第30話 今日も忙しい
宮尾の家のテラスには、焼きたてのパンが並んでいた。
海を見下ろしながら、石川はコーヒーを飲む。向かいの宮尾は、朝のフットサルを終えてきたところだった。
「朝からよく走るな」
「目が覚めるぞ」
「俺はコーヒーでいい」
隣では、間瀬が地図を広げていた。細かな文字で書かれた町名の間を、指でなぞっている。
「今日はここから入って、蕎麦食って、芝居見て、最後に船」
「朝飯食ってる最中に、もう次の飯の話か」
「旅は段取りが大事なんだよ」
「お前が言うと、ちょっと心配になるな」
石川は予定を確認した。午後は真希と千秋に会うことになっている。何か作っているから手伝ってほしい、という連絡だった。
「今日も忙しいな」
「お前、仕事してた頃より予定あるだろ」
宮尾に言われ、石川は笑った。
「働いてないのにな」
「そろそろ休み取れよ」
「遊ぶの休んで何すんだよ」
間瀬が地図を閉じた。
「じゃあ、食い終わったら江戸な」
通りに出ると、天秤棒を担いだ男が横を通り過ぎた。
軒先に反物が掛かり、店の奥から客を呼ぶ声が聞こえる。石川が立ち止まると、間瀬が得意げに先を指した。
「今回は平和な旅にしたから」
「前回もそう言ってなかった?」
「秀吉に斬られたのは事故だ」
「本人に小さいって言ったんだろ。事故じゃないだろ」
宮尾が笑うと、間瀬は聞こえないふりをして歩き出した。
蕎麦屋から出汁の匂いが漂ってくる。
「もう食うの?」
「少なめにすればいいだろ」
結局、三人とも一人前を頼んだ。
隣の客の食べ方をまねて、石川は蕎麦を少しだけつゆにつけた。勢いよくすすろうとして、途中でむせる。
「慣れないことするから」
「見てたなら先に言えよ」
芝居小屋の前には人だかりができていた。三人はそのまま中へ入り、役者の見得に周囲と一緒に拍手をした。筋が分からなくなったところは、宮尾が小声で説明してくれた。
「お前、詳しいな」
「さっき説明読んだ」
「俺にも送れよ」
「読まないだろ」
「まあな」
船に乗るころには、石川はすっかり満足していた。
川沿いに家々が並び、橋の上を人が渡っていく。宮尾が船べりに腕を置いた。
「昔の人は、本当にこういうところで暮らしてたんだよな」
「朝起きて、仕事行って、飯食ってな」
間瀬が答える。
「俺たちの生活も、そのうち昔の暮らしって言われるのかな」
「もう言われてるだろ。毎朝、仕事に行ってたんだぞ」
石川が言うと、宮尾はうなずいた。
「よく行ってたな」
「お前は電車乗せてた方だろ」
間瀬は笑い、次の旅行先を開いた。
「明日は恐竜見に行かない?」
「今度は食われるのか」
「食われない設定にするよ」
「秀吉にも斬られない設定にしとけよ」
「あれは会話を楽しみたかったんだって」
「楽しませる前に怒らせるからだろ」
船頭がこちらを振り返った。三人は少し声を落とし、そのまま明日の集合時間を決めた。
真希から届いた招待を開くと、石川は空に浮かぶ庭へ出た。
足元には白い道が伸び、その先で大きく途切れている。向こう岸では、千秋が池に魚を増やしていた。
「千秋ちゃん、そこに池を広げると道がなくなるよ」
「飛んで渡ればいいじゃん」
石川は途切れた道と、池を見比べた。
「……確かに」
「たっちゃんまで納得しないでよ。歩いて見て回れる庭にしたいんだから」
真希は笑いながら、池の端を少し動かした。二人ともいつもの子どもの姿だった。石川もそれに合わせ、短くなった袖を引っ張った。
「で、何を手伝えばいい?」
「あっちの島から、ここに橋を架けたいの。どこにつながると歩きやすいか、一緒に見て」
「俺、設計できないぞ」
「歩いてくれればいいよ」
「得意分野だな」
試しに架けた橋を渡ると、出口に大きな岩があった。
「着いた瞬間、行き止まりなんだけど」
「それ、千秋ちゃんがさっき置いたやつ」
「滝にするの!」
「橋を渡ったら滝に打たれるのか。修行の庭?」
千秋が笑い、岩を少し横へずらした。
三人で道をつなぎ、広場を作り、眺めのいいところに椅子を置いた。石川が座って確かめていると、千秋がすぐ隣に巨大な花を咲かせた。
花の中には、小さな家が収まっていた。
「誰が住むんだよ」
「たっちゃん」
「俺の家、花の中なの?」
「いい匂いするよ」
「洗濯物も全部この匂いになりそうだな」
真希が家の窓をのぞき込んだ。
「いいじゃん。ここ、残そうよ」
「住む本人に聞いてくれよ」
「ベッドも作ってあげる」
千秋はもう、家の中に家具を並べ始めていた。
庭の入口を作っている途中で、真希が手を止めた。
「あのガラスの形、どうなってたっけ」
「どれ?」
「前に作ってた、ねじれてるやつ。ジッピ、作業場を映して」
小さな画面が開いた。棚にはガラス細工や陶器が並び、作業台の上には、口の開いた箱と道具が置かれている。
真希は映像を近づけた。
「ああ、ここから曲げてたんだ」
「それ、まだ作ってたの?」
「うん。今度、仕上げる」
「最近、向こうでは作ってないのかと思った」
「作ってるよ。でも今は、こっちで大きいもの作るのが楽しくて」
真希は画面を閉じた。庭の入口に、先ほどのガラスに似た門が立ち上がる。人が何人も並んで通れるほど大きかった。
「これなら、持ち上げなくていいし」
「運ぶだけで大仕事だな」
石川は笑ったあと、自分の部屋を最後に見たのはいつだったかと考えた。
すぐには思い出せなかった。
「ジッピ、俺の部屋も映せる?」
『はい』
小さな画面の中に、寝室が映った。
寝台には、目を閉じた石川が横たわっている。身体を支える装置が静かに動いていた。人の声はなく、窓のカーテンも動かなかった。
「……俺、ずっとこんな感じ?」
『身体管理は継続しています』
「健康状態は?」
『良好です』
「なら、いいか」
石川は画面を閉じた。
「たっちゃん、こっち来て!」
千秋が花の家から手を振っていた。
「ドア、開かなくなった!」
「住む前から欠陥住宅じゃん」
石川は笑いながら、二人の方へ歩いていった。
完成した庭園には、いくつもの小さな島が浮かんでいた。
島は緩やかな橋で結ばれ、歩くたびに景色が変わる。滝の裏を通る道もあれば、魚が頭の上を泳いでいく場所もあった。
千秋が作った花の家は、庭のよく見える場所に残った。ドアも、今度はちゃんと開いた。
「結構いいじゃん」
石川が椅子に座ると、真希もうれしそうに庭を見渡した。
「千秋ちゃんの案、意外と使えるんだよね」
「意外ってなに!」
「褒めてるんだよ」
「じゃあ、もっと褒めて」
「要求するな」
石川が言うと、千秋は胸を張った。
「おうち作ってあげたのに」
「それはありがとうございます」
真希が声を上げて笑った。
庭園の端から下をのぞくと、雲の切れ間に青い海が見えた。千秋は手すりに両手をかけ、しばらく眺めていた。
「ねえ、次は海の中にも作ろうよ」
「海底庭園? いいかも」
真希がすぐに乗った。
「今これ完成したばっかりだぞ」
「じゃあ、明日!」
「明日もやるの?」
「だめ?」
石川は予定を開いた。
宮尾とのフットサル。間瀬との恐竜旅行。そのあとには、妻と一緒に知人の店へ行く約束もある。
「ちょっと待て。俺、そんなに暇じゃないぞ」
「毎日遊んでるじゃん」
真希に言われ、石川は顔を上げた。
「遊ぶのにも予定があるんだよ」
「じゃあ、海は今日見に行こう」
千秋が下を指さした。
「庭を作る場所、探すの」
「まだ遊ぶのかよ」
「見に行くだけ!」
真希は庭園を保存し、千秋の隣に立った。
「行こうよ。ちょっとだけ」
「その二人が言う、ちょっとは信用できないんだよな」
石川は笑って立ち上がった。
「分かったよ。付き合うよ」
千秋が先に空へ飛び出した。真希もその後を追う。
石川は二人の姿を見てから、勢いよく走り出した。足元の道が途切れ、風が頬を打つ。雲を抜けると、海が一気に広がった。
三人は歓声を上げながら、水の中へ飛び込んだ。
千秋が魚の群れを追いかけ、真希は海底の起伏を見ながら、もう道を作る場所を考えていた。
「ここに入口作ろう!」
「待て待て。今日は見るだけだろ」
石川の声に、二人が振り返って笑った。
明日は恐竜を見に行く。次の試合も決まっている。それまでに、この庭も少しは形になるかもしれない。
石川には、今日も明日も、やりたいことがたくさんあった。




