サウダーデ4
「見ての通り、これは次から次へと無謀なことばかりしでかす。これまでに私の耳に入っただけでも海賊に
戦いを仕掛けたり航海の途中で急に姿をくらませたり……いくら戦術や商才に長けてるからといえ船長(カ
ピタン)としての自覚が足らな過ぎる。何かあったらお前はお前の下で働く水夫達に、どう責任を取るつも
りなのだ」
「皆もこれでいいって言ってるぜ?俺のレジーナ号に乗ってると退屈しない航海で最高だってさ」
「ーーーー」
悪怯れる様子もなくしれっと答える少年にしばしの間絶句したシニョール・カペッロはやがて最後の手段
である親の権限で決めつけた。
「とにかく、お前は次の航海からサーリムを伴って行くのだ。サーリムは思慮深く頭の良い少年だ。短気で
喧嘩っ早いお前の良い歯止めになってくれるだろう」
「いらねぇってんだろ、クソオヤジ!!」
ヴェネツィア最年少のカピタンは、一喝すると素早く身を翻した。
『冗談じゃない!遥々トルコからやってきたというのに、ここで職を失ったらすべてが水の泡だ!!』
そう思ったのと手が伸びたのは、いったいどちらが早かったのか?気がつくと私は少年の、黒くすんなり
とした腕を鷲掴みにしていた。
「痛ェな!何だよ」
自分でもなぜこんなことをしたのかわからなかった。食い扶持が欲しかったのは事実だが……でも確かに
私はあの時からハヴィに魅かれ始めていた。不満に輝く少年の、獅子のような目を見た時、私の心は決まっ
た。思ってもみなかった言葉が口から飛び出した。
「トルコ、トルコと馬鹿にしたようにおっしゃいますが、あなた方の使ってらっしゃる羅針盤や数字は、い
ったいどこを経てこの地に入ってきたんだと思っておられます?新進気鋭に富むヴェネツィア人の言葉とも
思えませんね。役に立つか立たぬかは使ってみてから決められたらいかがです?」
少年の私を見る目が細まった。値踏みをするような一瞥を与えると鼻で笑う。
「……いいだろう。使ってやりましょう、そんなに使われたきゃな。ただしーーこのハヴィ様にそれだけの
大言壮語を吐きやがったからにはそれ相当の覚悟をしとけよ!もしお前が、ハッタリだけの役立たずなら海
に投げ込んでやるからな!!」
少年は力任せに私の手を振りほどいた。身を翻した瞬間、黒い巻毛から微かな潮の香と共に雫が飛び散っ
た。その冷たさに我に返った私は、頬を拭いながら仲間と共に去っていく彼を見つめていた。
☆
マルコ・ハヴァイヤット・カペッロは実際、神の寵愛を一身に受けた少年だった。ヴェネツィアでも屈指
の貴族で、何代にも渡って数々の総督やドージェを出したカペッロ家の一粒種の跡継ぎである上に、見る者
を魅了せずにおかないその明るい美貌、加えて9才の時、トルコとの小競り合いで初陣を果たした彼の伝説
的な活躍ーー子供の身軽さで、数人の仲間に手伝わせ、敵の船に奇襲をかけてまんまと司令官を討ち取って
しまったというーーに裏付けられる知力、度胸、決断力。お坊ちゃま育ち特有の我儘さ、気まぐれ、傲慢さ
はあっても、自分が夢中になったり、慕ってきた人間には親身になって面倒を見てやる。そんな一面もまた
人に好かれる原因だった。
私が乗り込んだレジーナ号の船員達は、そんなハヴィに一番近しい者達の集団であった。皆が彼の崇拝者
であった所で何の不思議があったろう?
「おいっ、レジーナ号がザーラに到着したら各々で仕入れた品物を売りさばいてもいいってハヴィからのお
達しだぜ」
「お、本当かよ!!」
レジーナ号の甲板はにわかに活気づいた。
「本当だ、みんな!今度の航海は思ったより苦労したからな。時化が多かったり風が吹かなかったり。そこ
でみんなの苦労を労って内職の解禁はザーラに決めた」
「ハヴィ!!」
水夫達が振り向くとハヴィがマストにもたれかかって微笑していた。
「ヴェネツィア本国に戻ると政府の目が光っててたいした儲けにもならないだろ? しかもだ、今回はーー」
ハヴィは少し言葉を切ると自分を囲む水夫達を見回した。
「通常の3割までならボッても構わねぇぞ。それくらいなら政府もなんとか誤魔化せる……ただし、あこぎ
な商売はするなよ。すぐに足がついてオダブツだぞ」
「よっしゃ了解だ! 」
「これだからレジーナ号に乗るのをやめらんねぇんだよなぁ」
「ああ、俺達をこき使って自分の金儲けのことしか考えてねぇ貴族のボンボンの名ばかりのカピタンたぁ違
うな、ハヴィは。俺達貧乏人の心情をちゃあんと心得てやがる。どういうもんかな、あれは……名門カペッ
ロ家のやんごとないお坊ちゃまだってのにな」
ざわめく水夫達はやがてそれぞれの持ち場に戻っていった。この内職で得た金で母親に新しい肩掛けを買
ってやると話す者、売る品物の相場を相談し合っている者達ーー。
私は甲板を降りて行こうと彼らの間を通り抜けた。さっさと掃除をしてしまおうーー新米の船乗りの仕事
は船中の掃除だった。この航海の始まった頃は正直言って掃除どころではなかった。絶え間なく襲ってくる
船酔いのための 吐き気と歩くことさえ困難な船の揺れ。私は船に乗せてやると言った時のハヴィのせせら
笑いの意味がようやくわかった。
ヴェネツィア人は生まれた時から海と結びついている。ゆりかごの代わりにゴンドラで揺られ、歩き出す
ようになれば父親に連れられて船に赴きそこで遊び、そこで 学び、まさに彼らの生涯は水の上にあるのだっ
た。こんな所では16才にもなって船の上で歩けないという方が異常者だった。見るに見かねた周りの水夫達
が私に手を貸そうとしたが、私はハヴィへの意地にかけて助けを借りるわけにはいかなかった。
ハヴィは船に乗り込んだ私に対して一向に無関心を装っていた。甲板で行き合っても伝言を伝えに行った
時も……悔しかった。何としてでもこの少年の関心を自分の方へ引き寄せたかった。そう思う気持ちがいつ
のまにか船酔いを克服させ、船の中を自由に歩き回らせるようになっていた。
甲板を下る階段に足をかけた時、ふいに視線を感じて私は振り返った。
「……」
視線の主はハヴィだった。皮肉げな笑いを口の端に浮かべてじっと私を見下ろしている。私はよろけるこ
とのないように足許にグッと力を入れてゆっくりと階段を踏みしめて下って行った。
甲板の上を吹く風は心地のいいアウストロ(南風)。天候は快晴。このままイオニア海を北上すれば明日の
朝にはアドリア海に入っているだろう。目的地ザーラは目と鼻の先だった。




