第22話 もう一つの外出
「元々は、出歩けない人のために作ったらしいぞ」
宮尾が言った。
石川は施設の入口を見上げた。
ガラス張りの建物の向こうに、受付とソファが見える。壁には、海辺で笑う老夫婦の写真が飾られていた。
「何を?」
「今日やるやつ」
「お前、ゲームしに行こうって言っただろ」
「一般向けになって、ゲームもできるようになったんだよ」
「説明の順番がおかしい」
宮尾は笑いながら中へ入った。
石川もジッピと一緒に、そのあとを追った。
待合室には、若い二人組もいれば、車椅子に乗った老人もいた。
向かいのソファで、白髪の女性が付き添いのGPXと話している。
「今日は海にしようかしら」
『前回の続きを利用しますか』
「いいえ。主人と行った方」
GPXが二つの海岸の写真を見せる。
女性は迷わず、片方を指した。
石川は壁の案内画面に目を向けた。
寝たきりの人や、外出が難しい人のための体験支援。
自宅や施設にいながら、離れた家族と同じ景色を見たり、昔訪れた場所を歩いたりできる。
それが、この設備の始まりだった。
「旅行に連れていくのは大変だからな」
石川が言った。
「移動だけで疲れる人もいるし、酸素が必要な人もいる。行きたい気持ちはあっても、身体がついてこない」
『初期の利用者には、そうした方が多く含まれていました』
ジッピが答えた。
『感覚を再現する技術が向上し、現在は一般向けの利用も始まっています』
「なるほど。それで元気な無職まで来るようになったのか」
「元気かどうかは怪しいだろ。お前、この前フットサルで足つってたし」
「あれは身体からの早期警告だ」
「普通に運動不足だよ」
案内が表示され、二人は隣り合った個室へ向かった。
部屋の中央には、背もたれの大きな椅子があった。
歯科医院の診察台に少し似ている。ただ、周囲に並ぶのは治療器具ではなく、薄い装着具だった。
石川が座ると、背もたれがゆっくり倒れた。
後頭部と首が支えられ、目元を覆う装置が下りてくる。両手と足にも、柔らかい覆いがつけられた。
「身体は動かさないんだよな?」
『大きく動かす必要はありません。歩く、手を伸ばすといった動作の意図を外部装置が読み取り、仮想空間内の身体へ反映します』
「このチップで?」
石川は首元に触れた。
『チップは本人確認と健康情報の連携に使用します。体験に必要な感覚の提示は、施設の装置が行います』
「入れたとき、こんな機能あったっけと思ったよ」
『チップだけでは利用できません』
視界に、小さな白い部屋が現れた。
まず手を開く。
目の前の手も開いた。
右を見ると、白い壁がある。左を見ると、出口と書かれた表示があった。
『終了したい場合は、退出すると発声してください』
「退出」
すぐに白い部屋が消えた。
目元の装置が上がり、ジッピが見えた。
「おお」
『動作確認は完了しました』
「ちょっと安心した」
もう一度装置が下りる。
今度は、行き先を選ぶ画面が現れた。
海辺の散歩。
街歩き。
釣り。
共同ゲーム。
石川は少し考え、宮尾との共有体験を選んだ。
最初に聞こえたのは、波の音だった。
次に、風が頬をなでた。
石川は砂浜に立っていた。
足を動かすつもりになると、目の前の景色が進んだ。足裏には、砂を踏んだような感触がある。
ただ、いつもの歩行とは少し違う。
身体を前へ運ぶ重さが、妙に軽かった。
「……歩いてるな」
「歩いてるだろ」
隣に宮尾がいた。
いつもの服装なのに、足元だけサンダルになっている。
「お前、着替えるなら全部着替えろよ」
「面倒くさくて」
「ここでも面倒くさいのか」
石川はしゃがみ、砂に触れた。
指先にざらつきがあった。
少しつまもうとすると、砂はさらさらと落ちた。ただ、細かな粒が爪に入り込む感じまではない。
「すごいけど、全部同じではないんだな」
『再現できる感覚には限界があります』
ジッピの声がした。
姿は見えない。現実の個室から、会話だけがつながっているらしい。
『違和感や不快感がある場合は、調整できます』
「いや、これでいい。分かんなくなる方が怖い」
立ち上がり、海を見る。
遠くに船が浮かんでいた。
波が寄せ、足首が冷たくなる。
石川は思わず一歩下がった。
宮尾が笑った。
「分かってても避けるよな」
「冷たいんだよ」
「濡れないけどな」
石川は足を見た。
水滴がついている。
現実の自分は、椅子に横になっている。
そのはずなのに、もう一度波が来ると、やはり少し身構えた。
二人は海岸に沿って歩いた。
前方に、木の桟橋が見えてきた。釣り道具が二組、並んでいる。
「これ、お前が選んだの?」
「海で何かするなら釣りかなと思って」
「釣れるのか?」
「初心者向けにしてある」
「接待釣りか」
「嫌なら難しくできるぞ」
「今日は接待されたい」
石川は釣りざおを手に取った。
握っている感触がある。
糸を垂らしてしばらくすると、手元が引かれた。
「来た」
「早いな」
「これ、どうすんの?」
「巻けよ」
「何を?」
「リールだよ。釣りざおについてるだろ」
石川が慌てて手を動かすと、水面が跳ねた。
銀色の魚が上がってくる。
「おお!」
思ったより大きかった。
宮尾が笑い、石川も笑った。
魚を持って写真を撮る。
針を外すところだけは、案内役のAIに頼んだ。
「そこも自分でやれよ」
「元内科医だぞ。魚は専門外だ」
「お前、その言い訳便利だな」
魚は海へ戻した。
現実には、魚も釣りざおもない。
それでも石川は、もう一匹釣りたくなっていた。
桟橋のベンチで休んでいると、少し離れた場所を老夫婦が歩いていった。
女性が男性の腕につかまり、ときどき立ち止まって海を見ている。
「あの人、待合室にいたな」
石川が言った。
「車椅子の?」
「ああ」
女性は、波打ち際へ向かっていた。
隣の男性も歩調を緩める。
石川は、しばらくその後ろ姿を見ていた。
「こういうのは、いいな」
「うん」
「病院にいたころ、退院したら旅行したいって言う人、結構いたんだよ」
宮尾は黙って聞いていた。
「行ける人ばっかりじゃなかったけど」
石川自身、患者に諦めてもらったことがある。
移動の負担や、途中で具合が悪くなる可能性を説明した。
説明は必要だった。
それでも、うなずいた患者の顔が晴れることはなかった。
目の前の女性が、靴を脱いだ。
男性に何かを言い、二人で笑っている。
「これで十分って、人もいるだろうな」
「十分じゃなくても、行けないよりはいいんじゃない?」
「……そうだな」
石川は桟橋の先へ目を戻した。
「俺も、もう一匹釣るか」
「急に元気だな」
「今度はお前より大きいやつ」
終了を知らせる表示が出たのは、その少しあとだった。
「もう終わり?」
『初回の利用時間は60分です』
「そんなに経ったか」
退出を選ぶと、波の音が遠くなった。
砂浜も桟橋も消え、個室の天井が見えた。
石川はゆっくり指を動かした。
膝には薄い毛布がかかっている。
手は乾いていた。
さっきまで握っていた釣りざおの感触だけが、少し残っていた。
『気分はいかがですか』
「普通。いや、楽しかった」
『ふらつきがないことを確認してから、立ち上がってください』
身体を起こすと、隣の部屋から宮尾が出てきた。
「どうだった?」
「魚持った写真、ある?」
「そこかよ」
『保存されています』
ジッピが画面を見せた。
大きな魚を持った石川が、妙に得意そうに笑っていた。
「真希に送ろうかな」
「本当に釣ってきたって言うなよ」
「分かってるよ」
施設を出ると、昼の風が吹いた。
海辺より少し蒸し暑い。
道路の向こうで、配送ロボットが止まっている。歩道を横切る親子を待っているらしかった。
「昼、どうする?」
宮尾が聞いた。
「魚以外」
「食ってないだろ」
「気分の問題だ」
二人は近くの店に入った。
石川は冷たい水を飲み、ひと息ついた。
コップを置いたあとも、指先には結露の感触が残った。
「お前、あれ結構やってるの?」
「週に何回か。雨の日とか、夜暇なときとか」
「フットサルは?」
「明日も行くよ」
「どっちもやるんだな」
「別に、どっちかやめなくてもいいだろ」
宮尾はメニューを開いた。
「家で遊ぶ時間の半分くらいが、あっちになった感じ。外にも普通に出るし」
「間瀬も旅行やめないだろうな」
「あいつにも聞いたよ。本物は本物でいいんだってさ」
「言いそう」
「そのあと、移動中に使えるやつはないのかって聞かれた」
「使う気はあるんじゃん」
二人で笑った。
石川は焼き魚定食を選んだ。
「魚以外じゃなかったのか」
「釣ったら食いたくなった」
帰宅すると、真希が作業台で樹脂を磨いていた。
「魚、大きかったね」
「お父さんの才能が、また一つ見つかった」
「初心者向けって書いてあったよ」
「余計な情報まで送るなよ、ジッピ」
『利用記録に含まれています』
真希は笑い、作業へ戻った。
石川は庭へ出た。
ミカンの木の下に、落ち葉がたまっている。
腰をかがめて拾うと、膝が少し鳴った。
海辺では、しゃがんでも何ともなかった。
「向こうじゃ、膝痛くなかったな」
『身体への負荷が異なります』
「便利だな」
石川は落ち葉を集め、土のついた手を払った。
あの老夫婦は、また海へ行くのだろう。
旅行の支度も、移動の心配もいらない。
自分も、また行きたいと思っていた。
「ジッピ。次は山とかもある?」
『あります』
「宮尾と予定が合う日に、候補出しといて」
『承知しました』
家の中から、真希が呼んだ。
「お父さん、できた。見て」
石川は立ち上がった。
「今行く」
少し膝が痛かった。
それでも、その日はまだ、見に行きたいものがこちらにもあった。




