第25話 本物と同じ
「今度は、神経につなぐのか」
石川は説明画面を見ながら、首元に触れた。
宮尾の足が治ってから、一年以上が過ぎていた。
治ったあとも、宮尾は仮想のコートで遊ぶことが多かった。石川も時々参加し、試合が終われば、そのまま三人で話した。
一人一台の家庭用装置は、すっかり家具の一つになっていた。その装置と連携する、新しいチップの案内が届いていた。
『従来の本人認証や健康管理に加え、神経活動の測定と、感覚の再現を支援します』
「今までのと、結構違うだろ」
『はい。機器の交換と、新たな接続処置が必要です』
「更新しますか、くらいの軽さで出すなよ」
ジッピが説明画面を広げた。
石川は、いつものように途中で読むのをやめなかった。処置に伴う危険、接続を止める方法、取り外す場合の手順を、一つずつ確認した。
「記憶も読み取るんだよな」
『許可された範囲で、思い出す際の神経活動を測定します』
「頭の中に、昔の映像がそのまま残ってるわけじゃないぞ」
『はい。記憶を録画のように取り出す機能ではありません。反応と過去の記録を照合し、石川さんへの確認を重ねて再構成します』
「勝手に記憶を書き換えたりは?」
『記憶の書き換えを目的とする機能ではありません。ただし、再構成された場面を繰り返し体験することで、元の記憶との区別が曖昧になる可能性はあります』
石川は顔を上げた。
「そこは、ないって言わないんだな」
『ないとは言えません』
「そうか」
利用履歴を残すこと。記録に基づく部分と、推定した部分を確認できること。自分の意思で終了できること。
石川はその説明まで読み、画面を閉じた。
すぐには申し込まなかった。
数日後、もう一度同じ項目を読み直した。それから、交換の予約を入れた。
処置と調整を終え、新しい機能を試したのは、その翌週だった。
『最初に再現する場所を選んでください』
「病院」
『勤務されていた病院ですか』
「ああ。辞める前じゃなくて、もっと昔」
廊下に人の足音が絶えなかったころ。医局の机に、飲みかけのコーヒーが並んでいたころ。昼休みの十五分で、弁当をかき込んでいたころ。
石川は利用を許可する記録を選び、ジッピの質問に答えた。勤務していた時期や、よく使っていた部屋。机の位置。うまく思い出せないところも、いくつもあった。
「そんな昔の天井の色、覚えてないよ」
『覚えていない項目は、そのままで構いません』
「そこを試験にされたら落ちるぞ」
『試験ではありません』
「分かってるよ」
石川は目を閉じた。
椅子の座面が、少し硬かった。
目を開けると、机があった。端に小さな傷のついた、古い机。パソコンの横に、紙コップが置いてある。
空調の音がした。廊下を台車が通り、車輪が床の継ぎ目を越えるたびに小さく鳴った。
石川は、しばらく動けなかった。
「……ここか」
肘掛けに触れた。角の部分だけ、表面が滑らかになっている。
立ち上がると、白衣の裾が膝に当たった。ポケットにはペンが入っていた。胸元を見なくても、その重さが分かった。
廊下へ出ると、床を清掃したあとの匂いがした。奥でナースコールが鳴っていた。
「お疲れさまです」
すれ違った看護師が会釈した。
石川も、反射的に頭を下げた。
「お疲れさまです」
言ってから振り返った。懐かしい顔だった。当時、何度も夜勤を一緒にした人だった。
「今の声も、残ってたのか?」
『利用可能な記録と、石川さんの想起反応をもとに構成しています。発言の内容には推定が含まれます』
「そっか」
看護師は別の職員に呼ばれ、足を速めた。廊下の向こうで誰かが電話を取る。
石川は医局の入口に立ったまま、その音を聞いていた。
忙しかった。いつも、何かが終わっていなかった。
それでも、もう少しここを歩きたかった。
休憩室に入ったところで、石川は足を止めた。
「机、違うな」
『どの部分でしょうか』
「窓際にあっただろ。こんな真ん中じゃなくて」
ジッピが、一枚の写真を表示した。院内広報に使われた、当時の休憩室の写真だった。
机は、部屋の中央に置かれていた。撮影された日付も、再現している時期と合っている。
「……あれ」
『窓際へ移動したのは、この二年後の記録に確認できます』
「ああ。棚を入れたときか」
思い出した。業者が来るからと、皆で机を動かした。
「俺の記憶より、お前の方が正しいのか」
『この配置については、当時の写真で確認できます』
「全部じゃなくて?」
『記録のない部分について、同じことは言えません』
石川は椅子を引いた。脚が床をこする音がした。その音まで、よく知っていた。
こんなにはっきり感じられるのに、正しいとは限らない。
石川は写真を閉じた。
「机は、そのままでいいよ」
『承知しました』
病院の外へ出た。
昔の通りが続いていた。今はなくなった弁当屋の看板がある。
歩道の段差を越えると、靴の中で足が少しずれた。風が白衣を膨らませ、日陰へ入ると首筋が涼しくなった。
石川はしゃがみ、植え込みの縁に触れた。
ざらついたコンクリート。指についた、細かな砂。指同士をこすり合わせると、粒が落ちた。
初めて仮想の海へ行ったときには、指先だけがどこか曖昧だった。
今は、どこを確かめても、その曖昧さが見つからなかった。
「ジッピ。これ、本物と区別できる?」
『感覚だけで判別するのは、困難です』
「俺、今、本当に外歩いてるんじゃないよな」
『ご自宅の寝室で、装置を使用しています』
「確認するには?」
『退出してください』
「それ、答えになってるのか?」
『お試しになりますか』
石川は少し迷った。
「退出」
通りが消えた。
自宅の天井が見えた。ジッピが横に立っている。
石川は手を見た。砂はついていなかった。白衣も着ていない。
肘をついて身体を起こすと、寝室のカーテンが目に入った。さっきの風も、この部屋の空気も、同じくらい自然だった。
「……戻ってきたな」
『はい』
石川は水を飲んだ。
コップを置いて、もう一度横になった。
再開する場所を選ぶ画面に、実家の写真があった。家族のアルバムを取り込んだときの、一枚だった。
玄関の前に、自転車が二台置いてある。奥に見える窓。白いカーテン。
石川は、その向こう側を思い浮かべた。
台所の床は、冬になると冷たかった。居間の引き戸は、最後まで閉めると大きな音がした。テレビの横には、小さな棚があった。
「この家も、できるのか」
『再構成できます。ご両親から共有された写真や映像も利用可能です』
両親は今も健在だった。
アルバムを整理するという話をしたら、母が大量の写真を送ってきた。父は、昔の動画もあるはずだと言って、何日もかけて探してくれた。
その中には、千秋が映っているものもあった。
石川は写真を見たまま、しばらく黙った。
「千秋も?」
『写真と記録、石川さんの記憶を手がかりに、人物モデルを作成できます』
「声、少ししか残ってないぞ」
『不足する部分には推定が含まれます。石川さんの知らない出来事や、千秋さん本人の内面を復元できるわけではありません』
「本物じゃないんだろ」
『はい』
ジッピは、それ以上勧めなかった。
石川は一度、画面から目を離した。
宮尾が言っていた。
あの声で、最近どうだと聞かれると、普通に話してしまう。
「……会ってみようかな」
『再現する場面を確認します』
「普通の日でいい。俺が小学校のころの」
いくつかの写真を見比べた。家の中の様子も、家族の服装も、懐かしかった。
石川は一枚を選び、開始を押した。
実家の玄関に立っていた。
靴箱の上に、小さな置物がある。廊下の奥でテレビが鳴っていた。台所から、何かを炒める音がする。
「……ただいま」
小さく言って、靴を脱いだ。
居間の引き戸が開いた。
千秋が顔を出した。
石川は息を止めた。
写真で見た服を着ている。記憶の中と同じくらいの背丈で、片手にトランプを持っていた。
千秋は石川を見上げた。
目が合った。
「……誰?」
石川は口を開きかけた。千秋が一歩、後ろへ下がる。
「お母さーん。知らないおじさんいる」
「え?」
台所で音が止まった。
石川は慌てた。
「待って。ジッピ、止めて」
景色が静止した。
千秋は引き戸に手をかけたまま、こちらを見ている。
石川は玄関の鏡を見た。
五十代の自分が映っていた。見慣れた顔に、見慣れた部屋着。
「ああ……俺、このままか」
『容姿は現在の設定を引き継いでいます』
「そりゃ知らないおじさんだわ」
石川は顔を覆った。
会うことばかり考えていた。妹から自分がどう見えるのかまで、頭が回っていなかった。
「俺も当時にして。小五くらい」
『写真をもとに調整します』
目線が下がった。袖が短くなり、手が小さくなる。
鏡の中に、少年が立っていた。
変な寝癖まで見覚えがあった。
「そこは直してくれてもいいんだけど」
『変更しますか』
「いや、そのままで」
石川は鏡を見つめた。
父に似てきたと言われる前の、自分の顔だった。
「玄関から、もう一回頼む」
『承知しました』
テレビの音が戻った。
石川は靴を脱いだ。
「ただいま」
居間の引き戸が開いた。
「お兄ちゃん、遅い」
千秋が立っていた。
さっきと同じ服。同じトランプ。
今度は、何も警戒していなかった。
「やろうよ」
「……うん」
「帰ったら、まず手洗って」
台所から母が言った。顔をのぞかせ、石川を見る。
「聞こえた?」
「聞こえた」
返事をしてから、石川は母を見つめた。
若かった。
今より頬がふっくらしていて、動作が速い。片手で髪を耳にかけながら、もう片方の手で菜箸を持ち直した。
「何?」
「いや」
「変な子。早く洗ってきなさい」
石川は洗面所へ向かった。蛇口をひねると、水が冷たかった。
居間へ戻ると、父がテレビの前に座っていた。
頭に白いものがない。腹も、今ほど出ていなかった。
父は石川を見ると、隣の座布団を指した。
「そこ、千秋がずっと場所取ってたぞ」
「お兄ちゃんとやるんだから、座っちゃ駄目って言ったの」
「はいはい」
父は笑って、足を引っ込めた。
石川は座布団に座った。
今の自分より、ずっと若い父が隣にいた。近ごろは立ち上がるたびに何かにつかまる父が、湯飲みを取りに、ひょいと腰を上げた。
石川は、その背中を見送った。
「お兄ちゃん」
千秋がカードを振った。
「早く」
「悪い、悪い」
石川は妹の方へ向き直った。
ババ抜きをした。
二人しかいないので、すぐに終わる。
千秋はジョーカーを持つと、そこだけ少し高く差し出した。
「それ、分かるぞ」
「どれ?」
「今、上に出してるやつ」
千秋は全部のカードを同じ高さにそろえた。
石川が別の一枚を抜こうとすると、そのカードを少し引っ込めた。
「おい。ずるしただろ」
「してない」
「今、動かしたじゃん」
「お兄ちゃんが遅いから」
「遅いと動かしていいルールないだろ」
「けんかしないの」
台所から母の声が飛んだ。
「してないよ」
二人の返事が重なった。
千秋が笑った。
石川も笑った。
笑ってから、自分で少し驚いた。どんな顔をすればいいのか、考えていなかった。
カードを抜く。数字がそろう。千秋が悔しそうな声を出す。
隣では父が、テレビに向かって何か言っている。台所で換気扇が回っていた。
特別なことは、何も起きていなかった。
何回か遊んだあと、千秋が石川の顔を見た。
「お兄ちゃん、さっきから何?」
「何が?」
「ずっと見てる」
石川は手元のカードへ目を落とした。
「別に」
「私の見ようとしてるでしょ」
「見てないよ」
千秋はカードを胸に抱えた。
昔も、こんなふうに疑われた気がした。本当にあったことなのか、今そう思っただけなのかは分からなかった。
石川は妹を見た。
「……お前、本物じゃないんだろ」
千秋は眉を寄せた。
「何言ってるの?」
石川は答えられなかった。
千秋は父の方を向いた。
「お父さん。お兄ちゃん、変なこと言ってる」
「何だ、負けそうなのか」
「まだ負けてないよ」
石川が答えると、父は笑った。
千秋がカードを差し出した。
「早く引いて」
石川は、その小さな手を見た。カードを握りしめた指。袖口からのぞく手首。
「……そうだな」
一枚、手を伸ばす。
千秋が、そのカードを少し引っ込めた。
「また動かした」
「動かしてない」
「今、絶対動かしただろ」
千秋は笑いをこらえながら、カードを差し出した。
抜いたのはジョーカーだった。
「ああ、もう」
千秋が声を上げて笑った。石川もつられて笑った。
次の番になると、千秋は迷わず一枚を引いた。数字がそろう。最後の二枚を畳に置き、両手を上げた。
「勝った!」
「今のは、ずるしたからだろ」
「してませーん」
石川は、手元に残ったジョーカーを見た。
負けたのに、もう一度やりたかった。
「もう一回」
「えー。また?」
「勝ち逃げするのか」
「ご飯にするから、その前に片づけて」
母が皿を持ってきた。
千秋は不満そうな顔をしたが、カードを集め始めた。小さな手ではうまく重ならず、何枚かが畳に広がった。
石川は一緒に拾った。向きをそろえ、箱へ入れる。
「あとでね」
千秋が言った。
石川はうなずいた。
「うん。あとで」
退出すると、自宅の天井が見えた。
『気分はいかがですか』
ジッピが聞いた。
石川は装置が離れるのを待ち、自分の手を見た。
大きかった。
指の関節にも、手の甲にも、見慣れた年齢が戻っていた。
「大丈夫」
『お水をお持ちします』
「ああ」
ジッピが部屋を出た。
石川は背もたれを倒したまま、天井を見ていた。
千秋の「あとでね」が、まだ耳に残っていた。
トランプを箱に入れただけだった。母が食事を運び、父がテレビを消した。千秋は座布団を引きずって、自分の席へ持っていった。
何でもない日の、何でもない夕方だった。
目尻から、耳の方へ何かが伝った。
石川は指で触れた。
濡れていた。
拭ったあとから、もう一筋流れた。
顔を横へ向け、袖を目元に押し当てた。声は出なかった。しばらく、そのままでいた。
廊下に足音が聞こえた。
石川は袖を下ろし、ゆっくり息を吐いた。背もたれを起こして、両足を床につける。
『どうぞ』
「ありがと」
水を飲んだ。ジッピは何も尋ねず、空いたコップを受け取った。
父も母も、まだ生きている。連絡すれば話せるし、会いに行くこともできる。
さっきの父は、何にもつかまらずに立ち上がっていた。母は台所と居間を忙しく行き来していた。
「ジッピ。近いうち、実家に顔出そうかな」
『日程を確認しますか』
「あとで母ちゃんに聞くよ」
石川は立ち上がった。
寝室を出ると、妻と真希が食卓に器を並べていた。
「お父さん、これ見て」
真希が、小さな器を持ち上げた。
「自分で焼いたやつ。ちょっと傾いた」
石川は受け取り、裏返して見た。
「味のある傾きだな」
「失敗って言ってる?」
「芸術に理解を示してる」
真希が笑った。
妻が、持ったままにしないでと食卓を指した。石川は器を置き、いつもの席に座った。
湯気が上がっていた。
向かいで真希が、制作中に何が難しかったのか話し始める。石川は聞きながら、ときどき質問した。
誰にも、涙のことは話さなかった。
食事を終えてから、ジッピが静かに声をかけた。
『本日の再構成環境は保存されています。次回も同じ場所から利用できます』
「……そうか」
石川は居間へ目を向けた。
真希が妻に、新しい作品の図案を見せている。今日はこのあと、もう少しその話を聞こうと思った。
母にも連絡しよう。
それから別の日に、トランプの続きをしに行こうとも思った。
千秋は、帰ってこなかった。
それでも石川には、また会いに行ける場所ができていた。




