第8話 決断
『石川先生。手術を実行しますか』
画面には、三つの警告が並んでいた。
心臓外科医不在。
専門外医師による承認。
規定外の自律手術。
規則に従えば、患者が助かる可能性は一割ほどしかない。規則を破れば、八割近くまで上がる。
それでも石川は迷った。
七十八・六パーセントは、百パーセントではない。死亡した場合、AIではなく承認した自分が責任を負うことになる。
医師免許を失うかもしれない。
もう二度と、患者を診られなくなるかもしれない。
『血圧、測定限界に近づいています』
何もしなければ、目の前の患者は死ぬ。
石川が迷っている間にも、モニターの数字は下がり続けていた。
「ジッピ」
『はい』
「手術を実行しろ」
『この命令は、石川先生の権限を超えています』
「分かってる」
『実行した場合、石川先生の識別情報と承認記録は保存されます。取り消すことはできません』
「全部残せ」
『重大な規定違反として処分対象となる可能性があります』
「しつこく俺を脅してくるな」
『必要であれば、予測される処分を提示します』
「いらん。今それ見たら怖くなる」
石川は画面に指を置いた。
指紋と静脈が読み取られ、警告表示が一つずつ消えていく。
『規定外処置の実行を確認しました』
「手術室を開けろ」
『了解しました』
廊下の照明が一斉についた。
ケアアームがストレッチャーを受け取り、女性を手術室へ運ぶ。別のアームが薬剤を接続し、手術部位の準備を始めた。
石川が手術室へ入ると、天井から六本の手術アームが降りてきた。
人工呼吸器、麻酔器、人工心肺装置。それぞれのGP8がジッピと接続され、患者の状態を共有する。
『麻酔管理を開始。人工心肺装置の準備完了』
「俺は何をすればいい」
『黄色い線の外で患者の状態を監視してください』
「見てるだけかよ」
『石川先生の承認がなければ、手術は開始できませんでした』
「そういう慰め方、覚えたんだな」
『事実を述べました』
手術アームの先端に器具が装着された。
『手術を開始します』
刃が胸に触れた。
切開、止血、開胸。
六本の腕は、互いの動きを邪魔することなく同時に作業を進めていく。一本が切開し、一本が血液を吸引し、別の腕が組織を押さえる。
人間の手術とは違った。
声による指示も、器具の受け渡しもない。すべての機械が最初から同じ情報を持ち、次に何をするかを共有していた。
『心嚢内の血液を除去します』
圧迫されていた心臓が姿を現した。
『解離範囲を確認。術前予測より十二ミリメートル拡大しています。術式を修正します』
「待て。大丈夫なのか」
『修正後の推定生存率、七十六・九パーセントです』
「下がってるじゃねえか」
『現実の状態が判明したため、予測を更新しました』
「俺の承認は?」
『最初に承認された術式の範囲内です。追加承認は必要ありません』
アームは止まらなかった。
人工心肺が動き始め、女性の血液が透明な管を流れていく。裂けた大動脈が切除され、代わりに人工血管が縫い付けられていった。
石川は黄色い線の外から見ていることしかできなかった。
手術を許可したのは自分だ。
だが、その許可を出したあと、ジッピは一度も石川の判断を求めなかった。
『吻合部から微量の出血を確認』
「止められるか」
『処置中です』
一本のアームが縫合を追加し、別の腕が出血量を測定する。
『止血を確認』
迷いはなかった。
六本の腕は、一度も震えなかった。
石川の手だけが、ずっと震えていた。
『自己心拍を確認。人工心肺から離脱します』
モニターに規則正しい波形が現れた。血圧が少しずつ上がっていく。
『循環動態が安定しました。推定生存率は九十六・四パーセントまで上昇しています』
石川は大きく息を吐いた。
「七十八・六パーセントを引いたか」
『生存は確率抽選ではありません』
「知ってるよ」
『最も生存確率の高い選択が行われたことは事実です』
手術室の扉が開いた。
非番だった心臓外科医の池上が、息を切らして入ってきた。
「患者は?」
「安定しています」
「手術を始めたのか?」
石川は、動き続ける六本の腕を見上げた。
「もう人工血管の置換まで終わりました」
「誰が執刀した」
「ジッピです」
「ジッピ?」
『私です。石川先生がそう呼んでいます』
池上は手術記録を開いた。術前画像、術式の変更、人工心肺の記録、吻合部の映像。そのすべてを無言で確認していく。
「……これを全部、GP8が?」
『はい』
「誰が承認した」
「俺です」
「分かってるのか。これは規定違反なんてもんじゃないぞ」
「分かってます」
「免許を失うかもしれない」
「それも聞きました」
石川は眠る女性を見た。
「でも、生きています」
池上は何も言えなかった。
彼が到着したとき、残されていた仕事は、AIが救った患者を確認することだけだった。




