第1話 GP8のジッピ
昼休みは十五分だった。
正確には、午前の診察が長引き、午後の処置まで十五分しか残っていなかった。
公立病院の医局で、石川はコンビニ弁当をかき込んでいた。三十三歳、内科医。白衣のポケットには付箋とボールペンが詰まり、机には午前中に確認できなかった検査結果が積まれている。
食事を楽しむ時間はない。鮭を口へ入れ、採血結果を確認し、米を飲み込みながら午後の患者のカルテを開く。看護師からは「石川先生は真面目すぎる」と言われていた。
本人に言わせれば、患者を診ている最中に手を抜けるほうがおかしい。
医局のテレビでは、昼のニュースが流れていた。画面に映っているのは、世界最大手のAI企業を率いるトッドという男だった。
『遠くない未来、人間は労働から解放されるでしょう』
通訳の声に合わせて、トッドは自信たっぷりに両手を広げた。
『AIが社会全体を管理し、一人ひとりに最適化された生活を提供します。人間が生きるために働く時代は終わります』
石川は鼻で笑った。
「まず俺を十五分の昼休みから解放してくれ」
テレビの中で、トッドはさらに続けた。
『最適化とは、不自由を減らすことです。人間が迷う必要のない社会を作る。それが、AIの役割です』
石川は弁当の端に残った漬物を見た。
「人類の迷いをなくす前に、俺がこれ食うべきか迷ってるんだが」
結局、食べた。
時計を見る。残り四分だった。
「石川先生、処置室いけます」
看護師が顔を出した瞬間、石川は弁当の蓋を閉めた。
「今行きます」
立ち上がったときには、もう仕事の顔に戻っていた。
その日の外来も、いつも通りだった。高血圧の薬を飲み忘れる老人。検査結果をスマートフォンで撮ろうとする家族。説明に納得した顔をしながら、次の受診日を忘れて帰りそうになる患者。診察室の外では呼び出し音が鳴り続け、電子カルテには未記入の欄が積み重なっていく。
午後七時を過ぎても、石川はまだ病院にいた。診察は終わっている。だが、紹介状、診断書、退院時サマリー、保険会社へ出す書類、看護師からの確認事項が残っていた。
「労働から解放ねえ」
石川はキーボードを叩きながら呟いた。
「まず医者をカルテから解放してくれ」
冗談のつもりだった。
だが、その冗談に誰も笑わなかった。隣の席の医師は、画面を見たまま目薬を差していた。別の医師は、カップ麺に湯を入れたまま呼び出され、戻ってきた頃には麺が汁を全部吸っていた。
翌週、院内メールが届いた。
件名:次世代医療支援AI端末 GP8 試験導入について
石川は最初、迷惑メールかと思った。
内容は簡単だった。医師の事務作業削減、診断支援の高度化、患者説明の均質化を目的として、病院全体で新型AI端末を試験導入する。対象は常勤医全員。使用状況は匿名化されたうえで評価され、将来的には地域医療全体への展開も検討される。
メールの下部には、昼のニュースで見た企業のロゴが入っていた。
「ああ、あの人類解放の会社か」
石川は画面を閉じた。
信用していないわけではない。ただ、病院で「業務負担を減らす」と言われて、本当に減ったことがあまりなかった。新しいシステムは、たいてい最初に入力項目を増やす。便利になる頃には、別の新しいシステムが来る。
それでも、医局の反応は悪くなかった。
「診断書を自動で作ってくれるなら神」
「退院サマリーだけでも頼む」
「患者説明を代わってくれるなら結婚してもいい」
「相手は端末ですよ」
「端末でもいい」
誰も未来を信じていたわけではない。信じていたのは、今の仕事量がこのままではもたないという一点だけだった。
一か月後、会議室に医師たちが集められた。
前方の机には、同じ形の白い箱がいくつも並んでいた。弁当ではない。残念ながら。
説明担当者は、病院の事務長と一緒に入ってきた。スーツの襟には、あの企業のロゴが付いている。
「本日から、こちらのGP8を各医師に一台ずつ配布します」
白い箱が開けられる。中に入っていたのは、手のひらほどの白い装置だった。中央に青い光が浮かんでいる。従来のAIとは比較にならない学習能力を持ち、医師の仕事を補助する半自立型AIだという。
「診断支援、書類作成、患者説明、治療計画の提案まで可能です」
説明担当者は誇らしげに言った。
「使用者の判断や行動を学習し、使うほど、その医師に最適化されます」
医局に戻った石川は、さっそくGP8を使ってみた。対象は、心不全で二度目の入院をした七十八歳の男性だった。
「この患者の退院後の生活指導案を作ってくれ」
青い光が一度だけ点滅した。
『作成しました』
画面には、塩分制限、水分管理、毎日の体重測定、適度な運動、服薬の継続が整然と並んだ。医学的には正しい。文章もきれいで、必要な情報はすべて入っている。
石川は読み終えると、キーボードへ手を伸ばした。
「これじゃ無理だな」
『不備がありますか』
「ある。というか、正しすぎる」
『正確性に問題はありません』
「この人は目が悪くて、薬の文字が読めない。奥さんには認知症がある。毎日の体重を記録してくださいって書いても、前回できなかったから再入院したんだ」
石川は薬を一包化し、袋を朝と夕方で色分けするよう修正した。体重は記録させず、一定以上増えたときだけ音声で知らせる体重計を手配する。塩分制限の説明は短くし、利用できる配食サービスを載せた。娘と訪問看護師への連絡方法も追加した。
『医学的な指導内容を一部削除しています』
「正しいことを全部言えば、患者が全部できるわけじゃない。守れない指導は、してないのと同じだ」
『理解しました。修正内容を学習します』
「本当に理解したのか?」
『次回から、患者の生活環境と実行可能性を優先して提案します』
返事だけは立派だった。
石川は端末を持ち上げ、白い筐体を眺めた。
「GP8って呼びにくいな。ジーピーエイト、ジーピー、ジッピー……いや、ジッピでいいや。親しみが命だ」
『名称をジッピに変更しました』
「そこは素直なんだな」
外来が終わり、最後のカルテを閉じた瞬間、石川の仕事のスイッチも切れた。椅子の背にもたれ、白い端末を指でつつく。
「ジッピ。俺を労働から解放できるか?」
『現時点では不可能です』
「じゃあ、せめて明日の外来を代わってくれ」
『医師による最終確認が必要です』
「結局、俺が働くんじゃねえか」
『はい』
「はいじゃないんだよ」
石川はまた鼻で笑った。
知識はすごい。仕事も速い。だが、患者を診るにはまだ足りない。
遠くない未来、人間は労働から解放される。
一か月前、弁当をかき込みながら聞いたトッドの言葉を思い出した。あの時と同じように、石川にはまだ出来の悪い冗談に聞こえていた。




