前にお父さんが買ってくれるって約束した!!」


 「そうだっけ?」と言いながら、イーストンがステラにカメラを向ける。ステラは酷く怪訝な顔をしていた。


「そんな約束したの?」


「したような……、気もする」


「私、ペットは飼わない主義だって言わなかったっけ?」


「ああ……、そうだっけ? いやぁ、まあ、その、場の流れでね……」


 ステラは呆れた顔で、作業室の奥にかけられたカーテンを見た。そのカーテンの向こうに隠された物こそ、イーストンの言う“誕生日プレゼント”である。


「お父さん! 早く! わんちゃん!」


「んん。うーん……、いいか? ナタリー」


「えっ、何?」


「残念だけど、今日のプレゼントは犬じゃないんだ」


「違うの……?」


「そう。違うけど、でもすごい物だぞ! カッコイイぞ!」


「へぇー……」


 露骨に気分が落ちているナタリーの様子が、ゼロには辛い。何故、犬の姿に作ってくれなかったのか。喋れば喋る程追い詰められていくのは、イーストン自身だけでなく、ゼロも同様であった。

 イーストンがカーテンに手を掛ける。それを見て、ようやくこの苦痛から解放されるのかとゼロはほっとしたが、彼の心的苦痛はまだ続く。


「さあ、ナタリー! お誕生日おめでとう!」


 さっと引かれたカーテンが、作業室の奥に隠されていたゼロの姿を露わにした。

 所々に装甲がなく、中身の配線や機構が見えているみすぼらしい外見。頭部に顔の代わりに付けられた一本のライトがまた、見た目の無骨さに拍車をかける。人間の指を模した手は精巧に作りこまれていたが、足は他と同じく装甲の無い部分が目立つ。

 まだ電源が入れられていないゼロは、力無くだらんと手足をぶら下げて、鉄棒で組まれた台にもたれ掛けられていた。

 ゼロは自分の姿を改めて客観的に見ることで、その不恰好さを思い知った。


「……」


 ゼロを見たナタリーは、完全に失望していた。

 ゼロは見たくない場面の連続に、思わず動画の再生を止めかけた。

 これは、あの焼死体の正体と、ヘブンズガーデンの現状を知る手がかりとして見ている動画なのだ。一応、しっかり確認しておかなくてはいけない。例え、耐え難い光景を見せられるのだとしても。


「どうだ!? すごいだろう!?」


「う、うん……」


 自信満々なイーストンは、台に固定されたゼロの後ろに回り、ゼロの電源を入れた。すると、動画の中のゼロが動きだし、辺りを見渡し始めた。

 ナタリーはそんなゼロに怯え、ステラの後ろに隠れてしまった。


「どうだ? ゼロ。僕が分かるか?」


 ライトを青く光らせて、頷いて見せたゼロに、イーストンが漏らした唸り声は満足気な様子である。


「へえ、ちゃんと動いてる。素敵」


「だろう?」


 ステラは感心しているようだった。それに気を良くしたイーストンは、ナタリーを手招きした。


「ほら、ナタリー。おいで。ゼロに自己紹介しなさい」


 ここから先は、動画を見るまでもなく、ゼロは覚えている。

  ナタリーとゼロが初めて出会った日。何故、この映像がメモリーカードに保存されていたのかは分からないが。


「ナタリー……。ナタリー・クルス……、です……」


 その時、ゼロが差し出した手に驚きながらも、ナタリーは恐る恐る手を伸ばして。


「良かったね。ナタリー。彼は、あなたの良いボディーガードになってくれるよ。ゼロ、ナタリーのこと、よろしくね」


 ステラがそう言うと、ナタリーはゼロの手を握った。


「ゼロ……? ゼロっていうの?」

 動画の中のゼロが青くライトを光らせ、ぐっと親指を立てて見せる。それを見たナタリーが、少し笑顔になる。

 結局、この動画から有益な情報を得ることはできなかった。

 ――――けれど。


「よろしく、ゼロ。よろしくね」


 けれど、これはゼロにとって、とても大事な思い出であった。

 謎は増えただけだったけれど、それでもゼロは、懐かしく温かい想いを感じて。

 最後にナタリーの笑顔を映して終わった動画から、意識を今に戻し、ゼロは木の板の上で眠るナタリーの姿を見て、心を痛めた。



          ◆◆◆



 メモリーカードに保存されている、残り四つの動画ファイルは、どれも暗号化されたままだ。

 一つ目の動画を見終わった後、ゼロは眠るナタリーを見つめていた。

 ゼロはナタリーの服の裾がほつれているのに気が付き、ナタリーが起きないように、そっと右手を伸ばした。

 すると、ゼロの右手の指の先が装甲を開いて、指の先に隠されていた、二つの関節を持つ無数の金属の針を出した。金属の針が器用にナタリーの服の糸を摘まみ、ゼロは素早く正確な動きで、あっという間に、ほつれた部分を綺麗に縫い直してしまった。

 直った服と、静かに寝息を立てるナタリーに、ゼロは満足しつつ右手を戻した。

 そしてその時、ゼロは物置小屋の外から聞こえる音に、雨音以外の音が混ざったのを察知した。

 ゼロは扉を小さく開けて、外の様子を探った。すると、物置小屋の正面、少し距離を開けた所に、ずだ袋を被った例のダッドが立っていた。左肩からの多量な出血を見るに、その人は先程温室でゼロが撃退したダッドであると思われた。

 左肩から左腕にかけて真っ赤に血に染まった姿が、薄暗い温室に異様な存在感を持って浮かび上がっている。

 彼か彼女か、この人物は誰なのだろう。廊下で襲ってきた二人とは別の、もう一人。三人目のずだ袋を被った、誰か。ヘブンズガーデンにいるはずのないこの人たちは、一体何処からきたのだろう。

 ゼロは物置小屋から外に出て、ダッドと対峙する。雨に打たれながら、ずだ袋の穴から覗く、血走る目をゼロにじっと向けて、ダッドは立っていた。

 ゼロとそのダッドは、雨の中、向き合ったまま動かなかった。

 ゼロは自分から攻撃を加えることはしなかった。ゼロは、イーストンにナタリーと一緒に見せてもらった教材で、命の尊さを知っていたし、生き物に対する優しさを持っていた。だから、ゼロはダッドにもその優しさを持って対峙した。ダッドが何か仕掛けてこない限りは、ゼロには戦うつもりはなかった。

 ダッドと対峙している間、ゼロはずっと考えていた。このずだ袋を被った人が何者で、何故ゼロとナタリーを襲うのか。

 そして、どうして――――

 どうしてその人が、そんなに悲しそうな瞳で、ゼロを見ているのか。

 ダッドが一歩、ゼロの方へと足を踏み出した。ゼロは警戒し、近くに落ちていた鉄パイプを拾い、迎え撃つ構えを取った。

 この人物の目的は分からないが、先ほどといい、廊下で出くわした二人のダッドといい、ゼロとナタリーに危害を加えることは間違いない。ダッドがいつ襲い掛かって来てもいいように、ゼロは警戒し続けた。

 しかし、ゼロのそんな警戒も杞憂に終わる。ダッドは数歩歩くと体のバランスを崩し、地面に倒れた。出血のし過ぎで、今にも死ぬ所だったに違いない。小さく、掠れた呻き声を上げて、ダッドは立ち上がろうと腕に力を入れる。しかし、その腕は痩せ細った体の重さにすら耐えられず、再びその体は地に伏した。

 もうまともに動くことすらできなくなったダッドは、倒れたままで顔を上げる。ずだ袋に開いた二つの穴。そこから覗く両目は、怒っているように見える。

 でも、その時ゼロには、その両目が――――


「あ……、ぇ……、うぅ……」


 呻くダッドの、その両目が、涙に潤むのを確かに見て。


「うぁ……、ぇ……、ぉ……」


 ゼロは、何故か無性に寂しくなりながら、ダッドが事切れるのを看取ったのであった。



          ◆◆◆



「お母さん……?」


 ナタリーは目前に立つ一人の女性の姿を見て、そう呟いた。

 そこは、ステラの第二研究室。

 母と呼ばれたその女性はナタリーに近寄ると、思い切りナタリーの頬をぶった。怒りと狂気に囚われた顔で、何度もナタリーを殴りつけた。


「ごめんなさい……! ごめんなさい……!」


 訳も分からず謝るナタリーは、恐怖と悲しみの余り、泣き出してしまう。


「許さない……! 私は、あなたを絶対に許さない……!!」


 その女性の血走った目は、ナタリーの脳に強烈に焼き付いた。ナタリーは歯をガチガチと鳴らして恐がった。


「ナタリー……!! ナタリー・クルス……!!」


 ナタリーは抵抗することもできずに、ひたすらその女性の暴力を見に受けて。遂には、ナタリーはその女性に首を絞められた。

 その女性は一切の加減なしにナタリーの首を絞める。細い首を折ってしまいそうな程、強く。ナタリーは息ができず、段々と意識が遠のいていく自分を感じていた。

 しかし、ナタリーは死ななかった。

 ナタリーの息の根が止まる前に、何処かでヘブンズガーデン全体を揺らす爆発が起き、女性が体のバランスを崩して、床に倒れたからである。

 解放されたナタリーは、激しく咽て、体を力無くよろけさせながらも、その場から逃げ出した。研究室を出て、あちこちに炎が上がる、崩れた廊下を走った。

 逃げるナタリーの脳裏にいつまでもちらつくのは、彼女が母と呼んだ女性の、殺意に満ちた表情。


 ――――許さない……!


 ナタリーの頭の中で、先程の女性の声が響く。


 ――――私は、あなたを絶対に許さない……!!


 声と共に、体中の痛みが、喉を締め付けられる苦しさが、蘇ってきて。

 恐ろしい、あの血走った目を、ナタリーは目前に幻視して――――



          ◆◆◆



「……っ!!」


 ナタリーは目を覚ました。息を荒く、体を汗ばませながら。

 電球の灯りが照らす物置小屋で、木の板の上で眠っていたナタリーは、自分が夢を見ていたのだと気が付くと、激しい動悸と不安感に襲われて、ゼロの姿を探した。

 けれど、ゼロは物置小屋の中にはいなくて。ナタリーは焦って起き上がり、物置小屋の外に出た。

 ナタリーの頭の中では、あの恐ろしい女性の顔が、何度も何度も浮かんできていた。





 天井から降り注ぐスプリンクラーの雨は止むことなく、ゼロを、ずだ袋の死体を、濡らしていく。

 あんなに平和だったヘブンズガーデン。

 このスペースコロニーに、一体何が起こったというのか。ここで暮らしていたクルス夫妻は、どうなってしまったのか。

 冷たい所もあったけれど、時折優しさを見せてくれたステラは。あんなに明るい人だったイーストンは、何処へ行ってしまったのか。

 数々の疑問に悲しい気持ちを抱きながら、ゼロはダッドの遺体に近寄った。

 ずだ袋の下に隠された顔を見る必要がある。見た目のか細さから女性であると推測されるこの人物は恐らく、ゼロの知らない人物であると思われるが、顔を覚えておいても損はない。

 ゼロがずだ袋の固く締められていた口紐を緩め、ゆっくりと顔からずだ袋を外していく。そして、ゼロはずだ袋の下に隠されていたその顔を見た。

 その顔は、焼かれていた。

 顔全体が、焼きごてを押されたかのように焼けただれて、原型はまるで残っていなかった。さらには、髪も全て無理やり引き抜かれたらしく、頭皮からは血が流れた跡がいくつも残っていた。

 ゼロは余りにも惨いその様に恐怖した。鋼鉄の身であれど、人間と同様の心を持たされたゼロは、生まれて初めて、見ただけで飲み込まれてしまいそうな狂気に恐れを感じた。


(こんな残酷なことをできる人間が、この世に存在するというのか)


「ゼロ……?」


 聞こえた声に、ゼロは振り返った。

 すると、目を覚ましたナタリーが、そこにいて。

 ゼロにはナタリーが怯えているのがすぐに分かった。ナタリーは物置小屋の扉を開けて、ダッドの遺体の横に膝を付くゼロを見つめていた。

 ゼロは察した。ナタリーの目に、今のゼロの姿がどう映っているのか。

 血まみれの遺体と、鉄パイプを傍に置いたゼロ。


「ゼロ……。それ……、ゼロがやったの……?」


 ゼロが否定しようと立ち上がると、ナタリーが身を縮こまらせる。ナタリーがこれ以上怯えないように、ゆっくりとゼロは歩み寄る。それでも、ナタリーは顔を青ざめさせて、ゼロに尋ねた。


「ゼロは……、ゼロは、そんなこと、しないよね……?」


 ゼロがナタリーに頷いて見せる。青くライトを光らせて、ナタリーを優しく抱きしめた。


「ゼロは、誰かを虐めたりしないよね? ゼロは、誰かを殺したりしないよね……? ゼロがやったんじゃ……、ないんだよね……?」


 ナタリーは泣き出してしまった。ゼロの体から離れようともがいて、逃げようとした。ゼロはそんな彼女を必死に捕まえていた。ナタリーをこんな危険な場所で一人にするわけにはいかない。

 ナタリーは泣き続けた。ゼロにずだ袋の彼女を殺したのかと、喚き尋ねながら。

 今も、ナタリーの頭の中では、あの恐ろしい女性の顔が思い起こされていた。ゼロを見る度に、恐怖の記憶が、あの痛みが、ナタリーの中で蘇る。

 ナタリーを守るために、ゼロがずだ袋の彼女を傷付けたのは事実だが、必要以上に痛めつけるような真似は決してしていない。

 ナタリーは現状への不安と恐怖に、怯えきっていた。


「ゼロ……、やだ……。恐いこと、しないで……。ゼロもお母さんみたいに恐い人になっちゃうの、やだよ……」


 ゼロはナタリーを抱きしめたまま、ナタリーが泣き止むのをじっと待った。

 せめて言葉を話せたのなら、ナタリーにこんな心配をさせずに済んだかもしれないのに。一言、「自分が殺したんじゃない」。そう言うだけで、ナタリーは安心できるはずなのに。

 ゼロは何度も青くライトを光らせた。ナタリーの心から不安を取り去ろうと、小さな体を包むように腕で囲んで。

 でも、どんなに頑張っても、ナタリーはずっと泣き止まなくて。

 切なく、はがゆい思いで、ゼロはナタリーの泣く声をずっと聞いていた。





 温室を進んでゆくゼロの後ろに、ナタリーがついて行く。ナタリーの足取りは重く、ゼロは何度も彼女が離れすぎないように立ち止まり、後ろを振り返って確認を怠らないようにした。

 時折、ゼロは振り返った際にナタリーと視線が合った。けれど、ナタリーはさっと目を逸らして、顔を俯かせてしまう。

 ナタリーがゼロに怯える様子に、ゼロも段々と草木を掻き分ける動きが重たくなっていった。


(どうしたら、ナタリーが自分を信じてくれるだろう)


 周囲を警戒しながら進むゼロは、電子回路の隅で考え続けた。

 度々体をよろめかせるナタリーの姿に、彼女はもう限界なのかもしれないと、ゼロは思う。ナタリーのような小さな子が、この狂気の状況下でこれまで頑張れたことが奇跡であったのかもしれない。

 暗く、恐ろしい、一つの希望もないこのヘブンズガーデンは、ナタリーの心をどこまでも追い詰めていく。宇宙に孤独に浮かぶスペースコロニー。狭くて小さな世界。狂ったこの世界で、どうして正常なままでいられるだろう。本来在るべき地球から完全に切り離されたこの場所で、誰が狂っていることを自覚できるというのか。

 ステラもイーストンも、自分が眠っている間に、とうの昔に狂ってしまったのかもしれない。ゼロはそんな予感がしていた。

 もう何度目か分からなくなった頃。ゼロがナタリーの方を振り返った時だ。沈黙を埋める雨音を切り裂いて、獣の咆哮のような遠吠えが聞こえてきた。

 ゼロはすぐにナタリーを抱き寄せ、周囲を何度も見渡した。植物に遮られて、ゼロにはせいぜい周囲十メートル程度の範囲しか視認することができない。


「何か……、いるの……?」


 ナタリーが忙しなく目線を動かし、恐る恐る周囲を見渡す。

 ナタリーの顔色が悪い。

 ゼロは慎重に、ナタリーを抱きかかえたままその場から離れだす。

 一旦、ナタリーを避難させなくてはいけない。安全な場所など存在するのか疑わしいが、それでも、四方を警戒しなくてはいけない、この視界の悪い温室から出るべきであると、ゼロは判断した。

 ダッドのような、ナタリーを脅かす存在が他にいないとは限らない。彼女たちが何者なのか判断できない限り、ヘブンズガーデンには今、何が潜んでいるのか分かったものではないのだから。

 温室中央にある固定電話へと向かう道を逸れて、ゼロは歩道の分かれ道を進んだ。分かれ道の少ない歩道は、ゼロたちに植物だらけの温室に確かな道を示してくれる。目先のことにすぎなくても、確かに。

 ゼロは周囲への警戒を強め、未だゼロに恐怖を抱くナタリーを庇うように、歩道の上を進んでいく。

 この先には、廊下へ出ることのできる扉があったはずだ。廊下が崩れてしまっている可能性は高いが、今のナタリーには落ち着くことのできる時間が必要であると、ゼロは考えた。


「ゼロ……? 何処行くの……?」


 確実に何かが潜むこの温室から、一時的にでも避難することをゼロは選んだ。ナタリーは固定電話への道を外れたゼロを、困惑した表情で見ていた。


「ねえ、ゼロ。ゼロ?」


 何度も尋ねかけてくるナタリーに、声に出して自分の意図をはっきり伝えてあげられないことが、ゼロには無性に悔しかった。






 結局、咆哮の主は現れることなく、ゼロたちは廊下へと出る扉に辿り着いた。

 扉をこじ開けると、やはり廊下は、殆ど天井が崩れ落ちてしまっていて。そこからは何処にも行くことはできないようだったが、ゼロは廊下の壁に給水機を見つけた。

 ゼロはライトを青く光らせて、ナタリーに分かるように給水機を照らす。疲れて座り込んでいたナタリーは、ゼロの意図と給水機に気が付くと、ゼロにお礼を言った。


「あ……。ゼロ……、ありがとう……」


 ナタリーが給水機のボタンを押して、噴出する水に口をつけた。そして、余程喉が渇いていたのだろう、ナタリーは給水機にかぶりつくように水を飲み続けた。

 ナタリーは大きく安堵の息を吐いて、壁にもたれかかった。そんなナタリーの水が垂れる口元を、ゼロがそっと指で拭う。

 ナタリーは少し驚き、それを見たゼロが慌ててライトを黄色に光らせ、両手を頭に当てて、“Oh no!”(しまった!)とでも言いたげなジェスチャーを取った。

 綺麗に洗ったとはいえ、血に塗れていた手でナタリーの口元に触れてしまったことに、彼女が怒ったのだと、ゼロは思った。

 ゼロは何度も謝った。言葉で謝れないから、彼は何度もライトを光らせ、頭を叩くジェスチャーで自分の気持ちを表した。ゼロは何よりも、ナタリーに嫌われることを恐れていた。

 自分の守るべき存在。己の存在する意味。

 ゼロにとって、ナタリーこそが全てであった。だから、ゼロは恐れる。ナタリーに嫌われること、それはゼロにとっては己の全てを失うことと同義であった。

 けれど、ナタリーは怒ってなどいなかった。ナタリーは少しの間、きょとんとしてゼロを見た後、弱弱しく笑って、言った。


「大丈夫。私、なにも怒ってないよ。ゼロは……、優しいね……」


 ナタリーがゼロの手に触れる。ゼロはジェスチャーを止めて、ナタリーにライトを向けた。力無く、儚いけれど、彼女は確かに笑っていた。

 ゼロはライトの色を無色の物に戻した。ナタリーが手で撫でるように、ゼロの手を優しく包む。ゼロの無色のライトで照らされるナタリーは、少し顔色が良くなったようにゼロには思えた。


「ごめんね。ゼロは、恐いことなんてしないもんね。さっきのも、たまたまだったんだよね?」


 まだ恐怖は抜けきっていないのが、声の震えから伝わってくる。


「ゼロは優しいから、絶対に誰かに酷いことしたりしないもんね。ね、ゼロ? そうだよね?」


 ゼロはライトを青く光らせて、ナタリーの手を握る。

 ナタリーを守るために、これから先、戦わなくてはならない場面はいくらでもあると分かっていても、ゼロはナタリーを安心させてあげたくて、嘘を吐いてしまった。


「……、そっか。よかった」


 笑顔を見せてくれたナタリーに、ゼロは嬉しくなって。ナタリーの頭をゼロが撫でる。撫でられるナタリーは、くすぐったそうに目をつむって。


「ゼロ、あは、くすぐったいよ……」


 ナタリーはゼロの手を押さえながら、影を残しはするが、楽しそうな声で笑ったのだった。





 ゼロとナタリーが廊下からもう一度温室へと戻ろうとした時、雨音を引き裂く咆哮が再び聞こえてきた。

 ゼロは急ぎ、ナタリーを廊下の奥へ隠れさせ、扉の陰から温室の方を覗いた。


「この声、なんだろう……。ゼロ、何かいる……?」


 ナタリーは声を潜めて、恐る恐るゼロに尋ねる。ゼロはナタリーに応答せず、温室に意識を集中していた。ゼロの目とも言える、メインカメラを備えたライトで温室を見渡す。

 ゼロには聞こえていたのである。

 温室の植物を乱暴に払いのけていく音。ぬかるんだ地面に、重たい足を打ち付ける音。荒く息を吐く、獰猛な獣のような呻き声。

 すぐそこに、確かに何かがいる。ゼロはその何かの正体を確かめようと、視界をできるだけ広く取るようにしてカメラを調整した。一度ゼロが見た物は、後に映像記録として何度でも再生できる。その時に何も認識できなくても、後から映像を見直せば、何かが映っていることを確認できるかもしれない。

 植物が揺れるのが見えた。温室を移動する何かは、植物の中に身を隠しながら、ゼロの視界を横切っていく。


(もし、気付かれてしまったのなら)


 ゼロはもしもの場合を想定して、戦闘行動を取るか否かの決断に迷っていた。ナタリーを守るためには戦うことが必要になるかもしれない。しかし、ナタリーはゼロが暴力を振るうことを酷く恐れている。


(これ以上、ナタリーを恐がらせたくはない)


 それがゼロの本音であり、誰かを傷つけたくないと、ゼロ自身も思っていた。

 だからゼロは、もし今、目の前を横切っていく何かが襲ってきた時は、ナタリーを連れて逃走すると決めた。ゼロの最終目的は、あくまでナタリーを地球へと逃がすこと。あえて戦う道を選ぶ必要はない。

 それに、今のゼロには外敵と戦う力はない。下手を打てば、あの痩せ細ったずだ袋の女にすら、機体を破壊されてしまう所であったのだから。

 何かの存在を示す音が、段々と迫ってくる。鼻を鳴らす音が聞こえてきた。匂いを嗅いで、周囲を探っているのか。

 泥を落としながら上げられた謎の存在の足が、べちゃりと音を立てながら、地面を踏みしめる。

 ゼロは音で相手の動作を予測しながら、気付かれないことを祈りつつ、植物の揺れる場所をカメラに捉え続けた。


「……、もう、何処かに行った?」


 結果、ゼロたちは温室を徘徊する何かに見つかることなく、やり過ごすことができた。ゼロにはその姿を認識することができなかったが、映像を見直せば何かが映っているかもしれない。

 ゼロはナタリーに手招きし、彼女にもう大丈夫だと伝えた。


「何がいたの?」


 ゼロは首を振って、分からなかったと答える。ゼロたちが温室へ出ると、もう雨音以外の音は聞こえてこなくなっていた。

 ゼロは自分のカメラに映っていた映像を再生し始めた。そこに映っているのは、植物の揺れる箇所を中心に捉え続け、徐々に左から右へずれていく映像だ。

 揺れる植物の隙間を拡大し、ゼロは植物の向こうにいる何かの姿を見つけた。

 ゼロと同じくらいの身長を持ち、異常発達した筋肉に包まれた、大きく膨張した体を有する生き物がそこには映っていた。

 土で汚れているが、肌の色は白い。人と同じく二本の腕と足を持っている。頭部は植物に隠れて映っていないが、太く伸びる首がその生き物の強靭さを思わせる。

 見たこともない生き物だ。ゼロは、この生物に見つからなかったことに心底安堵した。


「あ、ゼロ。あれ、あれ見て!」


 ナタリーが何かを見つけ、走っていった。ゼロが慌ててついて行くと、ナタリーは地面に屈んで何かを見ていた。


「これって……、足跡……?」


 雨でぬかるむ地面に残された、それは足跡であった。四十センチはありそうな大きな足跡だ。人間の裸足の足跡と同じ形をしたそれは、点々と温室の奥へと続いていた。

 ゼロたちの進む方向とは少しずれているが、また出くわす可能性は充分にありそうだ。


「ゼロ……」


 ナタリーが恐がって、ゼロに寄り添った。

 ヘブンズガーデンにいるはずのない存在。またも現れた謎の存在に、ゼロは疑問を積み重ねていく。

 数々の図鑑や映像資料で知る、地球の生物種のどれとも合致しない、異様な生き物だ。

 怪物という言葉がゼロの脳裏をよぎる。正に、やつは怪物と呼ぶにふさわしい。

 あの怪物は、何なのだろう。そして、あんな生き物がどうやってヘブンズガーデンに入ってきたというのか。

 答えは一向に出ず、ゼロはナタリーを連れて、温室の中央の固定電話へ向かって進みだした。





 歩道を辿って、歩いて、その先に。ゼロはついに固定電話を見つけた。植物に覆われて、危うく見逃す所だったが、固定電話の場所を覚えていたナタリーがゼロの代わりに見つけてくれた。

 一昔前の物となってしまった、電話ボックスだ。赤い色をした縦に長い箱の中に、黒い電話が一つと、通話相手の映像を見ることができるモニターが一つ、取り付けられている。ゼロはナタリーと共に電話ボックスの中に入り、受話器を取って数字の書かれたボタンを押していく。

 二〇一〇二〇〇八。

 ゼロの記憶する所では、これはイーストンが好きな二人のグラビアアイドルの誕生年を合わせた物であったはずだ。この番号が地球への緊急時の連絡番号になっている。

 ゼロは最後の数字を押す前に、ナタリーに見えるように、ナタリーと受話器を交互に指差した。


「うん、分かってる。助けに来てって言えばいいんでしょ?」


 ゼロはライトを青く光らせて頷き、最後の数字のボタンを押した。


「ちょっと……、狭いね、ゼロ」


 ナタリーの言う通り、ゼロの体が大きいせいもあって、電話ボックスの中は非常に狭い。ナタリーは少し体を縮めていたし、ゼロもできるだけナタリーがいやすいように、体を縮めるように努めていた。

 電話は、一向に繋がらなかった。何度掛け直しても、電話は接続音すら鳴らさない。

 地球に繋がらないのならと、ゼロは、今度は居住区の固定電話に電話を掛けることにした。イーストンがもし生きているのなら、電話に出るかもしれない。あるいは、ステラが。

 二〇二七二〇一三。

 こちらは確か、イーストンが好きな、日本のアイドルグループの結成年と、イーストンが一番好きだった、そのグループのメンバーの誕生年だったとゼロは記憶している。

 ゼロはよく、「ステラには秘密にしろよ」と言うイーストンに、散々日本のアイドルの関連映像を見せられてきた。けれど、ゼロには正直、良く分からなかった。

 ステラが電話に出たとしても、イーストンが出たとしても、何か重要な話を聞くことはできるだろう。ヘブンズガーデンに何が起こったのか、あの二人なら知っているに違いない。

 しかし、居住区への電話もやはり、繋がることはなかった。


「繋がらないの?」


 ゼロが頷いて、ナタリーに答える。

 これ以上、ここにいる意味はない。ゼロは急ぎナタリーを脱出艇に連れて行くことにした。道のりは長いが、それ以外にヘブンズガーデンから出る方法はない。


「これからどうするの……? やっぱり、脱出艇まで行くの……?」


 ゼロとナタリーが電話ボックスのドアを開けて、外に出ようとした時だ。

 突然、電話ボックスの中に置かれていたモニターの電源が入り、何かを映し出した。

 ゼロがドアを閉めて、絶えずノイズの走る画面にライトを向けた。すると、画面に映っているのが、人影であることに気が付いた。


「……、お母さん……」


 ナタリーがそう呟くと、ゼロはモニターを見直した。画面に波打つノイズの先に見えるもの。じっと見つめて、ゼロはついにそこに映る人影を認識した。

 そこに映っているのは、顔だった。

 ノイズで見えづらいが、皺だらけで血の気が薄い顔は、深く重ねた歳を感じさせる。ナタリーと同じ金色の髪は、酷く傷んでいるように見えた。睨む瞳は赤く血走り、胸の内から湧き上がる狂気が浮かんでいるようだ。


(これが、あのステラ・クルスなのか?)


 ノイズで見辛いとはいえど、その顔はステラそのものだ。少し、顔だちが老いているような気はするが。しかし、いつも厳めしい表情を浮かべてはいたが、彼女はこんな鬼気迫る顔をしたことはない。ナタリーを見るステラは、厳しさの中にも、何処か母としての優しさを持っている人だったのに。


「私は、オリジン。今はそう名乗っている」


(――――オリジン)


 ゼロはその名前を知っている。“オリジン”とは。ステラ・クルスのペンネーム。廊下に落ちていた論文にも書かれていた、彼女が研究者として活動する時に使っていた名であった。


「ゼロ……。そう……、その子は、あなたを起こしに行ったの……」


 オリジンの声が聞こえてくる。掠れ気味で、苦しそうに発する声は、モニターの裏のスピーカーから流れてくる。


「ナタリー。私の下へ帰ってきなさい。あなたに逃げ場なんて、ないのだから」


 どうやら、オリジンは電話ボックスの中の監視カメラから、ゼロたちの様子を見ているらしい。

 オリジンはナタリーに話しかけているようだった。しかし、ナタリーは怯え、声を振り絞るように答えた。


「やだ……、だって……、私のこと、虐めるから……」


 オリジンは冷たい目をしていた。ナタリーの言葉の一つ一つを、煩わしそうに聞いていた。そして、今度はゼロに話しかける。


「ゼロ、その子から離れなさい。私には、その子が必要なの。じきに迎えが行く。だから、大人しくその子を引き渡しなさい」


 ナタリーがゼロの後ろに隠れると、ゼロがナタリーを庇うように監視カメラの前に出る。滅多に使うことのない赤いライトを光らせて、オリジンに反意を示す。

 オリジンは続けた。


「ゼロ。あなたは、眠ったままでいるべきだった。あなたには、今のヘブンズガーデンが何一つ理解できないでしょう。あなたが眠った後、何があったのか、私が何を思っていたのか……、何一つ知らないあなたには……。今、ヘブンズガーデンは完全に外界と遮断されている。連絡手段も全て私が潰した。補給船も、もう四年以上来ていない」


 ゼロは淡々と語るオリジンに、疑問と怒り、そして悲しみを抱く。


(何故、何故変わってしまった。ステラ・クルス。どうして、ナタリーを怖がらせるような真似をする)


「もうダッドたちには会ったでしょう? ダッドは、私のおもちゃ。袋を被せられた彼女たちは、きっとあなたたちを襲ったはず。精神に異常を来たした彼女たちは、高い暴力性を持っている上に、みんなどうやらその子を憎んでいる。きっと、その子に嫉妬しているんでしょう。それに、個体によっては、ゼロ。あなたのこともダッドは恨んでいる」


 “ダッド”。ずだ袋を被った者たち。

 ダッドたちがゼロとナタリーを襲ったのは、彼らを恨んでいるからだとオリジンは言った。


「ゼロ。あなたはその子を守れない。もうすぐ、あなたたちを私の“サーバント”が見つけるでしょう。あなたはサーバントには勝てない。もちろん、ジェイソンにも」


(――――ジェイソン)


 その名を聞いて、ゼロは拳を固く握りしめた。それはゼロにとって、因縁深き存在を示す名であった。


「もし、ジェイソンがあなたの前に現れたなら、あなたは勝てる? ゼロ。作りかけの機械。試作品のあなたが、完成機のジェイソンに抗う術はない。余計な感情を持つあなたとは違って、ジェイソンは極僅かな感情しか持たない。ジェイソンは私の命令に、どこまでも忠実に従う」


 ゼロはそれでも、退く気はなかった。ライトを赤く光らせたまま、ナタリーを守るように監視カメラの前に立ちはだかった。


「ゼロ……。馬鹿な機械……。私に逆らうなんて……。守るべきものすら見失って、あなたはこのヘブンズガーデンで、何をしようというの?」


 誰が何と言おうとも、ゼロはナタリーを守る。それが、彼に与えられた使命。生まれた意味。ナタリー・クルスを守ることこそが、彼の全てだった。


「あなたは、やはり眠ったままでいるべきだった。全てが終わる時まで、ずっと――――」


 モニターの映像が途切れて、電源も切れた。

 電話ボックスに打ち付ける雨音が、静かになった空間を埋めていく。


「ゼロ……。お母さん……、私のこと、どうするつもりなの……? 私のこと、嫌いになったの……?」


 ナタリーは、また泣き出しそうに声を震えさせていた。母親に追われるということが、人間の子供にとってどれだけ恐ろしいことか。ゼロにそれを慮るには限度があったが、それでも、底知れぬ恐怖と悲しみを与えるのだろうということは、ナタリーの様子から伝わってきた。

 ゼロはナタリーの頭に手を乗せて、ライトを青く光らせる。そして、自分に親指を差し向けて、自分がナタリーを守ると示して見せた。


「……」


 けれど、ナタリーは深く落ち込んだまま、いつものように笑ってはくれなかった。





 電話ボックスから出てしばらく、ナタリーは一言も発することなくゼロに付いてきた。

 温室の出口には、もうそれほど遠くない距離までやって来ていたが、ダッドにはまだ遭遇していない。

 オリジンが言っていた“サーバント”という存在も、ゼロは危惧していた。今はまだ何事もないが、恐らく、波乱の時が迫っていることは明白であった。

 ふと、ゼロが足を止める。それに合わせ、ナタリーも足を止めて、ゼロが何故足を止めたのか気にした。

 前方に何があるのか。ナタリーがゼロの後ろから覗いて見ると――――

 前方にずだ袋を被った人々(ダッド)が、何人も何人も集まって、こちらを見ているのを見つけた。

 前方だけではない。右も、左も、ダッドたちが草木の間から顔を出していた。その数は、およそ十人を超えている。

 ナタリーが小さく悲鳴を上げる。ゼロはナタリーを連れて、少しずつ、少しずつダッドたちから距離を取った。


(このまま温室の中にいては、いつまで経ってもダッドたちに追われることとなる)

 だから、ゼロは走り出す。行動に制限がかかってしまうリスクを冒してでも、ナタリーを背負い、ダッドたちから逃げ出した。

 歩道から出れば、そこは植物の作り出す密林だ。まともな足場は無いに等しい上に、スプリンクラーの水でぬかるんだ地面は、ゼロの足を鈍らせる。


「来てる! 追って来てる!!」


 背負われたナタリーが叫ぶ。ゼロはぬかるむ地面と、生い茂る植物に阻まれながらも、必死にダッドから逃げた。背後から聞こえてくる数々の奇声、足音。ダッドたちの血走った目。全てがゼロとナタリーに恐怖をもたらす。

 ゼロに追いついてきた一人のダッドが、ゼロの腹部の配線を掴んだ。コードが千切れる音がして、ゼロは焦り、ダッドを振り払おうと拳を振るってしまう。

 他のダッドたちに追い付かれないように前へ進みながらも、体にしがみついて離れようとしないダッドを、ゼロは何度も何度も殴りつけた。

 血をまき散らせながら、ダッドの頭を、胴体を、何度も、何度も、殴って。

 猟奇的にすら見えるゼロのその様を、ナタリーがゼロの背中にしがみつきながら、じっと見つめていることにも、ゼロは気づかずに。

 ダッドの頭蓋が陥没したのか、ずだ袋の下から濃血が滲みだしてくると、ダッドはようやくゼロから手を放した。

 ゼロの手から漂う血の匂いと、力無く地面に落ちたダッドの姿を、ナタリーは青ざめた顔で目に焼き付けた。

 ダッドたちから逃げながら、ゼロは大きくUターンする形で、再度温室の出口を目指した。なんとしてでも、ダッドが蔓延るこの温室をここで抜けると、ゼロは決めていた。追ってくるダッドたちの隙を突き、歩道へと出たゼロは、遠くに見えた出口へと速度を全開にして走った。


「ゼロォォオオオオオオオオオオオッ!!」


 ゼロの名を呼ぶ、その雄叫びは誰の物か。駆け抜けるゼロへ向け、怒りのこめられた咆哮を向けるのは。

 全長二メートル以上はある体に、異常に発達した筋肉を持つ怪物。髪の無い頭に、まるで焼け爛れたかのような赤黒い顔をしていた。

 二本の腕と二本の脚を持つ、白い肌のその怪物が、オリジンの言っていた“サーバント”に違いないと、ゼロには分かった。

 後方からサーバントが植物を薙ぎ払い、ゼロへと猛進してくるのが見える。サーバントに捕まればゼロはお終いだ。オリジンが言っていた“迎え”がサーバントのことであるなら、ナタリーも連れ去られてしまう。もし違うとしても、その時はナタリーも殺されてしまうかもしれない。

 前方、及び左右から何人ものダッドが現れた。ゼロとナタリーへ手を伸ばし、絡みつこうと迫る。背後からは、ダッドを投げ飛ばしながら迫るサーバントが吼えている。

 もう退く事はできない。ゼロは次々に歩道に現れるダッドたちにぶつかりながら、ダッドが掴む手を振り払いながら、出口の扉へ向けて走った。

 無数のダッドの手がついにゼロの右腕に届き、ゼロの配線を引きちぎる。右手首から指先にかけての機能が失われ、ゼロの右手は動かなくなってしまう。それでもゼロは左腕で背中のナタリーを支え、力無く手首のぶら下がる右腕を乱暴に振って、ダッドを遠ざけた。

 ついに辿り着いた温室の出口。ゼロはナタリーを背中から降ろし、動かない自動扉を左手でこじ開ける。少しずつしか開かない扉を、何度も引いて隙間を作る。ようやくナタリーが通れる程度の隙間が空いた時、背後からダッドたちが追いつき、ゼロの体に絡みついてきた。


「ゼロ! ゼロ!!」


 ナタリーを先に扉の向こうへ避難させ、ゼロはダッドたちを引きはがそうと暴れた。そして、そこに響く咆哮。

 サーバントが、ゼロに追いついた。

 ダッドに襲われながらも扉を開けようとしていたゼロの背中に、サーバントの拳がめり込んだ。ゼロは扉にぶつかり、倒れてしまう。サーバントがゼロにとどめを刺そうと、ゼロの右腕を掴んだ。


「ゼロ! 早く!」


 ナタリーが扉の隙間から、ゼロを呼ぶ。ゼロは縋る想いで、ナタリーが通れる程度の隙間に逃げ込もうとした。ゼロに通れるか定かではなかったが、もう一か八かの賭けに出るしかない。

 サーバントに掴まれた右腕が激しく軋む音を立てても、ゼロは無理やり隙間に潜りこんだ。ゼロは扉に左手をかけ、体を隙間に押し込んでいく。背中の装甲が扉に引っかかり、装甲が剥がれながらも、ゼロの体は暗い廊下へ入った。

 しかし、ゼロの体は完全に廊下へと入れてはいない。まだ、サーバントはゼロの右腕を放さず、ゼロを引きずり出そうと温室から引っ張り続けている。

 ここで温室へと引きずり出されれば、今度こそゼロは破壊されてしまう。ゼロは必死に抵抗し、扉にゼロの右腕が押し当てられた。

 右腕から、激しく軋む音がした。

 それから、鉄が割れる音の後に、何本ものコードが千切れる音がした。

 サーバントの怪力とゼロの抵抗の末、ゼロの右腕は限界を迎え、へし折れ、千切れてしまった。

 右腕が千切れたことで解放されたゼロは、暗闇の廊下をナタリーを連れて走り出す。

 扉が強烈に叩かれる音と、ひしゃげていく音が聞こえてきた。機能している電灯の灯りは乏しい。

 殆ど先の見えない廊下でゼロが見たナタリーの表情は、もう彼女の心が限界であることを告げていた。


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