第26話 二つ目の人生
「家、買った」
宮尾から連絡が来たのは、朝食のあとだった。
石川は飲みかけのコーヒーを置いた。
「今の家、どうしたんだよ」
「そのまま」
「二軒目?」
「海の見えるやつ。遊びに来いよ」
「お前、急に金持ちみたいなこと言うな」
届いた案内を開くと、住所の代わりに接続先が表示されていた。
共有モード。海沿いの住宅区。
「……そっちかよ」
「こっち」
「買ったって言うのか、それ」
「場所を選んで、利用する権利を買ったんだから、買ったでいいだろ」
「わざわざ何買ったんだよ」
「海の見える区画。普通に住むだけなら、ほかにも空いてたけど」
「眺めにこだわったのか」
「あと、コートが近い。間瀬も来るぞ」
通話が切れた。
石川は残りのコーヒーを飲み、ジッピを呼んだ。
「準備して。宮尾の新居に行く」
『承知しました』
自分の接続用寝台へ向かう途中、真希の作業場をのぞいた。机の上には、まだ色のついていない小さな器が並んでいた。
「宮尾のところ行ってくる」
「向こう?」
「ああ」
「いってらっしゃい」
どちらの世界へ行くのか、一言確認すれば済むようになっていた。
接続すると、海沿いの道に立っていた。
白い壁の家が並び、ゆるい坂の下に青い海が見える。前を歩く二人組が、店先の看板を見て立ち止まった。公園では子どもたちがボールを投げ合っている。
「こっち」
宮尾が手を上げた。間瀬も隣にいる。
「普通の街だな」
「何を想像してたんだよ」
「空飛ぶ家とか、海の中に玄関あるとか」
「帰るたびに面倒くさいだろ」
「そこは便利にできるんじゃないの?」
「俺は普通にドアから入りたい」
宮尾は坂道を上り始めた。
途中の喫茶店から、コーヒーの香りがした。店主らしい男性が、入口の黒板を書き直している。
「この店、人がやってるんだよ」
宮尾が言った。
「仕事?」
「趣味。話し相手が欲しくて始めたんだって」
向かいの店では、AIの店員が客に服を見せていた。広場の掲示板には、音楽教室と週末の試合の案内が並んでいる。
宮尾は店主に手を振り、坂の上の小さな家を指した。
「あれ」
玄関脇には花壇があり、窓には木の枠がついていた。居間から海が見えるらしい。
「いいじゃん」
「だろ。ただ、隣の屋根がちょっと視界に入るんだよな」
「買う前に見ろよ」
「見たよ。だから、あれ消せないかって聞いた」
「お前な」
「断られた」
「そりゃそうだろ」
宮尾が笑いながら玄関を開けた。
「仮想なのに不便だよな」
『共有モードでは、他の利用者の建物や環境を、一人の判断で変更することはできません』
ジッピが答えた。
「何でも作れるのに、そこは調整がいるのか」
『同じ場所を、複数の利用者が利用するためです』
「現実と一緒じゃん」
間瀬が言った。
「隣の人、昨日挨拶に来たぞ」
「お前、引っ越しの挨拶したの?」
「向こうから来た。庭いじってたら話しかけられて」
「仮想世界でも近所付き合いか」
「いい人だったよ。今度、一緒に釣りする」
石川は笑った。
「お前、普通に引っ越し楽しんでるな」
「だから、そう言ってるだろ」
宮尾に続いて、石川も家に上がった。
居間には低いソファと、横に長い窓があった。
テレビの下に、昔三人で遊んだゲーム機が置いてある。棚の上には、宮尾がどこかで買ってきたという、妙に丸い魚の置物があった。
「何でも作れるのに、結局こういう家にするんだな」
「落ち着くんだよ」
宮尾は窓を開けた。カーテンが揺れ、潮の匂いが入ってきた。
「家具の位置、結構考えたんだぞ」
「AIに任せれば一瞬だろ」
「案は出してもらった。でも、このソファは座ってから二回動かした」
「暇だな」
「暇なんだよ」
宮尾はあっさり認めた。
石川はソファに腰を下ろした。海の見え方が、ちょうどよかった。
「ここから飛んで海まで行けたら便利そうだけど」
「この街は飛行禁止。やるなら専用の場所だな」
「何で」
「窓の前を知らないおっさんが飛んでたら嫌だろ」
石川は開いた窓を見た。
「それは嫌だな」
「飛びたきゃ個人モードでやればいいじゃん」
「俺、昔の病院とか実家くらいしか作ってないぞ」
「もったいない」
間瀬が笑った。
「お前、何でもできる場所で、昔の職場に通ってるのか」
「言い方」
宮尾が画面を出した。
共有モードと個人モード。石川も何度も見ていた項目だったが、普段は保存した場所から入るので、あまり意識していなかった。
「共有は、みんなの街。個人は、自分で決める場所」
宮尾が二つを順番に指した。
「俺の実家は個人の方だよな」
『はい。石川さんが編集する、記憶再現環境です』
「でも、誰か呼ぶことはできるんだろ?」
『招待された方は参加できます。環境を変更する権限は、別に設定します』
「じゃあ、お前呼んでも実家の隣に城は建てられないな」
石川が宮尾を見ると、宮尾は首を振った。
「城にこだわってるのお前だろ」
間瀬が笑った。
「一回、何もないところから作ってみろよ。昔あったものじゃなくてさ」
石川は少し考えた。
「……飛んでみるか」
「行ってこい。俺ら、ちょっとゲームしてるから」
「新居に呼んだ客を追い出すなよ」
「飛びたいって言ったのお前だろ」
石川は笑い、ジッピに新しい個人空間を開くよう頼んだ。
白い砂浜に立っていた。
宮尾の家も、隣の屋根もない。目の前には海が広がり、背後には緑の丘が続いていた。
『何を体験しますか』
「空、飛びたい」
『姿勢や速度の補助を有効にしますか』
「全部つけて。初めてだから」
足が、砂から離れた。
「おっ」
身体がゆっくり持ち上がる。石川は反射的に両手を広げた。
足元が遠ざかる。
砂浜の形が見え、海の色が浅瀬から沖へ向かって濃くなっていく。
「うわああ!」
『高度を下げますか』
「いや、もうちょっと上!」
風が頬に当たった。
前を向くと、身体がその方向へ進んだ。腕を動かさなくても飛べるのに、石川はつい両手を前へ伸ばした。
「これ、一回やってみたかったんだよ」
『現在の姿勢に、飛行上の必要性はありません』
「分かってるよ!」
声が風に混じった。
石川は海岸線に沿って飛び、丘を越えた。木々の間に道があり、その先に何もない草原が広がっている。
「あそこに城、作って」
草原の中央に、石の塔が立ち上がった。城壁がつながり、旗が風を受けた。
「おお」
『入口へ移動しますか』
「屋根に降りたい」
石川は塔の上に着地した。
遠くまで海が見えた。風に白髪交じりの前髪が揺れる。
「この格好で城の屋根にいるの、変だな」
『容姿を変更できます』
「二十歳くらいにして」
手の甲が若くなった。身体が少し細くなる。
石川は自分の腹を見下ろした。
「そうそう。昔はこれだった」
『写真記録では、もう少し腹部に厚みがあります』
「今日くらい見逃せよ」
城の裏に、恐竜のいる森を作った。
大きな草食恐竜が首を上げ、木の葉を食べていた。石川が近づいても逃げず、こちらをちらりと見て、また食べ始める。
「踏まれない?」
『踏まれない設定です』
「なら、下通ってみるか」
腹の下を歩いた。頭上に生き物の影が広がり、一歩動くたびに地面が震えた。
石川は見上げたまま、声を出して笑った。
「じゃあ今度、怪獣が街壊すやつとかもできる?」
『架空の無人都市を舞台にした、特撮風の体験を作成できます』
「何でもありだな」
『過度に残虐な表現や、実在する人物への加害を目的とした再現などには制限があります』
「個人でも?」
『はい。成人向けの性的な体験にも、年齢や同意などの利用条件があります』
「なるほど。自由だけど、無制限じゃないと」
『その通りです』
「今日は怪獣いいや。海行こう」
石川は再び空へ上がった。
今度はそのまま、海へ向かって降りていった。
水面が迫った瞬間、石川は息を止めた。
泡が視界を覆う。
水の中へ入った。
身体に冷たさが触れたが、苦しくはなかった。
『呼吸できます』
石川は恐る恐る息を吸った。
「……できる」
声まで出た。
目の前を、小さな魚の群れが横切る。水面から差し込む光が、砂の上で揺れていた。
石川は海底に足をつけた。
歩くたびに砂が舞う。魚が避け、少し離れたところでまた集まる。
「現実じゃ絶対できないな」
『はい』
「そこは即答なんだな」
大きな影が通った。
見上げると、マンタが頭上をゆっくり進んでいた。石川は手を止め、その腹側を眺めた。
ここへ来るまで、城の屋根にいた。その前は、空を飛んでいた。
「こんなの、一生遊べるだろ」
『体験の組み合わせは、極めて多数です』
「そこは夢があるって言えよ」
『ほかに試したいことはありますか』
石川は考えた。
鳥になる。雲の上を歩く。月に城を建てる。
思いつくだけで、どれも実現できそうだった。
ふと、千秋の顔が浮かんだ。
「あいつ、飛べたら喜ぶかな」
『千秋さんでしょうか』
「ああ。千秋と一緒にも、こういうのできる?」
『石川さんの個人空間で、千秋さんの人物モデルを使用できます』
「昔の家から、連れてこられるのか」
『はい。記憶の再現とは別の体験として保存します』
千秋は、どんな顔をするだろう。
怖がって石川の手をつかむかもしれない。すぐに慣れて、自分より遠くへ飛んでいくかもしれない。
それは、昔あった出来事ではない。
どのアルバムにも残っていない時間を、これから作れるのだった。
「……まずは、あの家でいいかな」
『承知しました』
「明日はトランプの約束してるから」
石川はもう少しだけ、海の底を歩いた。
宮尾の家へ戻ると、二人はまだゲームをしていた。
「どうだった?」
「飛んだ。城建てた。恐竜見た。海の底歩いた」
「詰め込んだな」
間瀬がコントローラーを置いた。
「楽しかった?」
「めちゃくちゃ」
「顔に出てる」
宮尾が石川を見て笑った。
「何で若返ってんだよ」
石川は自分の手を見た。
「あ。戻すの忘れた」
「お前、そのころの方が腹出てなかった?」
「お前まで言うなよ」
三人で笑った。
石川はいつもの姿に戻り、ソファへ座った。さっきまで海の底にいたのに、友人の家でゲームの続きを待っている。
「で、次は俺な」
「空飛んできたやつが、普通にゲームやるのかよ」
「それはそれでやりたいだろ」
宮尾がコントローラーを渡した。
石川は受け取り、テレビへ向き直った。
退出すると、自分の部屋に戻っていた。
身体を起こして、両足を床につける。立ち上がると、さっきまでなかった重さが膝にかかった。
窓の向こうに、ミカンの木が見える。
石川は少し眺めてから、部屋を出た。
妻が食事の準備をしていた。作業場では、真希が器の表面を整えている。
「お父さん、何してきたの?」
「空飛んで、海の底歩いてきた」
「いいね」
「反応、軽いな」
「だって楽しかったんでしょ」
「楽しかった」
真希は笑い、手元へ目を戻した。石川はその横に立って、器をのぞき込んだ。
「それ、明日も作るの?」
「午前中に続きをやる。午後は空いてるよ」
「俺、午後は千秋と遊ぶんだ」
真希の手が止まった。
「私も行っていい?」
石川は娘を見た。
「会ってみたい?」
「うん。前に写真見せてくれたでしょ」
「ああ」
「一緒に何か作ってみたい」
石川は少し考え、うなずいた。
「じゃあ、招待送るよ」
「私も子どものころの姿にしようかな。お父さん、小五くらいなんだよね」
「そう。そのまま行くと知らないおじさんになるから」
「私も同じくらいにする」
真希は端末を開き、小学生のころの写真を探し始めた。
石川は隣で、懐かしい服を指さした。真希はそんなに着ていたっけと言い、石川は毎週見ていたと答えた。
明日は、娘と一緒に昔の実家へ行く。
その次は、千秋と空を飛ぶかもしれない。
台所から妻に呼ばれ、石川は食器を運びに行った。
今日一日では、まだ行きたい場所を回り切れなかった。
明日も、その先も、予定は埋まりそうだった。




