第28話 帰らなくていい場所
宮尾の家の窓から、潮風が入ってきた。
焼いたパンの匂いがする。海を見下ろす食卓には、目玉焼きとサラダ、それから湯気の立つコーヒーが並んでいた。
石川はパンをちぎりながら、向かいに座る宮尾を見た。
「お前、今日も朝から元気だな」
「昨日、早く寝たから」
「何時に?」
「十時くらい」
「健康的な無職だな」
「お互いにな」
宮尾は笑って、目玉焼きにフォークを入れた。
真希を初めて千秋に会わせてから、数ヶ月ほどが過ぎていた。石川が宮尾の家で朝食を取るのも、珍しいことではなくなっている。
もちろん、海の見えるこの家は仮想世界にある。
「そういや俺、現実には三日くらい戻ってないな」
宮尾が、コーヒーを飲みながら言った。
石川の手が止まった。
「三日?」
「たぶん」
「飯は?」
「食ってるよ」
宮尾は目の前の皿を指した。
「それ、こっちの飯だろ。腹に入ってないだろ」
「分かってるよ。身体の方はGPXがやってる」
「水も?」
「うん」
「風呂は?」
「それも」
石川は、ちぎったパンを皿に戻した。
「……お前、いつの間にそんなことになったんだよ」
「新しい寝台に替えてから。お前んとこ、まだ前のやつ?」
「まだ前のやつって、そんな洗濯機みたいに言うな」
長時間接続のための身体管理装置が出たことは、石川も知っていた。ただ、食事や運動のために戻る時間を、多少減らせる程度のものだと思っていた。
宮尾はもう、その時間さえほとんど必要としていなかった。
「ジッピ。三日も横になってて大丈夫なのか?」
石川の隣に、小さな表示が開いた。
『同じ姿勢で三日間、安静にしているわけではありません』
「どういうこと?」
『宮尾さんが使用している寝台は、休息、運動、栄養補給、清潔保持を組み合わせて身体を管理します』
表示の中で、寝台の簡略図が動いた。背もたれが起き、脚を支える部分が分かれ、足裏に板のようなものが当たる。
『姿勢を変えて圧力を分散し、必要に応じて関節を動かします。筋肉への刺激だけでなく、実際に抵抗をかけて手足を動かし、骨にも荷重を与えます』
「電気を流して、運動したことにしてるわけじゃないんだな」
『それだけでは不十分です』
「だよな」
石川は、少し身を乗り出した。
『心拍、血圧、血糖、酸素状態などを継続して確認し、補給装置から栄養と水分を調整します。排泄と洗浄にも対応しますが、医療上必要な場合は接続を中断します』
「ほとんど病院じゃん」
『医療やリハビリテーションで使用されていた技術が、家庭向けに発展したものです』
「昔は入院患者にやってたことを、元気な人にやる時代か」
「元気でいるためにやってんだよ」
宮尾がパンをかじった。
言っていることは分かる。ただ、長年患者に「なるべく起きて動いてください」と言い続けてきた石川には、まだ引っかかるものがあった。
「筋肉は? 血栓とか、床ずれとか。骨だって弱くなるだろ」
「俺に聞かれてもな。数字、見る?」
「見せて」
宮尾が許可すると、食卓の端に健康状態の概要が表示された。
石川は黙って目を通した。筋肉量は維持されている。循環機能も、関節の動きも、大きな変化はない。以前、高めだった数値には改善しているものまであった。
「……悪くないな」
「だろ」
「睡眠も、前よりちゃんとしてる」
「GPXに任せてから夜更かし減ったし」
「自分で何もしてないのに、前より健康なのか」
「何もしてなくないぞ。昨日だってフットサルした」
「それはこっちの身体だろ」
宮尾は自分の脚をぽんとたたいた。
「俺にとっては、普通にフットサルなんだけどな」
その脚で走った記憶も、ゴールを外した悔しさも、宮尾には残っている。
一方で、現実の脚には別の運動が与えられていた。宮尾がボールを追っている間に、GPXは必要な負荷と休息を選んでいたらしい。
「俺が遊んでる間に、身体は真面目に運動してるわけ」
「お前より身体の方が勤勉だな」
「だから任せたんだよ」
石川は笑ったあと、もう一度検査結果を見た。
数日後、石川の寝室にも新しい寝台が入った。
以前のものより少し幅が広い。柔らかな支持具や補給装置は側面に収まり、使わないときには目立たなかった。
石川は寝台の周りを一周した。
「これ、俺が働いてた病院のベッドより高性能じゃない?」
『当時の設備と比較すれば、はい』
「病院ごと負けてる気がするな」
導入を決めたのは、宮尾を見たからだけではなかった。
最近、階段を下りるときに膝が痛むことがある。庭にしゃがんだあと、立ち上がるのも少し面倒になっていた。運動は続けていたが、その日の気分で軽く済ませることも多かった。
ジッピなら、その加減を間違えないかもしれない。
そう考えたのは、長時間遊べるという話を聞いたときより、宮尾の検査結果を見たときだった。
「補給する部分の感染とか、皮膚の傷は?」
『継続して監視します。異常が疑われた場合は使用を中断し、必要な処置を行います』
「全部任せれば、絶対に何も起きないわけじゃないんだな」
『はい。身体の状態によって、利用方法も変更します』
「途中で起きたくなったら?」
『いつでも終了できます。立ち上がる前に、身体の状態を確認します』
石川は寝台の縁に腰を下ろした。膝を曲げた角度に合わせて、脚の支持部分がわずかに動いた。
「元医者が、健康のために寝たきりになるのか」
『必要な身体活動は維持されます』
「理屈は分かるんだけどな」
横になると、背中の下でゆっくりと形が変わった。自分で位置を直そうとする前に、肩の力が抜けた。
「……これは、いいな」
『調整を続けます』
「もうちょっと抵抗させろよ」
『起き上がりますか』
「いや、このままで」
ジッピは何も言わず、接続の準備を始めた。
最初の日、石川は宮尾たちとフットサルをした。
午後には真希と千秋に会い、二人が作った空飛ぶ船に乗せてもらった。船には大きなクラゲの帆がついていて、風がなくても進んだ。
「これ、どういう仕組み?」
「進むようにしたの」
真希が答えた。
「説明が強いな」
「たっちゃん、座って。落ちるよ」
千秋に袖を引かれ、石川は小さな椅子に座った。海の上を進んでいた船が、そのまま雲の方へ上がっていく。
石川は手すりを握った。
「落ちない設定にはしてあるんだよな?」
「あるよ」
「なら先に言って」
夕方には間瀬とも会った。今度の歴史旅行では、余計なことを言わずに城から帰ってこられたらしい。
「成長したな」
「俺も学習するからな」
夜になると、ジッピから睡眠の案内が届いた。
石川はその日の利用を終えて眠った。現実の部屋を見に戻ることはなかった。
その間も、寝台は動いていた。
休息中は身体の圧力を逃がし、運動の時間には姿勢を起こして手足に負荷をかける。足裏で受ける重さや筋肉の反応を確かめながら、ジッピが調整を続けていた。
石川が仮想の海で泳いでいるとき、現実の脚は別の速さで曲げ伸ばしされていた。
どちらの身体が何をしているのか、石川が考えることはほとんどなかった。
三日目の午後、石川は自分の希望で接続を終えた。
目を開けると、寝室の天井があった。寝台がゆっくりと起き、支持具が外れる。
『急がずに立ち上がってください』
「はいはい」
床に足をつけ、体重を移す。
石川は一度立ってから、もう一度座った。
『違和感がありますか』
「いや」
膝を伸ばし、曲げてみる。痛みが消えたわけではないが、動き始めが前より楽だった。
「何日も寝てた感じがしないな」
『休息と運動を交互に行っています』
「検査は?」
『循環機能、筋力、関節可動域は安定しています。膝への負担も調整しました』
石川は部屋を歩いた。窓際まで行って、戻ってくる。身体は重くも、頼りなくもなかった。
「何日も自分で動かしてないのに、調子いいのか」
『身体は動いています』
「俺抜きでな」
ジッピは否定しなかった。
石川は寝台を振り返った。
「もう俺、何のために起きたんだ?」
『ご自身で、現実の身体の状態を確認するためです』
「……それだけ?」
『ほかにしたいことはありますか』
そう聞かれると、すぐには思いつかなかった。
「とりあえず、家の中でも歩くか」
『承知しました』
「自分の家で散歩の相談してるな、俺」
石川は笑って、寝室を出た。
同じような寝台は、妻と真希の部屋にも入っていた。
真希は最近、仮想世界で大きな作品を作っている。複数の創作者と一緒に、海の上に浮かぶ展示場を準備しているらしい。
現実の作業場にも、制作途中の器やガラスが置かれていた。ただ、炉を使う日は以前より少なくなった。
「先に向こうで試せるから。こっちで作りたいものが決まってから、作るの」
真希はそう言っていた。
石川は静かな食卓の前を通り、台所にいた妻に声をかけた。ちょうど現実へ戻ってきたところらしく、水を飲んでいる。
「最近、みんな顔見ないな」
「昨日も一緒にご飯食べたでしょ」
「向こうでな」
「真希の展示場の話、聞いてたじゃない」
「聞いてたけど」
昨日は三人で食事をした。真希が浮かべた巨大な作品の映像を見て、石川が「クラゲも出世したな」と言い、二人に笑われた。
確かに、家族とは会っていた。
「今夜はどうする?」
妻に聞かれ、石川は少し考えた。
「真希の展示場、途中まで見られるんだっけ」
「見に来てって言ってたよ」
「じゃあ、そっち行くか」
場所を決めるのに、家族がそれぞれどの部屋にいるかは、もうあまり関係がなかった。
家の前の道は、以前より静かだった。
配送ロボットが一台通り、少し離れたところで道路の補修機が働いている。人が歩いていないわけではない。ただ、しばらく眺めていても、すれ違うほどには増えなかった。
近所に新しく建った家は、窓が小さかった。接続用の部屋を中心にした住宅だと聞いている。
石川はジッピに尋ねた。
「駅前の店、今どうなってる?」
『仮想店舗へ移った店が増えています。以前ご利用になった喫茶店も、共有空間に店舗があります』
「あの店も?」
『はい。庭園を併設したそうです』
「こっちの街、寂しくならないか」
『実際に街へ出る人は減少しています』
配送ロボットが角を曲がった。道には、しばらく何も通らなくなった。
「人間がいなくなったみたいだな」
『人間は活動しています』
「向こうで?」
『はい』
宮尾の家の前には、毎朝散歩をする人がいる。広場では催しがあり、喫茶店に入れば誰かが話している。
石川自身、今日の夕方まで予定が埋まっていた。
人が減ったように感じるのは、こちらから見ているときだけだった。
庭へ出ると、ミカンが色づいていた。
暇になったからと買ってきた苗木は、いつの間にか枝を大きく広げている。葉の色はよく、足元もきれいに整えられていた。
石川は手を伸ばし、一つ取った。
「これ、食べていい?」
『はい。補給量はこちらで調整します』
「おやつまで計算済みか」
『今、変更しました』
「仕事が早いな」
皮に爪を入れると、細かな汁が飛んだ。指先に、ミカンの匂いが残る。
一房を口に入れた。
「……酸っぱ」
『糖度には個体差があります』
「そういうところまで、うちのミカンだな」
石川はもう一房食べた。
向こうでも、この味は作れるだろう。頼めば、もう少し甘くすることもできる。
それでも、今さら味を変えたいとは思わなかった。指に残った皮の匂いをかぎながら、最後の一房まで食べた。
『宮尾さんたちが、お待ちです』
「もうそんな時間か」
『開始まで、あと十分あります』
「じゃあ、今行く」
石川は皮を片づけ、手を洗った。
庭には日が差していた。窓の外で、ミカンの葉が揺れている。道路の向こうでは、さっきの補修機がまだ働いていた。
石川は寝室へ戻り、寝台に横になった。
「ジッピ、頼む」
『接続します』
身体を支える寝台の感触が、ゆっくりと遠ざかっていく。
向こうには、今日も会いたい人が待っていた。




