サウダーデ2
サーリム
初めてサン・マルコを見たのは16の時だった。
うだるような熱風がラグーナ沖を吹き抜け、真夏の午後の白い陽差しが波間に反射して目が痛くなるほど
だった。それでも遥か彼方の陸地には赤茶色にそびえ立つ尖塔や繊細なレースを被せたような、白と薔薇色
の建物が蜃気楼のようにたゆたっている。どことなく故郷コンスタンティノープルを思い出させるような、
それでいて数段美しいその景色に私はムーダ(貿易船)の甲板からなかなか去ることができなかった。
「あれが我が祖国ヴェネツィアだ、サーリム。お前の血の半分はこの国に属している。そして今日からはこ
こがお前の故郷なのだよ。どうだ、美しい所だろう? 」
最愛の宝物を愛でるような恍惚とした声がふいに背後から降ってきて私は思わず振り返った。
果たしてそこに居たのは、ヴェネツィアのコンスタンティノープル駐在大使、アンドレア・カペッロだっ
た。この、そろそろ50に差し掛かろうかというシニョールは、今現在の私の主人であった。
そう、このムーダに乗り込む2,3日前、私はシニョール・カペッロに買い取られたのだった。コンスタン
ティノープルの奴隷市場で。
私は生まれた時から奴隷だったわけではなかった。父はヴェネツィアの船乗りで、コンスタンティノープ
ルとヴェネツィアを行き来する定期船に乗り込んでいたらしい。母はコンスタンティノープルの漁師の娘
で、父がコンスタンティノープルに来た時に結ばれ、私を産んだ。しかし幸福な時は長くは続かず、やがて
父はアドリア海沖で海賊に襲われ死亡。乳呑児の私を抱えてひとり残された母は、なまじ器量がよかった為
に奴隷商人に目をつけられ、拐かされて売られる羽目に陥った。
奴隷としての無理な生活が祟り、母もそう長くは生きていなかった。私が8才の時、母も死に天涯孤独の
身となった私はやはり奴隷として各家を転々としていた。
「この子はいくらだね?」
「旦那ァ、こいつはちょっといわくつきな代物でねぇ……頭はいいんで使いこなせりゃこれ以上ないってく
らい便利なんでしょうがそれを鼻にかけて主人をやり込めちゃあ、こうして何度もここへ戻ってくるんで
さ。10デュカーティでもお薦めできませんね」
「なるほど…賢そうな瞳をしている」
シニョール・カペッロは人の良さが滲み出ている黒い瞳でじっと私を覗き込んだ。
「どうだ、私と一緒にヴェネツィアに行ってみないか?お前に会わせたい者がいるのだよ」
後になって思えばこれが、私が自分自身の運命の扉を開いた第一歩だった。
☆
「ーーそれで、シニョール・カペッロ。私がお会いする方というのはどなたなのですか?」
ムーダがサン・マルコ広場の前の船着き場に着いた時、私は一刻も早く陸に降りたくてウズウズしてい
た。何かに呼ばれているーーそんな気がしてならなかった。もしかするとそれは、私の中の父の血の叫びだ
ったのかもしれない。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、シニョール・カペッロはこの暑さにも関わらず黒いローブを纏
い、優雅な足取りで階を降りてきた。
「まぁそう急ぐこともあるまいよ。折悪しく今は午睡の時間でゴンドラもなかなか捕まらん。お
そらく家に帰っても、シエスタだからといってあれがじっと居るわけもないしな。どれ、お前にヴェネツィ
アの中心街を案内してやりながらゆるゆると歩いて行こうか」
確かに言われてみれば広場全体が閑散としていた。品物に布をかけ、俯いて居眠りをする物売りや建物の
日影で賭け事をする男達がまばらに見えるのみである。
広場を横切りながら、シニョール・カペッロはその周りを囲む建物について説明してくれた。
「あの白と薔薇色の大理石でできているのがドージェの住まわれている元首宮。
あそこには共和国の公式な機関が集まっている。議員を投票する投票場や国会を開く会議場ーー毎週日曜日
に会議が開かれるのだ」
「では旦那様もおいでになられるのですね」
「そうだ。今度の日曜はコンスタンティノープルから帰国して久々の出席だ。皆に挨拶せねばなるまいよ」
シニョール・カペッロは顎髭を撫でながら思い出したように呟いた。
「そしてパラッツォ・デュカーレと後ろの牢獄を繋ぐのがこの”ため息の橋”ーーこの橋を渡っていったら最
後、再び戻って来られるのは処刑の時だけだというので、罪人はこの橋から見える外の世界を今生の名残り
としてため息をつく……そこからこの名がついたらしいーー」
私達がため息橋のたもとで少し足を止めた時、前方の船着き場から突然、人々の歓声が上がった。




