第9話 正しい規則違反
手術から三日後、石川は院長室に呼ばれた。
ノックをして中へ入ると、院長は大きな机の向こうに座っていた。机の上には、あの夜の手術記録と処分通知書らしき封筒が置かれている。
「失礼します」
「座ってください」
石川は椅子に腰を下ろした。
免職。
医療行為の禁止。
行政への報告。
この三日間で、考えられる処分は一通り調べた。最悪の場合、医師免許に影響することも覚悟していた。
院長が手術記録を閉じた。
「まず、患者を救ってくれてありがとう」
石川は顔を上げた。
「……怒られると思って来たんですが」
「それはあとです」
「あとにはあるんですね」
「当然です」
院長は小さく笑った。
「緊急の院内検証では、搬送した場合の危険性、心臓外科医の到着予測、GP8が提示した手術成功率を確認しました。正式な調査は続きますが、現時点での結論は出ています」
「どんな結論ですか」
「医学的には、あなたの選択が最善だった」
院長は迷いなく言った。
「私があの場にいても、同じ判断をしたと思います。規定違反を肯定することはできません。しかし、医師として患者を見捨てなかったことまで否定するつもりはありません」
石川は何も答えられなかった。
叱責される覚悟はできていた。
感謝される覚悟は、できていなかった。
「患者さんの状態は?」
「意識は回復しています。今のところ、重い後遺症も確認されていません」
「そうですか」
石川は大きく息を吐いた。
それを聞けただけで十分だった。
「ただし」
院長が机の上の封筒に手を置いた。
「あなたが規定に違反したことも事実です。専門外の医師が、心臓外科医の立ち会いなしに自律手術を承認した。組織として、何の対応も取らないわけにはいきません」
「分かっています」
「三か月の自宅待機です。処分上は謹慎扱いになります」
「三か月ですか」
「重いと思いますか?」
「免職まで覚悟していたので、意外と軽いなと」
院長は少し黙った。
「……その発言は聞かなかったことにします」
「お願いします」
「病院は表向き、今回の件を重大な規定違反として厳正に扱います。院内調査と行政への説明が終わるまで、しばらく表に出ないでください」
「政治的な謹慎ですか」
「そう受け取ってもらって構いません」
院長は手術記録に視線を落とした。
「この病院は、早くからAI医療を導入してきました。だからこそ、今回の件を一人の医師の暴走として終わらせるつもりはありません」
「俺が規則を破ったことが問題なんじゃないんですか」
「それも問題です。しかし、それ以上に問題なのは、規則を守っていれば患者を救えなかった可能性が高いことです」
院長の声は穏やかだった。
「現実が、制度より先へ進んでしまったんですよ」
石川は封筒を受け取った。
「三か月後には戻ってきてください」
「戻れるんですか?」
「戻ってもらわないと困ります。そのころには、ルールの方が変わっているかもしれません」
「変わってなかったら?」
「そのときは、また一緒に困りましょう」
院長室を出た石川は、手にした封筒を眺めた。
患者を救った。
褒められた。
そして謹慎になった。
「医者の世界、難しすぎないか」
手元のジッピが答えた。
『制度とは、例外が発生するたびに修正されるものです』
「お前のせいで例外になったんだけどな」
『最終的に承認したのは石川先生です』
「責任だけはきっちり返してくるな」
翌日から、石川は家で過ごした。
ジッピの端末は手元に残ったが、患者情報や病院の医療ネットワークへの接続は停止された。医療以外の機能は、これまでどおり使うことができた。
朝、妻を仕事へ送り出したあと、石川は庭へ出た。
以前植えたミカンの苗木は、わずかに背を伸ばしていた。石川がじょうろを傾けると、ジッピが声をかける。
『昨日も水を与えています』
「謹慎中で暇なんだよ」
『暇であることと、必要な水分量は関係ありません』
「愛情は多い方がいいだろ」
『過剰な愛情は根腐れの原因になります』
「植物相手だと急に深いこと言うな」
石川がじょうろを置いたとき、室内のテレビから聞き覚えのある話が流れてきた。
『ある公立病院で、専門医不在のままGP8による緊急手術が行われていたことが分かりました』
病院側は、今回の処置を「規定外のAI支援手術」と発表していた。
しかし、画面に表示された文字は違った。
人間不在の完全自律手術。
『手術を承認したのは、当直中の内科医でした。病院はこの医師を三か月の自宅待機とし、謹慎扱いにしたと発表しています』
病院名も、石川の名前も明かされていない。
画面に映っている医師は、誰か分からない黒い人影だった。
『専門医の立ち会いなしに、AIへ命を委ねることは重大な安全上の問題です』
テレビでは、識者が危険性を訴えていた。
一方、別の番組やSNSでは、患者が助かったという結果に注目が集まっている。
なぜ人間より成功率の高いAIを禁止するのか。
規則を守って患者が死ぬ方が正しいのか。
結果が良かったから英雄扱いしているだけではないか。
名前も顔も知られていない石川の決断に、知らない人々が意味を与えていく。
当の本人は庭のミカンに水をやりながら、それを眺めているだけだった。
英雄になったつもりはなかった。制度を変えようとしたわけでも、AIの可能性を証明したかったわけでもない。
ただ、目の前の患者を助けたかった。
それだけだった。
一か月後、政府はAI自律手術に関する検討会の設置を発表した。
まず議論されるのは、専門医が不在で搬送も困難な場合に限った特例運用だった。
緊急時に、GP8による自律手術を認めるべきか。
認めるなら、誰が承認し、誰が責任を負うのか。
石川の処分をきっかけに、議論は急速に広がっていった。
『石川先生の決断が、社会制度に影響を与えています』
ジッピの報告を聞きながら、石川はミカンの苗木を眺めていた。
「大げさだよ。俺は患者を一人助けただけだ」
『社会の変化は、一つの例外から始まる場合があります』
「俺は謹慎中だぞ。難しい話は偉い人同士でやってくれ」
『謹慎と理解力に関連性はありません』
「三か月、お前の電源切ってやろうか」
『推奨しません』
ミカンの枝の先には、小さな新芽が出ていた。
石川が仕事を休んでいる間にも、社会は彼の決断を追いかけていた。




