第七十九音 世界に音が戻る
白い空間が、ほどけていく。
最初に戻ってきたのは、風の音だった。
神響女学院の正門前を抜ける、朝の風。
葉を揺らし、制服の裾をかすかに動かし、頬を撫でていく音。
次に、鳥の声。
遠くの車の音。
商店街のシャッターが上がる音。
校舎の窓がきしむ音。
世界が、音を取り戻していく。
それは一気に鳴り響く勝利のファンファーレではなかった。
小さな音から戻ってきた。
誰かがカーテンを開ける音。
寝ぼけた生徒が階段を降りる足音。
商店街の奥で、やかんが沸く音。
犬が一度だけ吠える声。
何でもない音ばかりだった。
でも、その何でもなさが、詠には眩しかった。
世界はこういう音でできていた。
大きな歌だけではない。
誰かの生活の端で鳴る、小さな音の積み重ね。
ディスコードが救えなかった世界にも、それでも音はあった。
詠はその一つひとつを、初めて聴く音のように受け止めた。
校舎の奥で誰かがくしゃみをする。
昇降口で靴箱の扉が閉まる。
商店街の方から、包丁がまな板を叩く軽い音が届く。
どれも物語の主旋律にはならない。
けれど、その小さな音が消えた世界を、詠たちは知ってしまった。
だから戻ってきた今、何でもない音ほど胸に響いた。
詠は正門前に立っていた。
白い門は消えている。
ディスコードの巨大な気配も、もうない。
ただ、朝があった。
本当にただの朝。
それが、涙が出るほど大切に思えた。
琴羽が泣き出した。
声を抑えようとして、失敗して、結局そのまま泣いた。
天音が空を見上げる。
「戻った」
その声も少し震えていた。
澪が《音幻》の弦を一度だけ弾く。
水色の音が、春の空気に溶ける。
今度は、消えない。
胸に残る。
理央はノートを取り出した。
長い間、同じ問いが書かれていたページを開く。
音楽に意味はあるか。
理央はしばらくその一行を見つめていた。
そして、その下に短く書いた。
ある。
それだけだった。
天音が覗き込む。
「それだけか」
「今は、それでいい」
理央はノートを閉じる。
「後で補足する」
「やっぱり補足するんだな」
琴羽が涙のまま笑った。
その笑い声が、ちゃんと空気を震わせる。
詠は《祝華》を胸に抱いた。
カナミの残響は、まだ少し温かい。
「カナミさん」
風が吹いた。
桜色の花びらが一枚、詠の頬に触れる。
「聴こえてた?」
返事はない。
けれど、花びらが《祝華》の弦の上で光り、すぐに消えた。
詠は泣きながら笑った。
「聴こえてたんだ」
ミヨリが詠の肩へ戻ってくる。
いつもの重さ。
いつもの温度。
それも、今はとても懐かしい。
「終わったの」
詠が聞く。
ミヨリはしばらく神響の空を見ていた。
「ディスコードの否定は、ほどけた」
「消えたわけじゃない?」
「完全に消えるものではない。音を疑う気持ちも、救えなかった痛みも、この世界からなくなりはせん」
ミヨリの声は静かだった。
「じゃが、あれはもう、世界を覆う否定ではない。受け取られた音として、律の中へ戻った」
詠は頷いた。
全部がきれいに解決したわけではない。
音楽が世界のすべてを救うわけでもない。
それでも、今ここに音が戻っている。
その事実だけは、誰にも奪えない。
校舎の方から、生徒たちの声が聞こえ始めた。
夜明け前の異変を覚えている者もいれば、ただ変な夢を見たように首をかしげている者もいる。
商店街の方では、誰かが店先のラジオをつけた。
小さな音楽が流れ出す。
詠たちは同時にそちらを見た。
普通の音楽。
特別な祝音ではない。
世界を救うための歌でもない。
ただ、朝の店先で流れる音楽。
それが、たまらなく嬉しかった。
澪が目を閉じる。
水色の祝音ではない、ただのラジオのメロディ。
それでも澪は、長い曲を聴くように静かに耳を澄ませた。
琴羽は袖で涙を拭きながら、聞こえてくるリズムに小さく指を動かしている。
天音は何も言わず、スティックで自分の肩を一度だけ叩いた。
理央はノートを開きかけて、やめた。
今は記録するより、聴く方が先だと思ったのだろう。
「ねえ」
琴羽が言う。
「帰ったら、練習しよう」
天音が目を丸くする。
「今?」
「今じゃなくても。でも、早めに」
澪が頷く。
「弾きたい」
理央が端末をしまう。
「同意。現在の祝具状態も確認する必要がある」
「理央ちゃん、それだけ?」
琴羽が聞くと、理央は少しだけ目を逸らした。
「弾きたい」
その答えに、五人は笑った。
詠も笑う。
泣いたあとの、少し不格好な笑い方だった。
「うん。弾こう」
五人は正門前から歩き出した。
背後に、白い門はもうない。
四奏卿の残響も、ディスコードの気配も、見えない。
でも、なくなったわけではない。
出会った音は、五人の中に残っている。
沈黙を越えた音。
孤独を開いた音。
感情を受け取った音。
空白に事実を置いた音。
カナミの、音を嫌いにならずに済んだ笑顔。
ディスコードが最後に受け取った、千年前の自分の音。
全部が、五人の歩く足音に混ざっていた。
春の光が、神響の街を照らしている。
世界に音が戻った。
それは終わりではなく、次の一音の始まりだった。
詠は振り返る。
正門の向こうに、もう白い裂け目はない。
けれど、そこに立っていた四奏卿の姿も、カナミの光も、ディスコードの最後の声も、すべて思い出せる。
音は消えたように見えても、誰かの中に残る。
その残った音が、次の一音を呼ぶ。
詠は《祝華》を軽く鳴らした。
普通の朝に、普通ではないほど大切な一音が響いた。
その一音に、誰かが振り返る。
何が起きたのか知らない生徒が、不思議そうに笑う。
商店街の方から、開店準備をする声がする。
世界はすぐに日常へ戻ろうとしていた。
それでいいのだと、詠は思った。
特別な戦いを覚えていなくてもいい。
ただ、今日の朝の音が少しだけ好きになってくれたなら。
それだけで、音は続いていく。
詠はもう一度だけ、正門の方へ頭を下げた。
カナミへ。
ミヨリへ。
四奏卿へ。
そして、最後に音を受け取ったディスコードへ。
ありがとうとは、まだ少し違う。
でも、あなたたちの音もここにある。
そう伝えたかった。
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