第2話 優秀な辞書
GP8が配られて三か月が過ぎても、石川の働き方は変わらなかった。
日曜日の朝、人気のない病棟を白衣姿で歩く。本来は休みだったが、担当患者の顔を見ずに一日を過ごすほうが落ち着かなかった。
「先生、今日休みですよね?」
看護師に聞かれ、石川は平然と答えた。
「これは回診じゃない。散歩です」
「白衣を着てカルテを持った散歩ですか」
「健康意識が高いだろ」
「病院の中を歩いて健康になれるなら、私たち全員健康ですね」
石川は笑った。軽口を叩いていても、病室へ入る前には自然と表情が変わる。
肺炎で入院していた七十代の女性は、熱も下がり、血液検査の結果も良くなっていた。酸素も外れ、ベッドの上で話している限り息苦しさはなさそうだった。退院は翌日の予定だったが、本人はできれば今日帰りたいと言っている。
石川は端末を開いた。
「ジッピ、どう思う?」
青い光が一度だけ点滅した。
『現在の検査値、体温、血圧、安静時の酸素状態から、本日の退院も可能と考えます』
「だそうです」
石川が女性を見ると、嬉しそうに笑った。
「ほら。私、もう元気なんですよ」
「そうみたいですね」
「先生、ありがとうございました」
ジッピの判断は間違っていない。熱はない。炎症反応も改善している。安静時の酸素の値も問題ない。
それでも、石川は少しだけ引っかかった。話している間、女性は布団の中で何度も足の位置を変えていた。寝返りというほどではない。落ち着かないようにも見える。
「ちょっと歩いてみます?」
「歩けますよ。そんな、子どもじゃないんだから」
「確認です。散歩だと思ってください」
「先生も散歩好きですね」
女性は笑いながらベッドを降りた。
病室を出る。最初の数歩は普通だった。だが、十歩ほど進んだところで歩幅が小さくなった。少し先で、壁の手すりを握る。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫」
そう答えながら、呼吸は明らかに速くなっていた。
石川は指先に測定器をつけた。表示された酸素の値が、みるみる下がっていく。
「戻りましょう」
「でも、もう少しなら――」
「今日は競歩大会じゃないんで」
石川は女性を病室へ戻した。ベッドに座ると、呼吸は少しずつ落ち着いていった。
「やっぱり、動くと苦しかったんですね」
女性はばつの悪そうな顔をした。
「寝てれば平気なんですけどね」
「さっきは元気って言ってましたよ」
「退院したかったから」
小さく笑う。
「言ったら延びると思って」
石川は苦笑した。
「それは困りますね」
「怒りました?」
「怒ってないです。でも、次からは言ってください」
女性は素直にうなずいた。
病室を出たあと、石川はジッピに声をかけた。
「今のは?」
『安静時には問題ありませんでしたが、歩行後に酸素状態の低下と呼吸困難を認めました。本日の退院は推奨しません』
「聞いたあとなら分かるんだよな」
『安静時の測定値では異常を検出できませんでした』
「人間は一日中、ベッドで寝てるわけじゃない」
『歩行時の状態確認を、今後の判断項目に追加します』
「そうしてくれ」
少し間を置いて、ジッピが続けた。
『患者本人が症状を過小申告する可能性も考慮します』
「そこまで言うと急に怖いな」
『表現を変更しますか』
「いや、いい」
ジッピは正しい判断をする。ただ、その正しさは決められた項目の中にあった。
熱が下がった。検査結果が良くなった。安静時の酸素も問題ない。本人も大丈夫だと言っている。だから帰れる。
筋は通っている。
だが、人間はときどき自分の状態を正しく言わない。早く帰りたい。心配をかけたくない。我慢できると思っている。理由はいくらでもある。
その一言を、数字と同じ重さで扱っていいとは限らなかった。
石川にとってジッピは、まだ優秀な辞書だった。知識は膨大で、聞けばすぐに答える。しかも使うたびに少しずつ賢くなる。
それでも、何を聞くべきかまでは人間が決めなければならない。
数日後、女性は病棟を一周しても息切れしなくなった。
退院の日、石川が病室へ顔を出すと、女性は鞄から小さな袋を取り出した。
「これ、庭で採れたミカンです。病棟のみなさんで食べてください」
「いやいや、そういうのは大丈夫ですよ」
「先生、真面目すぎます」
「よく言われます」
「ミカンくらい笑ってもらってください」
そう言われ、石川は折れた。
袋の中には、形も大きさもばらばらなミカンが入っていた。
「あの時、歩かせてもらってよかったです」
女性は少し照れくさそうに言った。
「帰ってからまた苦しくなったら、家族にも迷惑かけてましたから」
「今度は無理しないでくださいね」
「はい。先生の言うこと聞きます」
「それ、病院出た瞬間に忘れる人多いんですよ」
女性は笑いながら何度も頭を下げ、病棟を出ていった。
石川は数個のミカンをもらい、残りを看護師たちへ渡した。医局へ戻って皮をむく。
一口食べた瞬間、強い酸味が広がった。
「すっぱ」
『糖度が低い可能性があります』
「そういうことじゃないんだよ」
ジッピの青い光が静かに点滅した。
身体には疲れがたまっていた。それでも、自分がここにいる意味はまだあった。
その週末、石川は上司から「今度こそ病院に来るな」と念を押され、久しぶりに完全な休日をもらった。
夜、小学生のころからの友人である間瀬と宮尾に会った。間瀬は鉄道会社で運転士をしており、宮尾は市役所に勤めている。三人で顔を合わせるのは半年ぶりだった。
「医者なんだから健康的なものを頼めよ」
間瀬に言われ、石川は枝豆と揚げ物の盛り合わせを注文した。
「枝豆を先に食えば、揚げ物はなかったことになる」
「患者には絶対言うなよ」
「野菜から食うのは大事だぞ」
「そこだけ急に医者になるな」
病院を離れた石川は、白衣と一緒に常識まで置いてくる男だった。
しばらく近況を話していると、間瀬がグラスを置いた。
「そういえば、うちにもAI入ったぞ」
「GP?」
「そう。鉄道向けのGP33。運行整理とか点検の補助するやつ」
「強そうだな」
「なんで番号で強さ判断するんだよ」
間瀬によれば、先日線路内に鳥が入り込んだ際、GP33は周辺三路線の一時停止を提案したらしい。
「安全なのは分かる。でも全部止めたら、何万人も帰れなくなる」
「事故は減るな」
「社会も止まるけどな」
宮尾も苦笑した。
「うちは行政向けのGP28。古い住所表記を別人だと判断して、手当の申請を却下しかけた」
「それはまずいだろ」
「データ上は一致しなかったらしい。間違ってないけど、合ってもいない」
石川は笑った。
「うちのも似たようなもんだ。患者が“大丈夫”って言ったら、本当に大丈夫だと思ってる」
「今も?」
「いや、少しずつ学んではいる」
「じゃあそのうち石川いらなくなるじゃん」
「三か月で俺を超えられてたまるか」
三人は笑った。
間瀬がグラスを傾ける。
「まあ結局、最後は人間が見てやらないとな」
「AIだけだと、まだ危なっかしいな」
宮尾もうなずいた。石川にも異論はなかった。
「人間を労働から解放するんだってよ」
そう言うと、間瀬が吹き出した。
「まず俺を早番から解放してくれ」
「俺は市民からの電話」
「俺は日曜の散歩」
「それ仕事だろ」
三人はまた笑った。
GPは少しずつ賢くなっている。それでも、まだ人間が後ろから見てやらなければ危なっかしい。
少なくとも、その夜の三人にはそう見えていた。
誰も、トッドの言葉を本気にはしていなかった。




