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第八十音 春、普通の楽器に戻る

 三月。


 神響に、春が来た。


 桜はまだ満開ではない。


 けれど、校門のそばの枝には小さな花が開き始めていて、風が吹くたび、春の匂いが少しずつ街へ広がっていく。


 去年の四月、この街に来たとき、詠は一人だった。


 祖母の形見のギターを背負って、知らない坂道を下り、知らない学校へ転入した。


 友達がほしかった。


 でも、その言葉を口にすることさえ少し恥ずかしくて、形見のギターだけを抱えていた。


 あれから、一年が経った。


 神響の街には音が戻った。


 ディスコードの否定はほどけ、律の穴は塞がった。


 世界は、急に完璧になったわけではない。


 それでも、朝の商店街にはラジオが流れ、校庭には部活の掛け声が戻り、音楽準備室には五人の楽器が置かれている。


 ただ、戻らなかったものもあった。


 ミヨリは、いなくなった。


 ディスコードがほどけた夜、音楽準備室で五人が楽器の点検をしていると、ミヨリは机の上に座って、いつもより静かに尻尾を揺らしていた。


「役目が、終わった」


 最初にその言葉を聞いたとき、詠は意味がわからなかった。


「役目って」


「ワシは音の理を守る式神じゃ。律が正しく戻れば、ここに留まり続ける必要はない」


 琴羽が息を呑む。


「帰っちゃうの?」


「消えるわけではない。律の側へ戻るだけじゃ」


「同じじゃん」


 天音が言った。


 怒っている声だった。


 ミヨリは困ったように笑う。


「そう言われると、返す言葉がないの」


 理央が端末を握りしめる。


「再召喚の条件は」


「今は言えぬ」


「知っているけれど言えない?」


「うむ」


 理央はそれ以上、聞かなかった。


 澪がミヨリを見つめる。


「また会える?」


 ミヨリは少しだけ目を細めた。


「音が続く限り、完全に離れることはない」


 それは答えのようで、答えではなかった。


 詠はミヨリの前に膝をつく。


「私たち、もう大丈夫?」


 ミヨリは詠の頬に小さな手を当てた。


 温かかった。


「大丈夫じゃ」


「ほんとに?」


「怖いままでも、鳴らせるじゃろう」


 詠は泣きそうになって、頷いた。


「よくやった、詠」


 その言葉を最後に、ミヨリの体が鈴の音のような光になった。


 五人は何も言えなかった。


 ただ、その光が音楽準備室の天井へ上がり、見えない律の中へ溶けていくのを見ていた。


 翌日、祝具は光らなくなった。


 詠の《祝華》は、形見のギターに戻っていた。


 弦は普通の弦。


 ボディも普通の木の感触。


 桜紅の光も、金色の弦も、変身の熱もない。


 澪の《音幻》も、琴羽の《花奏鍵》も、天音の《雷陣》も、理央の《律盤》も同じだった。


 光らない。


 変身できない。


 敵も来ない。


 それは平和な証のはずなのに、最初の日、詠は少しだけ寂しかった。


 誰かを守るために鳴った光が、もう出ない。


 怖い夜に背中を押してくれた熱も、手のひらには戻ってこない。


 けれど、その寂しさを口にしたとき、澪も琴羽も天音も理央も、同じように頷いた。


 寂しいと思えるほど、一緒に戦ってきた。


 その事実まで消えたわけではない。


 修了式の前日。


 詠は音楽準備室の扉を開けた。


 中には澪がいた。


 一人で、光らない《音幻》を弾いている。


 音は出ていた。


 普通の、きれいな音。


「澪」


 澪は手を止める。


「ここにいた」


「弾きたかった」


「一人で?」


 澪は少し考えた。


「最初は」


 それから、《音幻》を背負う。


「今は、みんなと弾きたい」


 詠は笑って、手を伸ばした。


「行こう。みんな待ってる」


 澪はその手を取った。


 光らない祝具。


 でも、その重さは変わらない。


 一年間、一緒に越えてきた時間の重さだった。


 修了式の朝、天音は校庭でスティックを振っていた。


 祝具を出しているわけではない。


 ただ、空気を叩いている。


 音はほとんど出ない。


 けれど、天音の中では拍が鳴っているのだと、詠にはわかった。


 理央が少し離れた場所に立っている。


「何をしているの」


「練習」


「祝具なしで?」


「リズムは心の中にある」


 天音が得意げに言うと、理央は少しだけ目を逸らした。


「否定はしない」


「そこは褒めろ」


「良い表現だと思う」


「急に素直」


 二人は並んで校舎へ向かう。


 幼なじみの距離。


 でも、もうそこに閉じた壁はない。


 琴羽はライブの準備中、袖でタンバリンを握っていた。


 光らない鈴が、チン、と鳴る。


「緊張してる」


 琴羽は自分から言った。


 去年の琴羽なら、きっと笑って大丈夫と言った。


 今は違う。


 緊張していると、ちゃんと言える。


 詠は隣でギターを抱えた。


「私も、めちゃくちゃ緊張してる」


 琴羽が目を丸くして、それから笑った。


「詠ちゃんも?」


「するよ。普通に」


「そっか」


 琴羽はタンバリンを握り直した。


「じゃあ、一緒に緊張しよう」


「うん」


 理央はステージ裏で、ベースの弦を一本ずつ確認していた。


 光らない。


 でも、七弦のままだった。


 カナミの音が宿ったように見えた弦も、今は普通の弦に見える。


 それでも、理央はそこに指を置いた。


「音に意味はあるか」


 かつてノートに書いた問い。


 今は、ノートを持っていない。


 ステージで答えるために。


 詠が声をかける。


「理央、行くよ」


 理央は頷いた。


「うん」


 普通の楽器。


 普通の音。


 でも、それでいい。


 祝具が光らなくても、音はまだ鳴る。


 五人は春のステージへ向かった。


 廊下を歩く途中、詠はギターケースの重さを確かめた。


 もう、勝手に光ることはない。


 危険を知らせて震えることもない。


 けれど、背中にある重さは、初めて神響に来た日の重さとは違っていた。


 あのときは、一人で抱えていた。


 今は、五人で鳴らすために持っている。


 普通に戻ったのではない。


 普通の楽器として、もう一度始まったのだ。



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