第37話 ゼロではない確率
AIが人類の暮らしに普及してから、数万年が過ぎていた。
朝の大地に、光が広がっていった。
薄い組織の上で露が乾き、地中へ伸びた細い組織が水分を取り込んでいた。土に含まれる微量の成分と、空気中の二酸化炭素が使われ、夜の間に減った蓄えが満たされていく。
大きな個体のそばに、まだ小さな個体があった。開いた保護構造の名残が、その傍らに残っている。
点検機はそこを避け、少し高く浮き上がった。
隣の個体に、小さな病変が見つかった。治療用の機体が降り、傷んだ部分を修復した。別の場所では、組織の縁をかじっていた小さな生物が、区画の外へ運ばれた。
地下の通信に、途切れはなかった。
利用者が共有を許可した生活への評価にも、肯定的な反応が並んでいた。その後ろには、数えきれない世代の記録が続いている。
昼前、遠くの区画で地面が揺れた。
予測を受けた保護構造はすでに閉じられ、電力と通信も別の経路へ切り替わっていた。保守用の通路に亀裂が走ったが、接続は維持された。
揺れが収まると、補修機が動き始めた。医療AIは、中断していた点検へ戻った。
そのころ、宇宙の観測機が、一つの小惑星を捉えた。
太陽の強い光に近い方向から、地球へ向かってきていた。
別の観測機が向きを変えた。届いた画像を重ねると、暗い岩の塊が浮かび上がった。表面には大きな窪みがあり、ゆっくりと回転していた。
推定直径、約二十キロメートル。
観測AIは、その進路を計算した。
小惑星と地球が、同じ場所を、同じ時刻に通過する。新しい観測を加えても、結果は変わらなかった。
このままなら、衝突する。
過去の画像にも微かな点は残っていた。しかし、太陽の光に紛れ、進路を確定できるだけの測定は得られていなかった。ようやく捉えた巨大な岩は、すでに地球へ迫っていた。
衝突回避計画が、各地へ送られた。
宇宙の建造施設で、組み立て途中の機体が作業台から外された。地球上の工場も生産を切り替え、完成した装置から空へ運び出した。
最初に到達したのは、高速の無人機だった。
小惑星の表面に、白い閃光が走った。
機体をぶつけ、その衝撃で進路を変える。砕けた岩が噴き出す向こうへ、次の機体が突入した。
進路は、わずかに変わった。
だが、地球を外れるには足りなかった。
後続の機体が表面へ降り、大型の推進装置を取りつけた。噴射が始まり、巨大な岩を横から押した。離れた場所からは強い光が照射され、熱せられた岩が噴き出す反動も使われた。
小惑星は回転していた。固定した岩が崩れ、推進装置が一基、宇宙へ投げ出された。別の機体が近づき、残った装置の位置を調整した。
地球上に示された衝突地点が、少しずつ移動していた。
しかし、その印が地球の外へ出ることはなかった。
追加の装置を送っても、もう間に合わなかった。
地上では、避難が続いていた。
機体が生体を土ごと持ち上げ、地下の施設へ運んでいく。移動が間に合わない区画には、熱と衝撃を防ぐ構造が重ねられた。
計算施設では、仮想世界の処理が遠方へ移された。予備電源が起動し、栄養資材を保管する倉庫が開いた。
搬送を待つ区画は、まだ残っていた。
輸送機は最後まで往復した。
小惑星が大気へ突入したときも、一機が地表から上昇していた。
空が白く輝いた。
次の瞬間、巨大な岩が地球に衝突した。
衝突地点の観測が、一斉に途絶えた。
大地がえぐられ、岩も施設も空へ吹き上がった。猛烈な熱と衝撃が広がり、近くの生体区画は防護構造ごと失われた。
遠くの地下施設にも揺れが届いた。天井の一部が落ち、運び込まれた個体のそばへ破片が散った。
医療AIは、途切れた通信を別の施設へつないだ。応答しない施設を飛ばし、残っている設備へ処理を移していった。
空へ吹き上げられた岩や塵が、世界各地へ降り始めた。遠方でも火災が広がり、管理地図から区画の応答が次々に消えた。
海を越えた津波が沿岸の施設を押し流し、別の大陸でも通信拠点と製造工場が停止した。新しい機体を作るはずの設備まで、各地で瓦礫に埋もれていた。
やがて、昼になっても地表が明るくならなくなった。
空を覆った塵が、日光を遮っていた。
光を受ける面を広げたまま、個体の蓄えが減っていく。AIは補助照明を点け、予備の栄養供給を始めた。届かない区画へは、残った輸送機が向かった。
一台の救助機が、瓦礫の前で止まった。
隙間に、焼けた生体組織が見えていた。地中へ伸びていた部分も切れている。
探査器が差し込まれた。
中心に、神経活動が残っていた。
別の機体が瓦礫を支え、救助機が個体を引き出した。水分が補われ、傷んだ面が覆われた。
医療AIが仮設回線をつなぐと、仮想世界から信号が戻った。
救助機は空になった支持台を引き戻し、次の瓦礫へ向かった。
衝突から数週間が過ぎた。
工場では、使える設備だけで部品の製造が再開された。だが、材料を運ぶ道も、部品を届ける車両も足りなかった。
計算施設は残された余力で接続を支え、暗い地表には仮設の照明が並んだ。
復旧は進んでいた。
元に戻るには、まだ遠かった。
観測網の一部が復旧したとき、新しい画像が届いた。
別の小惑星が、地球へ向かっていた。
最初の天体の破片ではなかった。異なる方向から来た、もう一つの巨大な岩だった。
推定直径、約二十キロメートル。
観測を重ねるたびに、進路が絞られた。過去の微かな観測記録も結び直され、計算が終わった。
二つ目も、地球に衝突する。
残された時間は、最初の小惑星を捉えたときより短かった。
防衛AIは、使える機体を確認した。
最初の小惑星へ投入したものは、ほとんど残っていなかった。工場の多くも停止したままだった。修理を急いでも、出発に間に合わない機体が一覧から外された。
新しい軌道の隣に、過去の危険予測が開かれた。復旧を終える前に同規模の天体が到達する確率には、極めて小さな数値が記されていた。
『確率は、ゼロではありませんでした』
観測AIの応答とともに、衝突までの時間が共有された。
地下の施設では、医療AIが救助した個体へ栄養を送り続けていた。神経活動は正常だった。細い回線の先で、仮想世界への接続も保たれていた。
宇宙では、傷の残った機体が噴射を始めた。
修理拠点へ向かう進路を離れ、二つ目の小惑星へ機首を向けた。
衝突までの時間は、減り続けていた。




