第29話 自分の足で
駅前まで歩くのは、久しぶりだった。
一週間、現実へ戻らずに過ごしていた。友人と遊び、家族と食事をし、夜は眠る。本人には普通の一週間だったが、その間、現実の身体はずっとジッピに任せていた。
『健康状態に問題はありません』
接続を終えた石川に、ジッピは検査結果を示した。筋力も循環機能も維持されている。
石川は寝台から足を下ろし、ゆっくり立ち上がった。
「数字はいいんだよな」
『はい』
「でも、本当に歩けるかは別だろ」
『歩行機能も確認しています』
「お前が動かして確認するのと、俺が歩くのは違うだろ」
膝を曲げ、伸ばしてみる。痛みはない。それでも、一週間も身体を任せきりにしていたことへの疑いは残った。
昔なら、患者にはできるだけ起きて動くよう勧めていた。その自分が、機械に大丈夫と言われただけで納得するのも、落ち着かなかった。
「駅まで歩いてくる。途中で疲れたら、車頼む」
『同行します』
「俺の健康診断に付き添いか」
『散歩として楽しんでいただいても構いません』
「余裕あるな、お前」
石川は靴を履き、外へ出た。
歩き始めは、意識して足を運んだ。角を曲がり、緩い坂を上る。息は乱れず、膝も気にならない。しばらくすると、足元を確かめることを忘れていた。
「……普通に歩けるな」
『そのようにお伝えしました』
「自分で確かめたかったんだよ」
顔を上げると、配送ロボットが交差点を曲がっていった。歩道はきれいに保たれていたが、人影は少なかった。
「静かになったな。休日なのに、平日の早朝みたいだ」
駅前の広場に近づいたところで、人の声が聞こえた。
数十人ほどが集まっている。看板には「現実を生きる自由」「身体は人間のもの」と書かれていた。
「まだ続いてたんだな」
以前、宮尾とここで見た集会を思い出した。周囲には二足歩行のポリスメカが立ち、上空には警備用ドローンが浮かんでいる。どちらも演説を妨げる様子はなかった。
小さな台の上に、見覚えのある男がいた。白髪は増えていたが、落ち着いた話し方は変わらない。
「病気や貧困で苦しむ人が減り、災害の被害まで抑えられるようになりました。その進歩を、私もありがたいと思っています」
石川は広場の後ろで足を止めた。
「ただ、しなくても済むことと、自分でしたくないことは違います。自分の身体で暮らしたい人が、その生活を続けられるようにしておきたいんです」
短い拍手が起きた。
男は頭を下げて台を降りた。集まった人々は話し始め、何人かは椅子を畳んでいる。
「以前も、ここで演説されていましたよね」
石川が声をかけると、男は振り返った。
「覚えていてくれましたか」
「友人と通りかかって。そのころは、チップを入れるかどうかの話でしたね」
「ずいぶん前ですね」
「今じゃ、一週間も身体を任せてます」
石川が笑うと、男も笑った。
近くのベンチに腰を下ろし、元は内科医だったこと、今日は身体の調子を確かめに歩いてきたことを話した。
「いかがでしたか」
「今のところ、機械の言うとおりです」
「それは何よりです。今の暮らしは楽しいですか」
「ええ。友人にも家族にも、よく会いますし」
「それなら、よかった」
石川は少し間を置いた。
「止めないんですね」
「止めてほしかったですか?」
「いや、そういうわけでは」
「でしたら、私が口を出すことではありません」
男は広場の看板に目を向けた。
「私たちは、使わない人も暮らしやすいようにしてほしいんです。最近は近所の催しまで仮想空間へ移ってしまって。歩いて行ける場所にも、少しは残っていてほしいでしょう」
石川は、駅前から姿を消した喫茶店を思い出した。
仮想店舗の方が広く、景色もよかった。ただ、今日の散歩の途中に、ふらりと入ることはできなかった。
男たちは郊外で、小さな共同体を運営しているという。
見せてもらった映像には、住宅と畑、工房が映っていた。大きな鍋を囲んで料理をしている人がいる。畑の端では、子どもが長靴の泥を落としていた。
「料理も農作業も、自分たちで?」
「やりたい人が、できる分だけです。私は畑が中心ですね」
映像の奥を、資材を載せた配送ロボットが横切った。
「あ、AIは使うんですね」
「医療も生活保障も利用していますよ。重い物を無理に持って、腰を痛める必要はありませんから」
「反AIの集会だと思ってました」
「そう呼ばれることは多いです。ただ、自分たちでやりたいところまで任せなくてもいいでしょう」
石川は宮尾を思い出した。仮想の家で、何日もかけて家具を並べ直していた。
「似たこと言う友人がいます。向こうの家で、ずっと模様替えしてるんですよ」
「それも楽しそうですね」
映像が切り替わり、人々が野菜を屋内へ運ぶ様子が映った。
「これは台風の前です。風が強くなる時間に合わせて、先に収穫しました」
「予測はGPXに?」
「ええ。雨の量や水がたまる場所も教えてもらいます。先月の地震も、三日前に知らせてもらいました」
「三日前ですか」
「時間には幅がありましたが、危ない建物から人を移すには十分でした」
石川はジッピを見た。
「俺、その辺の通知まで任せっきりだったな」
『石川さんの住居では、避難を必要とする予測は出ていません』
男は映像を閉じた。
「予測には誤差もありますが、備え方を決められるのは助かります」
「その技術は使うんですね」
「災害で死なずに済むなら、使いたいですよ。ただ、畑を耕すところは、自分たちでやりたいんです」
石川はうなずいた。危険を減らしてもらいながら、畑仕事を楽しんでいるのだった。
「もう一つ、残しておきたい理由がありまして」
男は端末をしまった。
「もし明日、GPXが動かなくなったら、どうされますか」
「うちの一台なら、交換を頼みますけど」
「頼む先まで、止まっていたら」
石川は、すぐには答えなかった。
料理は昔、自分でもしていた。だが、今の食材は誰が作り、どうやって家まで運んでいるのか。
水も電気も、身体を支える寝台も、自分の知らないところで管理されている。接続できなければ、千秋のいる家へも行けない。
「……困りますね」
「私たちも困ります。畑があるから何が起きても平気、とは言えません」
男は、広場の横を通る配送ロボットを見た。
「それでも、食べ物を育てたり、物を直したりする人が残っていれば、教わることはできますから」
「備えでもあるんですね」
「ええ。普段は、採れすぎた野菜をどう食べるかで頭を使っていますが」
「そんなに採れるんですか」
「先月は毎日ナスでした」
「そこはGPXに作付け相談した方がいいですよ」
「来年はそうします」
二人で笑った。石川は、人々が囲んでいた鍋を思い出した。あの中身もナスだったのかもしれない。
「俺は、昔の生活に戻りたいとは思わないんです」
石川は言った。
「医者をしてたころ、身体のせいで、やりたいことを諦める患者さんをたくさん見ました。今なら、その人たちも好きな場所へ行ける。治療も、俺がやってたころよりずっといい」
「私も、昔に戻したいわけではありませんよ」
男は畑の映像をもう一度開いた。
「今の暮らしが好きなんです」
画面の中で、長靴の子どもが大きな野菜を持ち上げていた。周りの大人が笑っている。
石川も、つられて笑った。
男は共同体の見学案内を送ってくれた。
「気が向いたら遊びに来てください。作業をしていただく必要はありません」
「お茶を飲みに行くだけでも?」
「もちろんです。時期によっては、野菜を持って帰っていただきますが」
「ナス以外でお願いします」
「覚えておきます」
石川は案内を受け取り、ベンチから立ち上がった。
帰り道も、石川は歩いた。
犬を連れた人とすれ違った。ベンチで本を読んでいる人もいた。集会の参加者なのか、ただ外に出てきただけなのかは分からない。
「あの共同体、今度見学してみようかな」
『日程を調整しますか』
「また今度でいい。今日は宮尾たちと約束してる」
『案内を保存しておきます』
ちょうど宮尾から、試合の人数がそろったという連絡が届いた。間瀬も来るらしい。
石川は返事をして、自宅の門を開けた。
ミカンの木に、新しい葉が出ていた。枝先に触れると、まだ柔らかい。苗木を買ってきたころは、水をやるだけでも少し楽しかった。
今では、ほとんどジッピが世話をしている。それでも、この木を見るのは好きだった。
「今年も実、なるかな」
『現在の生育は順調です』
「甘くなる?」
『収穫前に確認できます』
「そこは期待させてくれよ」
石川は葉から手を離し、家に入った。
靴を脱ぐと、足の裏に歩いてきた感覚が残っていた。膝は痛まなかったし、帰りに車を頼む必要もなかった。
「健康診断、合格だな」
『散歩の記録として保存します』
「そこは譲らないのか」
水を一杯飲み、寝室へ向かう。共同体の案内を閉じて、宮尾から届いた会場を選んだ。
一週間ぶりに、自分の足で街を歩いてきた。
寝台に横になるころには、もう一度、走ることを楽しみにしていた。




