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サウダーデ  作者: ガリ
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サウダーデ

16世紀初頭、ヴェネツィア。元首(ドージェ)マルコ・ハヴァイヤットは、愛人サーリムと共に妻ベアトリーチェ・メディチを毒殺する。メディチ家の没落によって政略結婚の価値を失った彼女を、共和国の障害として葬るはずだった。しかし死にゆく妻を前にしたマルコの動揺は、サーリムの心に疑念と嫉妬を生む。

かつて奴隷としてヴェネツィアへ来たサーリムはマルコと出会い、海で苦難を共にし、唯一無二の伴侶となった。だが2人が出会った過去のベアトリーチェの姿をマルコが忘れられなかったことが、2人の絆に亀裂を生じさせる。サーリムは十人委員会(ヴェネツィアの政府機関)を利用して彼女を葬るが、マルコは妻を失った喪失感と愛人への想いに引き裂かれ、やがて共和国への反乱を決意する。互いを守ろうとした2人の心は、取り返しのつかぬほどすれ違っていた。

追手から逃れたマルコは、息子アドリアンをサーリムに託し、ヴェネツィアの海へ消える。残されたサーリムは、彼への想いをすべて受け止め、悔恨の涙と共にその最後を見送るのだった。

   ーープロローグーーサーリム


 手折られた花のような緩やかさであの女は床にくず折れた。その姿を縁取るように、ルビーのような赤ワ


インの飛沫が窓越しに入ってくる午後の光にきらめいた。


 それを合図に私は主人であるマルコ・ハヴァイヤット・カペッロを見た。


 私が誰も入ってこないようにと後手で扉に鍵をかけたのを確認すると、マルコ・ハヴァイヤットーーハヴ


ィはテーブルを回って、妻であるベアトリーチェ・メディチに近づきかがみ込んだ。


 黄金の波のような金髪の合間に沈むベアトリーチェの美貌は蒼白で、もはや逃れることのできない死相に


満ちている。ハヴィはしばらく迷ったように苦しむ妻を見つめていたが、私が後ろから近づいていくと思い


切ってベアトリーチェのか細い首の下に腕を回して抱え上げた。


「気分は……どうだ?」


 感情を押し殺したハヴィの声はかすれていた。ベアトリーチェは重たげに瞼を開いた。セルリアンブルー


の瞳が常にない穏やかな安らぎを浮かべていた。


「…ようやく私を自由にして下さいますのね……マルコ・ハヴァイヤット様ーーそしてサーリム殿…」


 ベアトリーチェの視線はハヴィの肩越しに私を捉えていた。


「どうかレヴァンティーノを頼みます、サーリム殿。あの子はマルコ・ハヴァイヤット様の御子。あなたは


きっと立派に育てて下さると信じておりますけれどーー」


 この女、死ぬ直前まで正妻面をしてーー!!産んだというだけでいっぱしの母親面をするつもりか!そうと


も、アドリアン様はこの私がお育てするのだ。


「ご安心下さいますよう、元首夫人(ドガレッサ)。アドリアン様はもとより私が細心の注意を払いお育て致


す所存です。いづれはご立派なヴェネツィアの市民となられることでしょう」


 ベアトリーチェは私の敵意を見透かしたように弱々しく微笑して頷いた。この女はいつもそうだ。感情が


通っていないのかと思うほどの無表情で人を苛立たせたかと思うと、時折何でも知っていると言わんばかり


の、人を馬鹿にしたような表情を見せて神経を逆撫でする。さすが稀代の策略家、フィレンツェのロレンツ


ォ・メディチの娘だけある。


 そう、この女は数年前、まだ元首(ドージェ)に就任して間もなかった主人、ハヴィの許にフィレンツェか


ら嫁いで来たのだった。


 ドガレッサは外国人であってはならぬというヴェネツィアの掟を無理矢理破らせたのは並み居るフィレン


ツェの名家を押さえてヴェネツィアの海上権を利用しようと企んだロレンツォ・メディチであった。


 フィレンツェ人というのは同国人同士で血で血を洗う闘争を繰り返し、どこの家もが君主たらんことを願


ってその座を虎視眈々と狙っている。その頂点に立っていたのが、この女の実家であるメディチ家だった。


ヴェネツィアは対トルコ対策に苦しんでおり、メディチからドガレッサを迎えることによってその力を利用


する考えだった。もちろんその為にフィレンツェの内部抗争に巻き込まれぬよう細心の注意を払いながら。


 ベアトリーチェ・メディチーーこの女もまたこのような国同士の陰謀の駒に使われるだけ合って、その見


かけからは想像もつかぬほどの図太い神経の持ち主だった。


 私は知っているのだ。ベアトリーチェが息子をレヴァンティーノと呼ぶわけを。


 レヴァンテーー本来は東方の、というような意味である。だが彼女にとって東方という響きは特別な意味


を成すものなのだ。



 東方の国ジパングーーかつて彼女はこの国から旅してきた男と駆け落ちを企てたことがある。フィレンツ


ェよりの追手が必死になって追いかけた為にこの駆け落ちはどうやら失敗し花嫁は予定通りの日時にハヴィ


とヴェネツィアに送り届けてこられた。


 相手の男の行方はようとして知れない。ひとりで逃げたのか、フィレンツェで殺されたのかーーともかく


も確かなことはベアトリーチェが未だこの男を忘れていないということだった。そしてこの女は生まれた子


供にかつての男の名残を求めてレヴァンティーノという呼び名を与えたのだった。


 だがそれほどまでに想う男がいても結局ベアトリーチェはこのヴェネツィアを、ドガレッサの地位を捨て


ることはできなかった。嫁いで間もなく、実家メディチの急激な没落が始まったからである。


 ロレンツォ・メディチは既にベアトリーチェが嫁ぐ前に死んでいた。跡を継いだ兄のピエロ・メディチは


各国に無能の噂が鳴り響く男で、メディチがフィレンツェの君主の座を追われるのもそう遠い日のことでは


あるまいと誰もが予感した。


 ベアトリーチェがもし、本能の赴くままかつての男を追って自殺するなり出奔するなりしていたとすれ


ば、メディチは国内のハイエナのように群がってくる政敵のみならず、国外のヴェネツィアまでも敵に回す


ことになっただろう。


 それをやってしまえば、彼女の人生はまさに無駄に終わってしまう。駆け落ちまでした男を諦めたことま


で無駄になると思えば、彼女は生きる屍と化しても、このパラッツォ・デュカーレに居続けるしかなかっ


た。


 しかし、結局は彼女のその努力も無駄に終わったが…2年前にメディチがフィレンツェから追放されてか


らというものの彼女の心は既にここにはなかった。


 ふと物思いから返った私は、ベアトリーチェを抱えたままこちらを振り返ったハヴィと目が合った。


「死んだよ……」


「そうですか。では召使いを呼びましょう。医師と僧に使いをやらなくては…十人委員会の招集もね」


 事務的に言い放った私が踵を返して扉の方へ向かった時、背中越しにハヴィの呟きが聞こえた。


「この女、最後の最後まで俺を拒絶しやがったーー殺される時に一番幸せな顔を見せて……見ろよ、サーリ


ム。こいつの顔、こんなに幼かったっけか?夫婦なんていっても互いに相手の寝顔なんて見たことがなかっ


たからなぁ。アドリアンを産んだ後は、この女は決して俺を近づけようとはしなかったし、俺もこの女に近


づかなかった……ようやく俺から逃れて、今頃は遥か彼方のジパングの、あの男の許にひた走ってるだろう


さ」


 私は覚えずハヴィを振り返った。あまりに強く振り向いたために、髪を束ねていた紐が解け頬にかかる。


ーーやはりあなたはこの女に心を奪われてしまったのか?ーー


 降りかかる前髪を片手で掻き上げ、目を細めた私はきっと悪魔のような表情をしていたに違いない。実


際、私は怒りと失望、そして嫉妬で目が眩みそうだった。


 ハヴィはそんな私には目もくれず、ただひたすら妻の亡骸を見つめていた。


 ーー何という情けない姿だ。ヴェネツィアの誇り高きドージェともあろうあなたがーー。


 私は心の中でハヴィに話しかける。私の愛した、そして私を愛したハヴィはこんな男ではなかった……初


めて会ったあの頃、あなたは生き生きとして太陽よりも輝いて見えたのにーーそう、あの頃はーー。


 季節はずれの暑いシロッコ(サハラ砂漠からイタリアに吹きつける南風)がラグーナ沖から吹いてくる。そ


れがいっそう高ぶった神経を浮き足立たせるのだった。

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