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第九音 旧演奏棟の影と四つ目の音

 夕暮れどき、三人は建物の中へ入っていった。




 廃棄された講堂、割れたガラス窓、ほこりを被った譜面台。


 床板が軋み、足を踏み出すたびに小さな音が鳴る。




「ここ……まだ使われてるのかな?」




 琴羽が小さくつぶやく。




「わからない。でも……音は、確かにこの中にある」




 詠は迷いなく歩を進める。




 誰かが来た形跡があった。


 廊下の奥、埃の積もった床に、新しい足跡が続いている。




「……誰かいる」




 澪が足を止める。




「うん。さっきからずっと、気配がある」




 三人は自然と声を低くし、足音を殺しながら進んだ。




 ミヨリが警戒するようにくるくると宙を舞いながら言った。




「気をつけるのじゃ、音が歪んでおる。何かが潜んでおるぞい……」




 その言葉が終わるよりも早く。




 ――ギィ……




 突き当たりの扉が、ひとりでに開いた。




 奥から漏れ出してきたのは、耳を裂くような不協和音。


 音楽ではない。何かが歪んだような、不快な振動。




 直後、空間が震え、黒い霧のようなものが舞い上がる。




「来るッ!」




 澪が叫ぶよりも早く、空間の中に『何か』が現れた。




 膨張する虚音の塊。


 まるで楽器の残骸が意志を持ったかのように、黒く、大きく、のたうち回る。




「構えて!」




 詠はギターを構え、琴羽と澪もすぐに演奏態勢を取る。




 澪のギターが冷たい旋律を放ち、虚音の動きを縛ろうとする。


 琴羽の鍵盤が和音を重ね、空間を支えようとする。


 詠が音波を弾き、虚音の前面に圧をかける。




 だが。




「効いてない……!」




 虚音はすぐに形を変える。三方向から音を浴びても、霧のように散らばり、また集まる。


 連携がまだ粗い。息が合っていない。お互いの音を聴けていない。




(このままじゃ、押しきれない……!)




 虚音の腕が、詠の方へ伸びてくる。




 詠が後退しようとした、その瞬間――




「……ドン」




 深く、重く、空間ごと切り裂くような一撃が炸裂した。




 バンッ!




 虚音がたじろいだ。


 霧が四散し、腕が消え、黒い塊がぐらりと揺れる。




 三人は思わず音のした方を振り返った。




 廃墟の奥、暗がりの中から。


 無言のまま、ゆっくりと歩み出てくる影がある。




 背に背負った和太鼓が、空間に映える。


 高い位置でまとめた黒髪。鋭い目。


 学院の制服を着ていなければ、何か別の世界から来た者のように見えた。




「あなた、は……?」




 琴羽が息をのむ。




 少女は答えなかった。


 詠たちをちらりと見ただけで、すぐに虚音へ視線を戻す。




 撥を握り直し、太鼓を構える。




「どいて」




 低く、短い一言。




 詠はとっさに横へ動いた。澪と琴羽も左右に散る。




 少女の撥が、振り下ろされる。




 ドン――ッ!!




 まるで雷が落ちたような一打。


 音波が衝撃波のように放たれ、虚音の中心を貫く。




 黒いノイズが激しく散乱し、次の瞬間。




 ドドドドド――――ッ!!




 連打が炸裂した。


 高速で叩き込まれる音が波となり、虚音の形が崩れていく。


 霧が薄れる。黒い塊が透けていく。そして。




「ハァッ!」




 最後の一打。




 虚音が、砕け散った。




 残響が旧演奏棟に響き渡り、やがて静寂が戻る。




 詠は、しばらく言葉が出なかった。




 あの音。


 昨日、遠くから聞こえてきた雷のような音。


 それが今、すぐそこにある。




「……すごい」




 思わずつぶやいた声に、少女は振り返った。




 その目が詠を見る。


 鋭く、静かで、どこか疲れているような目。




「……あんたたち、何しに来た」




 ※ ※ ※




 少女の問いに、詠は一歩踏み出した。




「音を、追ってきた」




「音?」




「昨日の夜、太鼓の音が聞こえた。呼ばれてるような気がして……あなたを探して来た」




 少女の目が、わずかに細くなる。




「……呼んだ覚えはない」




「うん、わかってる。でも」




 詠はギターのストラップに触れた。




「わたしたちは、祝音少女《五色ノ契》を探してる。あなたが……その一人じゃないかと思って」




 沈黙。




 少女は詠を、次に澪を、琴羽を見た。


 ミヨリの存在には、気づいていないようだった。




「……なんで、わかった」




「あなたの音が、虚音を祓ったから」




 今度は澪が答えた。静かに、でも確信を持った声で。




「普通の音じゃ、あれは消せない。あなたが持ってるのは……わたしたちと同じ、祝音だよ」




 少女はしばらく黙っていた。


 太鼓の縁を片手でなぞり、どこか遠くを見るような目をしている。




 それから、ため息をひとつついた。




「……火ノ宮天音」




 短く、名前だけを言った。




「高等部一年。それだけ」




「わたしは花咲詠! 初等部六年で、こっちが紫月澪、千歳琴羽。三人とも、祝音少女なんだ」




「知ってる」




「え、知ってたの!?」




「この学院に音の使い手が増えてるのは、気配でわかる。あんたたちのことも……多少は」




 ミヨリがそのとき、ぱっと姿を現した。




「おお、さすがは雷の音をその身に宿す者! 感じ取っておったのじゃな!」




 天音は少しだけ目を見開いた。




「……なんだ、それ」




「ワシはミヨリ! 音の理を守る式神にして、祝音少女の案内役じゃ。天音よ、おぬしもすでに感じておるはず。この力が何であるかを」




 天音は視線を下げた。


 自分の撥を見た。




「……うるさい」




「うるさい?」




「毎日、太鼓を打つたびに……何かが来る。虚音とかいうやつが。うるさいって言ってんだ」




「それは……毎日来てたの?」




 詠は思わず声を上げた。




「一人で、ずっと」




「……ひとりでやってきた。誰かを巻き込む気はなかった」




 天音の声は平坦だった。


 感情がないのではなく、感情を表に出す習慣がないような、そんな平坦さ。




「でも今日、あなたはわたしたちを助けてくれた」




 琴羽が静かに言う。




「助けたわけじゃない。虚音が目の前にいたから打った。それだけだ」




「それでも、助かった」




 琴羽は微笑んだ。




「ありがとう、天音さん」




 天音は琴羽を見て、それから視線を逸らした。


 頬が、ほんのわずかだけ赤かったように、詠は思った。




「……別に」




 ミヨリがくるりと宙を回る。




「天音よ。おぬしの祝具が覚醒した今、もう独りで戦う理由はない。音は……重なるためにあるのじゃ」




「重なる?」




 天音がそれを繰り返した。


 どこか、懐かしむような声で。




「……重なると、何が変わる」




「試してみればわかる」




 今度は澪が言った。




「一人の音より、ずっと……遠くまで届く」




 天音はしばらく黙っていた。


 廃墟の薄暗がりの中で、撥を両手でぐっと握りしめている。




 詠は何も言わなかった。


 焦らなくていい。


 待てる。




 この子が自分で出した音が、ここへ呼び込んだのだから。




 やがて天音が、ゆっくりと息を吐いた。




「……一回だけ」




「え?」




「一回だけ、合わせてみる。それで合わなかったら、やめる」




 詠は思わず笑った。




「合う。絶対」




「根拠は」




「根拠は……昨日から、ずっとあなたの音を待ってたから!」




 天音が、少しだけ目を丸くした。




 それから、ほんの少しだけ、口元が緩んだ。




 ミヨリが両手を広げる。




「雷の律動、ここに目覚めたり! 四つ目の音、結ばれたぞぃ!」




「……まだ、鳴らしてない」




 天音がぼそりと言った。




「え?」




「重なると何が変わるか。まだ試してない」




 詠の顔がぱっと明るくなった。




「じゃあ、今やろう!」




 澪が小さく頷く。


 琴羽も《花桜鍵》を抱え直した。




 天音は何も言わず、太鼓の前に立つ。




 最初の一打は、天音だった。




 ドン。




 低く、熱い鼓動が旧演奏棟の床を震わせる。




 そこへ、澪の静かな旋律が重なった。


 琴羽の春風の和音が、埃っぽい空気をやわらかくほどく。


 最後に詠のギターが、桜色の線を描くように前へ出た。




 四つの音は、まだ完璧ではなかった。




 詠の旋律が少し走る。


 澪の音がそれを支えようとして、琴羽の和音が一拍遅れる。


 天音の太鼓だけが、揺れた全員の足元を押し戻した。




 それでも。




 さっきまで三人では届かなかった場所に、音が届いた。




 旧演奏棟の天井に残っていた黒い霧が、薄くほどけていく。




「……変わるな」




 天音が小さく言った。




「でしょ?」




 詠が笑う。




 天音は答えなかった。


 でも、撥を握る手から力が少しだけ抜けていた。




 旧演奏棟の静寂の中で、夕暮れの光が床に長く伸びていた。




 四人の影が、ひとつに重なる。




 まだ、完成には遠い。


 でも、たしかに何かが響き始めていた。






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