サウダーデ3
「こいつぁすごいや、ハヴィだぜ! 」
「さすがカペッロのハヴィだ」
「マルコがまた何かやったな」
静まり返った港に、そこだけ華が開いたようなにぎわいである。シニョール・カペッロはため息とも感嘆
ともつかぬ口振りで、傍らを通り過ぎようとした若い水夫に尋ねた。
「お若いの、すごい騒ぎだが一体何があったのかね?」
興奮した水夫は、話しかけられた相手が黒い帽子に黒いローブの議員だったので ちょっと興を削がれた顔
つきになったが、それでもまだ呂律の回らない調子で一気にまくし立てた。
「何があったなんてもんじゃないよ、 旦那。レジーナ号のハヴィ・カペッロが一番高いマストのてっぺん
から飛び込んだんだ! 何でも誰が一番高い所から飛び込めるかで賭けになったらしいぜ。じゃ俺は俺にかけ
てやるってことでスルスルとマストに登ったかと思ったらそのままドボン、だってよ」
水夫は手真似で飛び込みの仕草をしながら感嘆の声を上げて前方にあるレジーナ号(らしき船)のマストを
見上げた。
「噂にゃ聞いてたが、ハヴィ・カペッロってのは只者じゃねぇなぁ……男の中の男だ」
「単なる向こう見ずのバカかもしれんぞ」
「え? 」
不思議そうな表情を浮かべた水夫を尻目にシニョール・カペッロは人混みをかき分けて海に近づいて行っ
た。私も彼と離れては大変とわけもわからぬままその後に続く。人々の視線は目の前の海に注がれていた。
自然、私の視線もそこへ動いた。
風さえ止んだ水面はトロリとして微動だにしない。誰かがゴクリと唾を飲む音が聞こえた。ブクブクーー
数秒の後、水面に小さな泡の粒が無数に浮かび上がってきた。次の瞬間ーー激しい水音としぶきを上げて、
彼は私の視界に初めてその姿を現したのだった。
「プハーッ! 」
「おい、生きてたぞ !!」
途端に戻ってくる水夫たちのざわめきーー。
「ハヴィ、 大丈夫か」
誰かがかけた声にハヴィと呼ばれた男が威勢よく答えた。
「ったり前だろ!!ハヴィ様は不死身なんだ。できねぇこたぁないんだよ」
「ハハッ 違いねぇ、 認めるぜ」
彼の声を聞いた私は、想像していたよりもだいぶ高いその声に面食らった。岸の水夫達と軽口を交わしな
がらこちらに向かって泳いでくるその姿をじっと見つめる。果たしてそれは思った通り、まだ声変わりもし
ていないほどの少年だったのだ。
少年は12、3才ほどだろうか。浅黒い顔はまだ幼さを残してはいるものの、なかなか整った容貌である。
その頬に短く切り揃えた黒い巻毛が濡れてピッタリと張りついていた。
彼は泳ぎも人に引けを取らないらしい。 あっという間に 岸にたどり着いたかと思うと、 段差をよじ登っ
て頭を振り、犬のように 水しぶきを飛ばした。
「無事だったか、マルコ」
シニョール・カペッロは 苦笑をしながら少年に近づいた。
「あれぇオヤジ殿、いつ帰ったんだ? 」
「今さっきだ。お前はどうせ家には居るまいと思ったので、サン・マルコに着いたその足でこっちに来たの
だ」
「さすがにオヤジ殿だ。伊達にこのハヴィ・カペッロのオヤジを11年も努めてるわけじゃないな」
少年はクシャッと顔を歪める。そこに現れたのは何とも人好きのする、いや石でさえも魅了されてしまう
であろうほどの一点の曇りもない笑顔だった。
仲間やシニョール・カペッロに対する傲慢ともいえる口振りも、彼のこの笑顔と共に味わってしまうと、
不思議と気にならなくなってしまうのがわかるような気がする。
しかしーー11年オヤジを努めてる、だって?ということは……まだ11才にしかなってないのか、この少年
はーーなんてことだ。それで本当にあんな高いマストの上から飛び降りたというのか。
少年は水夫のひとりが投げて寄越したシャツを受け止めた。シニョール・カペッロと談笑しながら濡れた
シャツを脱ぎ始める。と、突然その手が止まったかと思うと少年の冷ややかな視線と声が私の心を貫いたの
だ。
「オヤジ殿、このツリ目の野郎はいったい何だってんだ!トルコ野郎の奴隷か。さっきから俺にガンつけて
るぞ」
鼻先に指を突きつけられて、私はようやく自分のことを言われてるらしいと気づいた。私はどうやら瞬き
もせずに彼を見つめていたらしい。感嘆と称賛の視線を浴び慣れているはずの少年が、私の視線にはいささ
か閉口した様子だった。
「おおそうだ。紹介するのを忘れていたな。マルコ、これはサーリムだ。お前の言う通り半分トルコ人の血
が混ざっとるが、もう半分はヴェネツィアの血だ。しかも父方の、な。私が何を言いたいのかわかるかね、
ドラ息子」
「へいへい、ヴェネツィアじゃ父親が祖国の人間でありさえすれば、母親がトルコ人だろうがフランス人だ
ろうがヴェネツィア人として認められるんだよな。だからどうしたっていうのさ、オヤジ殿。こいつがトル
コ野郎でもヴェネツィア人でも俺には何の関わりもないことだろうが」
「ところがそうでもないのだ」
シニョール・カペッロは不敵な笑みを浮かべると私の方に向き直った。
「サーリム、これが私のひとり息子のマルコ・ハヴァイヤットだ。お前に会わせたかったのはこのマルコな
のだよ。息子に付いて船に乗ってもらいたいのだ」
「何だって、オヤジ殿!」
勝手に話を進める父親に、息子の目が吊り上がった。




