第20話 任意です
政府が埋め込み型端末の試験運用を始めてから、三か月が過ぎた。
街では、チップを入れた人間を見かけることが珍しくなくなっていた。
もっとも、見ただけでは分からない。
傷痕はほとんど残らず、専用の表示を出さない限り、入れている人間とそうでない人間を区別する方法はなかった。
「久しぶり」
待ち合わせ場所に現れた間瀬は、日に焼けていた。
「また黒くなったな」
「先週まで南の島にいたからな」
「この前はヨーロッパじゃなかった?」
「そのあと北アフリカ行って、島で泳いでから帰ってきた」
「退職してから、ずっと海外にいるじゃん」
「せっかくタダみたいなもんなのに、行かない方が損だろ」
国際輸送のほとんどは自動化され、必要なエネルギーも以前とは比べものにならないほど安くなっている。
決められた経路と標準的な宿泊施設を利用する限り、移動も滞在も各国の生活保障制度でほぼ賄われた。
高級な部屋や、人間による特別な案内を求めなければ、世界中を移動しても金はほとんどかからない。
「今度はどこ行くの?」
「南米。山を見に行く」
「帰ってきたばっかりだろ」
「一週間も日本にいるぞ」
「お前の中で一週間は長期滞在なの?」
間瀬は笑いながら店へ入った。
注文した料理が運ばれてくると、石川は間瀬が何も操作していないことに気づいた。
「支払いは?」
「もう終わってる」
間瀬が自分の腕を指さす。
「入れたの?」
「チップ? とっくに」
「早くない?」
「旅行するなら便利だぞ。本人確認も、入出国も、決済も全部これ。現地で倒れても、医療情報がすぐ共有される」
「位置情報も?」
「必要なときだけ。普段は共有範囲を自分で決められる」
「パスポートは?」
「持ってない」
「財布は?」
「持ってない」
「現地の言葉は?」
「翻訳はGPXがやる」
間瀬は手ぶらだった。
荷物は必要な場所へ先に運ばれ、着替えや日用品も現地で用意される。本人は身体一つで移動すればいいらしい。
「海外で何かあったら怖くない?」
「だから入れたんだよ。俺が何者か説明する前に、向こうの病院が全部分かる」
「どう? 身体に機械入ってる感じする?」
「何も感じない」
「不安にならない?」
「最初だけな」
間瀬は料理を口に運んだ。
「今は、ない生活には戻りたくない」
「それが一番怖い言い方なんだよ」
「でも便利だぞ」
「三か月前にあの演説を聞いてから、ずっと引っかかってるんだよな」
「嫌なら入れなきゃいいじゃん」
「それで済むのかね」
「済むだろ。俺は入れた。お前はまだ入れてない。それだけじゃん」
あまりに単純な答えだった。
「ところで、お前は何しに日本へ帰ってきたの?」
「お前らと飲むため」
「それだけ?」
「明後日には出る」
「旅行の途中に飲み会を挟むなよ」
その夜、石川は家へ帰ると、ジッピを呼んだ。
「チップについて、ちゃんと教えて」
『どの項目を確認しますか?』
「全部」
『すべてを説明した場合、推定で十一時間二十分かかります』
「じゃあ不安になりそうなところから」
『感染、故障、情報漏洩、位置情報の利用、除去の可否などですか?』
「それで」
ジッピは石川の前に、チップの立体映像を表示した。
米粒よりも小さい。
『処置後の感染率は極めて低確率です。端末に異常が生じた場合、機能は自動停止します。除去も可能です』
「位置情報は切れる?」
『緊急時を除き、共有範囲を選択できます』
「緊急時って?」
『生命の危険がある場合、行方不明の届け出が出された場合、本人が事前に許可した場合などです』
「データを全部勝手に使われたりしない?」
『医療、決済、移動、本人確認など、分野ごとに利用範囲を設定できます』
「思考を読んだりは?」
『できません』
「記憶を書き換えたり」
『できません』
「本当に?」
『現在の端末は、神経活動から思考内容を読み取る機能を有していません。記憶への情報入力も研究段階です』
「現在、ね」
『はい』
石川は立体映像を指で回した。
「健康管理は、今と何が違うの?」
『体温、脈拍、酸素状態、血糖変動、水分量などを継続的に測定できます。体表からの測定より早く変化を検出できる項目があります』
「病気も見つけられる?」
『すべてではありません。ただし、複数の変化を組み合わせることで、症状が現れる前に受診を提案できる可能性があります』
元医師として、その利点はよく分かった。
「真希に何かあった場合も、すぐ分かる?」
『真希さん本人が利用を希望し、保護者が同意した場合は』
その一言で、石川の中に残っていた反対の理由が、また一つ小さくなった。
「お前は、俺に入れてほしい?」
『導入を推奨します』
「理由は?」
『健康上の異常を早期に検出し、事故や急病への対応時間を短縮できるためです』
「断ったら?」
『その選択を記録します。必要であれば、現在の機器による支援を継続します』
「無理には勧めないんだな」
『利用は任意です』
「その言い方、最近よく聞くな」
一週間後、石川は試験導入施設を訪れた。
受付に人間はいなかった。
個室へ入ると、処置用ロボットが本人確認と同意内容を読み上げた。
石川は元医師らしく、滅菌方法や挿入位置、異物反応、故障時の対応まで細かく聞いた。
処置ロボットは、すべての質問に答えた。
答えを聞くたびに、断る理由が減っていった。
「じゃあ、お願いします」
『同意を確認しました』
首の後ろを消毒され、局所麻酔が行われた。
わずかな圧迫感があった。
石川が身構えていると、処置ロボットの腕が離れた。
『終了しました』
「もう?」
『はい』
「まだ何もされてない感じなんだけど」
『処置は完了しています』
身体にAI社会の入口を入れる。
もっと重大な出来事だと思っていた。
実際には、歯の治療より短かった。
施設を出ると、ジッピが待っていた。
「で、何が変わった?」
『現在、接続されています』
「それだけ?」
『はい』
痛みもない。
身体が軽くなるわけでも、頭の中に声が聞こえるわけでもなかった。
見た目には、何も変わっていない。
迎えの車に近づくと、扉が開いた。
行き先を言う前に、自宅への経路が表示される。
「俺、何も言ってないぞ」
『予定と現在地から、帰宅すると予測されました。変更しますか?』
「いや、帰るけど」
『では出発します』
途中で店に立ち寄った。
石川が商品を持って外へ出ると、確認画面すら表示されず、決済が終わった。
「便利だな」
『はい』
「認めるの早いな、俺」
歩いていると、ジッピが言った。
『軽度の脱水傾向があります。水分補給を推奨します』
石川は足を止めた。
「今、ちょうど喉が渇いたと思った」
『発汗量と循環の変化から予測しました』
「俺より先に、俺のことが分かるの?」
『一部については』
「嫌な答えだな」
『水を用意しますか?』
「お願い」
近くの給水機が石川を認証し、適温の水を出した。
その横で、高カロリーの菓子が目に入る。
石川が手を伸ばすと、ジッピが言った。
『本日の活動量と血糖変動を考慮すると、別の商品を推奨します』
「買えないの?」
『購入できます』
「なら買う」
『承知しました』
石川は菓子を取った。
決済は普通に完了した。
「止めないんだな」
『情報を提示しました。最終的な選択は石川さんが行いました』
「まだ俺にも決定権はあると」
『はい』
数日後、石川は同じ店で同じ菓子に手を伸ばした。
『別の商品を推奨します』
「どうせお前の方が正しいんだろ」
『多くの場合は』
「そこは謙遜しろよ」
石川は菓子を棚へ戻し、ジッピが勧めた方を選んだ。
自分で決めた。
そう思った。
ただ、最初から何を選ぶべきかは示されていた。
真希もチップに興味を示した。
造形施設では、同年代の多くがすでに利用しているという。
「本当に入れたい?」
「うん」
「みんなが入れてるからじゃなくて?」
「便利だから」
「身体に入れるんだぞ」
「お父さんも入れたでしょ」
「入れてから言われると弱いな」
石川は、真希の意思を何度も確認した。
危険性も、除去できることも、共有する情報を自分で選べることも説明した。
真希はそれでも希望した。
石川は同意した。
強制された者は、誰もいなかった。
石川も、間瀬も、真希も、自分で選んでチップを入れた。
それでも街では、チップを使わない人間の方が少数になり始めていた。
施設には、チップを利用しない人のための認証端末も残されている。
生活できないわけではない。
ただ、本人確認に少し時間がかかる。
決済には操作が必要になる。
医療情報を連携するにも、毎回許可を出さなければならない。
「なあ、ジッピ」
『はい』
「これ、実質強制じゃない?」
『利用しない選択肢は保障されています』
「でも、使わないと不便だろ」
『利便性に差があります』
「それを実質強制って言うんじゃないの?」
『定義によります』
「便利な言葉だな、定義って」
『正確な回答に必要な言葉です』
その夜、石川が寝室へ入ると、照明が少しずつ暗くなった。
室温が下がり、湿度が調整される。
石川の脈拍と体温から、眠りやすい環境が自動で作られていた。
何も頼んでいない。
「ジッピ」
『はい』
「俺、今日お前に何回お願いした?」
『明示的な指示は三回です』
「前は?」
『直近一年間の平均は、一日四十七回でした』
「俺、何も言わなくなったな」
『必要になる前に支援できるようになりました』
石川はベッドに横になった。
三か月前、広場で聞いた演説を思い出す。
不満がないまま、自分で決める必要だけが消えていく。
あの言葉は、間違っていないのかもしれない。
だが照明の明るさも、室温も、今の石川にはちょうどよかった。
チップを入れた日の夜、石川は何も失った気がしなかった。
むしろ、少しだけ自由になった気がした。




