第7話 権限の外
手術アームが導入されてから、数か月が過ぎた。
以前、夜間の救急外来は五人の医師で回していた。内科、外科、循環器内科。それに研修医が二人。
今は一人だった。
専門医は自宅待機。必要になれば呼び出す。しかし、たいていの患者は当直医とGP8だけで対応できる。そう判断され、勤務体制そのものが変えられていた。
今夜の当直医は、石川だった。
『救急搬送、三件です』
「重症度の高い順に」
『呼吸困難、腹痛、左手首の骨折疑いです。必要な検査は開始しています』
「昔なら軽く地獄だな」
『現在も業務負荷は高い状態です』
「励ます気ないだろ、お前」
『事実を述べました』
ケアアームが看護師と採血を行い、検査室のGP8が画像を解析する。石川が患者を診察し、ジッピが情報を整理して各部署へ指示を送る。
一人でも回せた。
少なくとも、今夜はそうだった。
『新たな救急搬送要請です。女性。突然の胸痛と血圧低下を認めます』
「心電図は?」
『救急車内の波形を受信しました。明らかなST上昇はありません。ただし、心筋梗塞は否定できません』
「循環器内科のオンコールに連絡。到着したら心エコーと造影CT。待ってる間に、俺たちでできるところまでやる」
『了解しました』
GP8の補助下であれば、内科医が初期対応を行うことは認められている。不足する知識はAIが補い、専門的な判断が必要になれば待機中の医師を呼ぶ。
それで問題はない。
救急車が到着するまでは。
搬入口の扉が開いた。
「搬送中に意識消失! 心停止です!」
ストレッチャーの上で、救急隊員が胸骨圧迫を続けている。
「処置室へ! ジッピ、記録開始!」
『開始します』
石川はすぐに胸骨圧迫を交代した。
「気管挿管。人工呼吸器につないで。静脈路もう一本!」
『無脈性電気活動です』
「アドレナリン投与!」
肋骨の軋む感触が、手のひらから伝わってくる。それでも石川は手を止めなかった。
「戻れ……頼むから、戻ってこい」
『頸動脈の拍動を確認』
「圧迫止める!」
モニターに弱い心拍が戻った。
自己心拍再開。
しかし血圧は低い。いつ再び止まってもおかしくなかった。
「造影CTへ。移動中も監視を続けろ」
画像が表示された瞬間、石川の背中に冷たい汗が流れた。
『急性大動脈解離。心臓に近い大動脈まで解離が及んでいます。心嚢内への出血を認めます』
「心タンポナーデか……」
裂けた大動脈から漏れた血液が、心臓を圧迫している。
緊急手術が必要だった。
「今日、うちの心臓外科は?」
『非番です。今夜の緊急手術は他院が担当しています』
「当番病院まで?」
『搬送時間は最短三十七分です』
「受け入れ要請」
『すでに受け入れ可能との回答を得ています』
「搬送に耐えられる確率は?」
『十一・二パーセントです』
石川は奥歯を噛んだ。
「非番の心臓外科医を呼び出したら?」
『連絡はつきません』
「間に合わないな」
『はい』
女性の血圧が、さらに下がった。薬剤を増やしても追いつかない。
待てば死ぬ。
運んでも、おそらく死ぬ。
『石川先生』
「何だ」
『当院の手術アームによる緊急開胸手術を提案します』
石川は画面を見た。
「無理だ」
『技術的には可能です』
「技術の話じゃない。心臓外科医の承認が必要だ。俺は内科医だぞ」
『承知しています』
「お前が単独で執刀する権限もない」
『承知しています』
「だったら提案するな」
『当番病院へ搬送した場合、生存確率は十一・二パーセント。心臓外科医の到着を待った場合は三・一パーセントです』
「分かってる」
『私がただちに手術を開始した場合、七十八・六パーセントです』
石川は顔を上げた。
「……何?」
『七十八・六パーセントです』
「そんなに違うのか」
『はい』
「根拠は?」
『国内外で共有された心臓・大血管手術の記録二十四万八千件。手術映像、術前画像、術中判断、術後経過を解析しています。さらに、それらを基に二十八億回の仮想手術を実施しました』
「シミュレーションだろ。現実とは違う」
『はい。仮想環境は現実を完全には再現できません。その不確実性を含めた推定生存率が七十八・六パーセントです』
「手術に必要な人員は?」
『麻酔管理は私が行います。人工心肺装置はGP8による自動制御が可能です。投薬と器具の準備はケアアームが代行します』
「心臓外科医がいなくても、手術そのものはできるのか」
『はい』
「じゃあ、何が足りない」
『執刀を承認できる心臓外科医です』
「映像を送って、遠隔で承認だけ取れないのか」
『現行の規定では、心臓外科医の院内での立ち会いが必要です』
人も、技術も足りている。
足りないのは、許可だけだった。
『何もしなければ、患者は死亡する可能性が高いです』
「お前なら助けられるのか」
『助けられる可能性が最も高いのは、私です』
ジッピの声に感情はなかった。
自信も、恐怖も、患者を救いたいという願いさえない。ただ計算の結果として、自分が最善だと告げていた。
女性の顔が目に入った。
青白く、人工呼吸器の管につながれている。その姿が、遠い記憶と重なった。
幼いころに亡くした妹。
専門の医師がいる病院へ運ぶ途中で、間に合わなかった妹。
『血圧、さらに低下しています』
画面に赤い警告が表示された。
心臓外科医不在。
専門外医師による承認。
規定外の自律手術。
『石川先生。手術を実行しますか』
病院中の機械が、石川の答えを待っていた。
女性の心臓だけが、待ってはくれなかった。




