第16話 お金の使い道
「靴、きつい」
玄関に座った真希が、つま先を押さえていた。
石川はしゃがみ、靴の先を指で確かめた。
「本当だ。指、詰まってるな」
『前回の購入から七か月が経過しています』
後ろからジッピが言った。
「買ったばっかりだと思ってたんだけどな」
『三日前にも、買い替えを提案しました』
「そうだっけ?」
『石川さんは動画を見ながら、そうだな、と回答しています』
「便利な返事だよな、そうだなって」
『提案が実行されない場合があります』
「……今日は買おう」
『足の計測情報から、適合する商品を取り寄せられます。候補を表示しますか』
「画面だと、色とか分かりにくくない?」
『では、私が店舗へ行き、実物の映像をお送りします。選んでいただければ、そのまま持ち帰れます』
「俺を家から出さないつもりか」
『外出の必要はありません』
「必要はなくても、出たいんだよ」
石川は玄関の外を見た。
よく晴れていた。
「最近、家ばっかりだし。真希、一緒に選びに行くか」
「行く」
真希は履きかけていた靴を脱ぎ、サンダルに替えた。
『では、車を手配します』
「お前も来いよ」
『はい』
「帰り、どっか寄ってもいいな」
「アイス」
「即答だな」
妻は友人と出かけていた。
靴だけなら、家で待っていれば届く。
けれど今日は、届くのを待つより、真希と外へ出たかった。
商業施設の手前で車を降りると、小さな清掃ロボットが足元を通り過ぎた。
真希は慣れた様子で半歩よけ、そのまま石川の手を引いた。
歩道の端では、二本腕の機械が街路樹の枝を整えている。切り落とした枝は、下で待つ別の機械が回収していた。
向かいの建設現場にも、人影はない。
「昔はあれ、全部人がやってたんだぞ」
石川が言うと、真希は剪定中の機械を見た。
「なんで?」
「なんでって……仕事だったから」
「ロボットいなかったの?」
「今みたいなのはいなかったな」
「大変だったね」
それで話は終わった。
真希にとっては、昔の人が川で洗濯していた、という話と大差ないらしい。
「俺、そんな昔の人じゃないんだけどな」
『真希さんにとっては、生まれる前の話です』
「追い打ちかけるな」
靴売り場に店員はいなかった。
入口の測定台に真希が乗ると、足に合う靴が棚の上で淡く光った。
真希は水色の一足を手に取った。
「これ」
「履いて歩いてみな」
真希が売り場を一周する間に、石川は値札を見た。
四百八十円。
「……片方?」
『一足です』
「一桁間違ってない?」
『正常です』
安くなったのは知っている。それでも、たまに昔の値段が頭を出す。
以前なら、こういう靴には数千円払っていた。
「作って運んで並べて、これで儲かるんだな」
『原料の調達から販売まで、ほぼ自動化されています。製造に必要なエネルギーも、以前より少なくなりました』
「俺が値札見て悩んでる間に、次の一足できてそうだな」
戻ってきた真希が、その場で二度跳ねた。
「痛くない」
「じゃあ、それにしよう」
真希はもう一度、足元を見た。
「やっぱり、こっち」
同じ形の、薄紫の靴を指さす。
「水色じゃなくて?」
「履いたら、こっちの方がいい」
履き替えた真希が、鏡の前で足をそろえた。
石川はジッピを見た。
「ほら、来てよかっただろ」
『はい。外出した目的は達成されています』
「まだアイス食べてないよ」
真希が言った。
「そっちが本命か」
日用品の売り場を抜ける途中、石川は菓子棚の前で立ち止まった。
「これ、真希が好きなやつだ」
値札を見て、五箱まとめて持ち上げる。
『ご自宅に十二日分の在庫があります』
「安いし、いいだろ」
『追加購入分は、資源利用の追加負担が生じる数量です』
「お菓子五箱で?」
『同じ商品の家庭内在庫と、直近の廃棄履歴を含めた判定です』
石川は箱を抱えたまま、ジッピを見た。
「この前、湿気らせたやつ?」
『はい』
「あれは袋が閉まってなかっただけだろ」
『廃棄した理由として記録されています』
「記録が細かいな」
商品が安くなっても、原料や水まで無限になったわけではない。
普段の買い物では気にならないが、必要量を大きく超えると確認が入る。買えなくなるわけではない。ただ、安いから買って、余ったら捨てる、という買い方には負担がついた。
「俺の金でも、好き放題ってわけじゃないのか」
『購入する自由は保障されています。資源を浪費する自由とは別です』
「ややこしい自由だな」
真希が石川の腕から一箱抜いた。
「これだけでいいよ」
「……はい」
残りを棚に戻す。
自由になってから、娘に注意される機会が増えた気がした。
売り場を出ると、購入品が自動で精算された。
「そういえば俺、今いくら持ってる?」
『口座残高を確認しますか?』
石川は少し考えた。
「……いや、いいや」
食事も、住居も、医療も保障されている。真希の教育にも、日々の移動にも、まとまった金は要らない。
金がなくなったわけではなかった。
ただ、残高を確かめる理由が、なかなか見つからなくなっていた。
広場に面した店で、アイスを買った。
入口にも出口にも扉はない。棚と冷凍ケースが、そのまま通路につながっている。
真希は選んだアイスを持ち、外のベンチへ向かった。
「昔なら、万引きと間違われそうな出方だな」
『決済は完了しています』
「分かってる。こういう店、盗まれないの?」
『窃盗件数は大きく減少しています』
「どこでも記録されてるからか」
『それも一因です。生活必需品を盗む必要がなくなったことも、大きく影響しています』
石川は、食べ物の並ぶ棚を振り返った。
腹が減れば食べられる。
寝る場所があり、病気になれば治療を受けられる。
昔、金がないという一言で諦めていたものの多くが、今は誰にでも届いた。
「悪いことする人、いなくなったの?」
ベンチに座った真希が聞いた。
『いなくなってはいません』
「そうなの?」
『腹を立てたり、誰かを傷つけたいと思ったりして、事件になることはあります』
「金で解決できない方は残るんだな」
石川が言うと、ジッピはうなずいた。
『生活の保障だけでは、防げないこともあります』
「そっちは難しいか」
真希はアイスをひと口食べ、足をぶらぶらさせた。
新しい靴が、日なたで揺れていた。
帰ろうとしたところで、真希が小さな店の前に立ち止まった。
少し曲がった皿や、手縫いの鞄が並んでいる。
商品札には、値段と一緒に作った人の名前が書かれていた。
「お父さん、これ」
真希が指さしたのは、ガラスの置物だった。
青いクラゲ。
丸い傘の中に小さな気泡が浮かび、細い足が不揃いに垂れている。
「水族館にいたやつみたい」
しゃがみ込んだ真希が、横からのぞいた。
石川も隣にしゃがんだ。
一万二千円。
さっき買った靴が、二十五足買える。
「急に値段が昔に戻ったな」
『手作業による一点物です』
隣の棚には、機械製のクラゲもあった。
透明で、形も整っている。
八十円だった。
「こっちの方が、形はきれいだな」
『均一性は機械製品が上です』
「百倍以上違うのか」
『同じものを大量には作れません。作り手を指定して購入する人もいます』
石川はもう一度、青いクラゲを見た。
出来のよさだけを比べているのではないのだろう。
誰かが時間をかけて、これを一つ作った。
そのことまで含めた値段だった。
「真希、どっちが好き?」
「こっち」
指さしたのは、青い方だった。
「ここ、泡が入ってる」
「本当だ」
「海の中みたい」
石川には、作るときに入った気泡にしか見えていなかった。
「これ、欲しい?」
真希はうなずいた。
「机に置く」
「じゃあ、買おうか」
ジッピは何も言わなかった。
石川はその顔を見上げた。
「これは止めないんだな。お菓子より高いぞ」
『資源利用の追加負担が生じる購入ではありません』
「無駄遣い判定は?」
『真希さんは水族館を訪れて以降、クラゲに継続して関心を示しています。大切に保有することが見込まれます』
「ちゃんと欲しいものと、余らせるものは分けるのか」
『判断に必要な情報をお伝えすることが、私の支援です』
「偉そうな支援だな」
『ありがとうございます』
「褒めてないよ」
真希が笑った。
包装されたクラゲを受け取ると、両手で大事そうに抱えた。
帰りの車で、真希は箱を少しだけ開けていた。
石川は隣から、その中をのぞく。
「割るなよ」
「分かってる」
「家着いたら、お母さんに見せような」
「うん」
窓の外では、配送ロボットが店に荷物を運び込んでいた。
靴だけ頼んでいたら、ああいう機械が玄関まで運んでくれたのだろう。
その方が早くて、余計な買い物もしなかった。
石川は、箱の中をうれしそうにのぞく真希を見た。
「お父さん」
「ん?」
「お金って、何のためにあるの?」
「欲しいものと交換するためだよ」
「でも、ご飯はなくても食べられるよ」
「そうだな」
「電車も乗れるし」
「うん」
真希は箱の中のクラゲを見た。
「じゃあ、こういうの買うため?」
石川も、その小さな青い傘を見た。
なくても生活には困らない。
けれど、真希は帰り道の間、何度も箱を開けていた。
「……今は、そうなのかもな」
昔、人は生きるために金を稼いだ。
今では、金を使うために理由が必要になっていた。




