第23話 本物の宇宙
「お前、ちょっと痩せた?」
石川が聞くと、間瀬は自分の腹を見下ろした。
「食えなかったんだよ。最初の二日」
「腹でも壊したのか。今度はどこ行ってた?」
「宇宙」
「国で答えろよ」
「国じゃねえよ」
隣で宮尾が笑った。
久しぶりに三人で集まった昼食だった。
間瀬は日本に帰ってきては、また別の場所へ出かけていく。最近は、どこにいるのか聞く方が早かった。
ただ、地球にいないとは思わなかった。
「宇宙って、月?」
「まだそこまでは。地球の周りを四日間」
間瀬が端末を操作した。
画面に、丸い窓が映る。
その向こうに、青い地球があった。
「……本当に行ってる」
「だから言っただろ」
「お前、働いてないのに宇宙行けるの?」
「二十年近く、ほとんど金使ってないからな」
「旅行ばっかしてただろ」
「移動も宿も、基本の範囲ならほぼかからないじゃん。今回で、たまってた自由消費枠を結構使った」
間瀬は値段を見せた。
安くはない。
それでも石川が昔ニュースで見た宇宙旅行の金額とは、まるで違っていた。
「昔なら、家売っても無理だったよな」
『機体の再使用と運航の自動化により、費用は大幅に低下しています』
隣に立つジッピが答えた。
『ただし、打ち上げに必要なエネルギーや設備、輸送できる重量には制約があります。通常の交通と同じにはなりません』
「さすがに宇宙まで乗り放題ではないか」
「予約も待ったぞ。暇だから待てたけど」
料理が運ばれてきた。
間瀬は定食の味噌汁を飲み、しみじみと息を吐いた。
「やっぱり、これだよ」
「宇宙帰りの第一声がおっさんなんだよな」
間瀬の話では、宇宙旅行は意外と忙しかった。
出発前に健康状態を調べ、非常時の動き方を練習する。
打ち上げのときは座席に身体を押しつけられ、ようやく楽になったと思ったら、今度は上下が分からなくなった。
「頭を動かすと気持ち悪いんだよ」
「宇宙酔いか」
「そう。薬も使ったけど、しばらく食欲なくてさ」
「寝られた?」
「寝袋みたいなのに入って、壁につながれる」
「壁に」
「放っとくと流れていくから」
宮尾が箸を止めた。
「俺、それだけで嫌だわ」
「慣れると面白いぞ。ただ、最初は目を閉じても落ち着かない」
船内は写真で見るほど広くなく、食事も選べるものが限られていたという。
帰ってきたら、今度は身体が重かった。
「それ、楽しかったの?」
石川が聞いた。
間瀬は迷わず答えた。
「最高だった」
「話聞く限り、罰ゲームなんだけど」
「地球見たら、どうでもよくなった」
間瀬は、さっきの映像をもう一度開いた。
窓の縁に、指が映っている。
少し揺れたあと、画面いっぱいに地球が広がった。
海の青。
大きく渦を巻く雲。
地球の縁に沿って、薄い光の層が見える。
その外側は、黒かった。
三人とも、しばらく黙った。
「……これは、見たいな」
石川が言った。
「だろ」
「操縦する人とか、いたの?」
「乗客以外、人間はいなかったよ。世話してくれるロボットはいたけど」
機体の設計も、製造も、点検も、運航もAIが担っていた。
滞在した施設も、人間が乗り込む前にロボットが組み立てたものだった。
「宇宙まで行っても、人間の仕事ないのか」
「俺がしたの、窓から地球見るくらい」
「最高の仕事じゃん」
宮尾が言った。
間瀬は、満足そうにうなずいた。
「でもさ」
映像が終わると、宮尾が言った。
「これ、仮想でも見られるよな」
「見られるよ」
「酔わないし、壁につながれて寝なくていいし」
「そうだな」
「じゃあ、なんで行ったの?」
間瀬は少し考えた。
味噌汁の椀を置いてから、言った。
「本当に行ったって、言いたかったんだよ」
「誰に?」
「自分にかな」
宮尾は首をかしげた。
「体験した記憶が残るなら、俺はどっちでもいいけどな」
「お前、まだあの海行ってるの?」
石川が聞いた。
「たまに。釣りもやってる」
「初心者向け?」
「もう違う。全然釣れない日もある」
「わざわざ不便にしてるじゃん」
「簡単すぎると飽きるんだよ」
間瀬が笑った。
「でも、嫌になったら終われるだろ」
「まあな」
「宇宙では、それができないんだよ。気持ち悪くても、帰りたくなっても、すぐ家には戻れない」
「怖くなかった?」
「怖かったよ」
その返事だけは、少し静かだった。
「窓の外見てさ。あの薄い壁の向こう、人間がそのまま出たら生きられないんだよなって」
石川も画面の窓を見た。
「俺、本当にこんなところまで来ちゃったんだなって思った」
『現在の宇宙観光では、重大事故の発生率は極めて低く抑えられています』
ジッピが言った。
間瀬は顔を上げた。
「知ってるよ。出発前に何回も聞いた」
「ジッピにロマンを求めるな」
石川が笑った。
「いや、安心はしたけどな。その説明のおかげで行けたんだし」
間瀬はもう一度、地球の写真を見た。
「怖い目に遭いたかったわけじゃないんだよ。ただ、楽なところだけ選んだ旅行じゃなかった。それも含めて、覚えてる」
食事のあと、宮尾の提案で、近くの没入型施設へ寄った。
間瀬の旅行映像を使った、短い宇宙体験ができるという。
「帰ってきたばっかりのやつを、また宇宙に連れていくのか」
「今度は酔わない方」
「それは助かる」
間瀬が映像の利用を許可すると、ジッピが施設へ情報を送った。
撮影時刻と軌道の記録に合わせ、窓から見えた景色を再現する。
石川は椅子に横になった。
装置が下りる。
次の瞬間、身体がふわりと浮いた。
「おっ」
思わず手を伸ばした。
目の前の手すりに指がかかる。
握ると、身体の向きがゆっくり変わった。
床だと思っていた面が、横へ回っていく。
「ちょっと待って。どっちが上?」
「決めなくていいんだよ」
宮尾の声がした。
石川は手すりを離せなかった。
身体を支えるものがない。
それなのに、落ちていかない。
砂浜を歩いたときにあった、足裏だけ感触が浮いているような違和感が、今回はほとんどなかった。
「この前より、すごくなってない?」
『石川さんの前回のご利用から、一か月経過しています。施設の装置も更新されています』
「一か月でここまで?」
『はい』
「俺、一か月で膝が少し悪くなったくらいだぞ」
宮尾が笑った。
間瀬は慣れた様子で窓まで移動した。
「こっち」
石川も手すりを伝って近づいた。
窓の向こうに、地球があった。
映像で見たものより、ずっと大きい。
視界の端まで青い曲面が続いている。
石川は窓の縁に触れた。
言葉が出なかった。
「どう?」
宮尾が聞いた。
「……これでいい気もする」
「だろ?」
答えたのは間瀬だった。
「お前は怒れよ」
「別に。俺は本物行ったし」
間瀬は楽しそうだった。
「それに、こうやってお前らにも見せられるじゃん」
三人は並んで地球を見た。
しばらくして、間瀬が窓の隅を指した。
「ここ、もう少し傷あったんだよな」
『提供された映像では確認できません。追加しますか』
「いや、いい。そこまでやらなくても」
石川は間瀬の横顔を見た。
自分には、この景色がどこまで正しいのか分からない。
間瀬には、窓の傷が足りないと分かる。
「本当に行ってきたんだな」
「だから、最初から言ってるだろ」
体験を終えたあと、間瀬は旅行の保存設定を開いた。
「記憶補完、使わないの?」
宮尾が聞いた。
「あとでやる。まだ忘れてないし」
「何それ」
石川が尋ねると、ジッピが答えた。
『写真や映像に残っていない部分を、本人への確認と、外部装置で測定した想起時の反応を手がかりに補う機能です』
「頭の中の映像を、そのまま取り出せるの?」
『そこまではできません。複数の候補を提示し、記憶に近いものへ調整します』
間瀬が画面を見せた。
船室の照明の色。
窓から見ていた方向。
周囲で聞こえていた音。
記録に残った部分と、本人の記憶をもとに補った部分が、分けて表示されている。
『記憶自体にも誤りや変化があります。完成した環境が、過去の事実と完全に一致するとは限りません』
「でも、近いところまでは戻れるんだな」
『はい』
石川は少し考えた。
「人も?」
『人物の再現も可能です』
「会話とかもできる?」
『記録量によります。音声や映像、文章などから、話し方や行動の傾向を推定します』
海辺を歩いていた老夫婦を思い出した。
待合室では、女性は車椅子に座っていた。
仮想の海では、男性の腕につかまり、笑っていた。
あの男性も別の部屋から来ていたのだと、石川は何となく思っていた。
そうではなかった可能性もある。
「もう亡くなった人でも?」
『資料があれば可能です。ただし、その人自身が戻るわけではありません。記録のない発言や行動には、推定が含まれます』
「……そうだよな」
千秋の写真は、何枚あっただろう。
実家に残っていたアルバム。
並んで座った遠足の写真。
声は、残っているだろうか。
思い出そうとすると、顔より先に、名前を呼ばれた感じだけが浮かんだ。
『人物再現機能について、詳しい説明を確認しますか』
ジッピが聞いた。
石川は画面から目を離した。
「今日はいい」
『承知しました』
宮尾も間瀬も、何も聞かなかった。
間瀬が端末を閉じた。
「次は月、行ってみたいんだよな」
「今度こそ国じゃなくなるな」
「今回も国じゃねえよ」
石川は笑った。
帰り際、施設の前で三人は立ち止まった。
迎えの車が、順番に到着する。
「月なら、仮想でよくない?」
石川が言った。
「お前、さっき本当に行ってきたんだなって感心してただろ」
「今、ちょっと揺れてる」
「俺も下見はするよ。どこ泊まるか見たいし」
「もう不動産探す感じなんだな」
宮尾が施設を振り返った。
「人類、宇宙に住むより先に、家から出なくなりそうだな」
「お前は明日、フットサル来いよ」
「行くよ」
宮尾は笑って車に乗った。
間瀬も手を上げ、隣の車へ向かった。
まだ地球の重さが気になるのか、歩き方が少しゆっくりだった。
家に帰ると、間瀬から写真が届いていた。
窓越しの地球。
映像から切り出したのではなく、本人が撮った一枚だった。
少しぶれている。
窓には船内の照明が映り込み、右端に間瀬の指が入っていた。
隣には、施設で保存した仮想体験の画像も並んでいた。
こちらは鮮明だった。
窓への映り込みもなく、地球の青が美しく見える。雲の輪郭まで、はっきりしていた。
「保存する画像を選んでください」
石川は、指の写った方を選んだ。
酔って、ろくに食べられず、壁につながれて眠った友人が、それでも窓に近づいて撮った写真だった。
真希に見せるときは、そう説明しようと思った。
仮想の宇宙は、本物より快適だった。
本物の宇宙には、仮想にはない不便があった。
その不便まで含めて、人間はまだ、行ってきた場所の話をしたがった。




