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第八十一音 春のライブと、次の音

 神響女学院、春のライブ。


 在校生と、来年度の新入生と、近くの商店街の人たちが集まる小さなステージ。


 空は晴れていた。


 桜はまだ少し早い。


 けれど、枝の先には薄い花が開き、春の光がステージの床を明るく照らしている。


 魔法はない。


 変身もない。


 光る祝具も、敵の気配も、律の穴もない。


 普通の五人が、普通の楽器を持って、普通にステージへ立つ。


 それが、こんなにも怖い。


 そして、こんなにも嬉しい。


 詠はマイクの前に立った。


 客席のざわめきが聞こえる。


 音がある。


 ざわめきも、誰かの咳払いも、椅子が軋む音も、全部がちゃんと聞こえる。


 詠は息を吸った。


「えっと」


 声が少し裏返った。


 天音が後ろで小さく笑う。


 澪は静かに頷いてくれる。


 琴羽は大丈夫、という顔でタンバリンを持っている。


 理央は無表情に見えるけれど、左手の指がほんの少しだけ緊張している。


 詠は笑った。


「私たちは、去年の四月から、ずっと一緒に音を鳴らしてきました」


 客席が少し静かになる。


「楽しいこともあったし、つらいこともありました」


 詠は四人を見る。


「音が信じられなくなった夜もありました」


 澪の水色の音。


 琴羽の春桃の和音。


 天音の雷金の拍。


 理央の紫夜の譜線。


 カナミの桜色と紫の残響。


 ミヨリの鈴の音。


 四奏卿の本物の音。


 ディスコードの、千年前の音。


 全部が、詠の中で鳴っている。


「それでも、弾き続けました」


 詠はマイクを握り直した。


「この音が、どこかで迷っている誰かに届いたらいいなと思います」


 少しだけ照れくさくて、でも逃げずに言う。


「だって、私たちは」


 四人が並ぶ。


 五人の声が揃った。


「祝音少女、五色ノ契です」


 客席から拍手が起きた。


 普通の拍手。


 温かい拍手。


 詠は《祝華》だったギターを鳴らした。


 今はもう、普通のギター。


 でも、その一音は春の空気にちゃんと広がった。


 その瞬間、詠は少しだけ目を見開いた。


 光は出ない。


 祝装も起動しない。


 空に譜線が走ることもない。


 それなのに、胸の奥で確かに何かが応えた。


 祖母が残したギター。


 一年を一緒に越えた祝具。


 そして今、ただの楽器として鳴っている相棒。


 全部が同じ一本の音として、詠の手の中にあった。


 澪がリードを重ねる。


 天音がドラムを刻む。


 琴羽のキーボードとタンバリンが跳ねる。


 理央のベースが根音を支える。


 曲は《五彩ノ鼓動》。


 世界を救うための歌ではない。


 今日ここにいる人たちへ届けるための歌。


 それでよかった。


 詠は歌いながら、客席を見た。


 新入生らしい子が、目を輝かせている。


 商店街の老人が、手拍子をしている。


 同級生たちが笑っている。


 誰かの一日が、この音で少しだけ明るくなるかもしれない。


 それは世界を一度に変える奇跡ではない。


 でも、確かに音が届いている。


 ステージの上で、五人は笑った。


 途中で、琴羽のタンバリンが少しだけ走った。


 天音がすぐに拍を合わせ、澪が旋律を細く伸ばして支える。


 理央のベースが低く戻り道を示し、詠が声で全員をもう一度中心へ引いた。


 完璧ではない。


 でも、崩れない。


 この一年で覚えたのは、失敗しないことではなかった。


 ずれても、また重ねればいい。


 そのために五人でいる。


 校庭の端の桜の木。


 その枝の上に、二匹の小さな影が並んでいた。


 一匹は、銀白と淡紫の毛並みを持つ小さな式神。


 尾の先に、五線譜のような光がかすかに揺れている。


 もう一匹は、桜色と紫の光を宿した赤狐。


 額に小さな「祝」の字が浮かんでいた。


 ミヨリがステージを見下ろす。


「よくやったのう」


 カナミが鼻を鳴らす。


「当然でしょ」


「相変わらず素直ではないの」


「うるさい」


 カナミはステージの詠を見ている。


 全力で歌う詠。


 少し前まで、転入生の孤独を抱えていた少女。


 今は仲間の真ん中で、普通のギターを鳴らしている。


「声、出るようになった」


 カナミが言う。


「うむ」


「ギターも、少しはまし」


「かなり上手くなったと思うがの」


「そこまでは言ってない」


 ミヨリは笑った。


「おぬしも変わった」


「変わってない」


「笑うようになった」


 カナミは黙った。


 風が吹き、桜の花が少し揺れる。


 ステージから五彩ノ鼓動のサビが届いてくる。


 光らない楽器で鳴らしているはずなのに、その音はどこまでも届いてくるようだった。


「鳴ってる」


 カナミが呟く。


「うむ」


「消えてない」


「消えぬ。残響じゃからな」


 ミヨリは空を見上げた。


 青い空のさらに向こうで、かすかに別の律が揺れている。


「次が来るぞ」


 カナミは耳を動かした。


「知ってる」


「覚悟はあるか」


「当然」


 赤狐のカナミは枝の上で立ち上がる。


「あいつらがまた迷ったら」


「うむ」


「今度は、もっと早く行く」


 ミヨリが目を細める。


「頼もしいの」


「からかうな」


 ステージでは、五人の演奏が最後のサビへ入っていた。


 詠の声が、春の空へ伸びる。


 澪の旋律が寄り添い、琴羽の鈴が弾み、天音の拍が跳ね、理央の低音が支える。


 客席の拍手が重なる。


 普通の拍手。


 普通の歓声。


 でも、その普通が、どんな祝音よりも尊く聞こえた。


 カナミは目を細める。


「続きは、また今度」


 ミヨリが頷いた。


「うむ。また今度じゃ」


 二匹は桜の枝の上で、並んでステージを見ていた。


 春の光の中で。


 音は、まだ鳴っている。


 どこまでも。


 詠たちの演奏が終わっても、拍手はしばらく続いた。


 その拍手の中で、次の誰かが小さく鼻歌を歌い始める。


 まだ名前もない、次の音だった。


 詠はその鼻歌に気づいて、少しだけ笑った。


 自分たちの音が、誰かの中で別の形に変わっている。


 それはもう、詠たちのものではない。


 だからこそ嬉しかった。


 音は受け取られたあと、受け取った人の音になる。


 そうやって、どこまでも続いていく。


 ステージを降りたあと、詠は四人と顔を見合わせた。


 誰からともなく、笑う。


 息は上がっている。


 指も少し痛い。


 でも、胸の中には静かな満ち足りた音が残っていた。


「また弾こう」


 詠が言うと、澪が頷き、琴羽が大きく頷き、天音が当然という顔をして、理央が小さく笑った。


 次の音は、もう始まっている。



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