第七十五音 否定の奥に残った音
六つの音が重なった。
五色ノ契。
そして、カナミの一音。
ミヨリの鈴は律を開き、六つの音がディスコードへ届く道を作っている。
詠の《祝華》が桜紅と金色に光る。
澪の《音幻》が水色と白銀を帯びる。
琴羽の《花奏鍵》が春桃と淡い白金を重ねる。
天音の《雷陣》が雷金の拍を深く刻む。
理央の《律盤》が紫夜と金紫の譜線を結ぶ。
その中心に、カナミの一弦が鳴っていた。
六つの音が、大否律の亀裂へ向かって収束する。
「五色ノ契」
詠が言う。
「カナミさんと一緒に」
カナミが横目で詠を見る。
「名前をつけるの、好きだな」
「大事だから」
「そう」
カナミは少しだけ笑う。
「なら、遠くまで届けなさい」
詠は頷いた。
六つの音が、白い空間を塗り替える。
攻撃ではある。
でも、破壊だけではない。
ディスコードの奥に残っている音を呼ぶための合奏だった。
大否律の亀裂が広がり、その奥から記憶があふれ出す。
千年前のディスコード。
まだ、音を否定していなかった頃。
その存在は、世界を音で満たそうとしていた。
人々が孤独にならないように。
悲しみに沈んでも、少しだけ息ができるように。
争いの前に、誰かの声を聞けるように。
その願いは、詠たちの想像よりもずっと切実だった。
「救いたかったんだ」
琴羽が呟く。
「世界を」
理央が続ける。
「世界全体を音で変えようとした。だから、変わらなかった現実に耐えられなかった」
記憶の中で、音楽は鳴っていた。
人々は確かに泣き、笑い、手を取り合った。
けれど、争いは終わらなかった。
憎しみは消えなかった。
音楽が届いた人でさえ、別の日には誰かを傷つけた。
ディスコードは、それを見続けた。
何度も。
何度も。
そして、ある日、音を愛していた感情を切り捨てた。
意味がないと決めた。
そうしなければ、壊れてしまうほどに深く愛していたから。
「否定の奥に」
澪が言う。
「まだ残ってる」
天音が低く拍を刻む。
「好きだったって音が」
ディスコードの気配が震える。
「見るな」
「見る」
詠は答えた。
「あなたが切り捨てた音も、なかったことにしない」
「それは弱さだ」
「弱さでもいい」
カナミが言う。
「私は、その弱さに救われた」
ディスコードの白が揺れる。
「救われていない。お前は長く苦しんだ」
「苦しんだ」
「なら」
「でも、最後に笑った」
カナミはまっすぐディスコードを見た。
「あの子たちの音を聞いて、私は笑った」
ディスコードが沈黙する。
「それが何を変えた」
「私を変えた」
カナミの答えは短かった。
「世界全部じゃない。失った過去も戻らない。でも、私が最後に音を嫌いにならずに済んだ」
詠の目が熱くなる。
これが、カナミが笑った理由の一つだった。
すべてが救われたからではない。
過去が戻ったからでもない。
音を嫌いにならずに済んだから。
それは一瞬かもしれない。
けれど、カナミにとっては本物だった。
「ディスコード」
詠は《祝華》を鳴らす。
「あなたも、音を嫌いになりきれてない」
「違う」
「嫌いになれたなら、こんなに否定しなくていい」
理央の譜線がディスコードの記憶を結ぶ。
「否定し続ける行為そのものが、関心の残存を示している」
天音が顔をしかめる。
「理央、今それ難しい」
「つまり」
理央は少しだけ言い直す。
「あなたはまだ、音を気にしている」
琴羽が続ける。
「まだ、受け取れるかもしれない」
澪が弦を鳴らす。
「閉じていても、開ける」
五人の音は、そこで一度だけ細くなった。
ディスコードの記憶が重すぎたからだ。
救いたかったのに救えなかった音。
愛していたからこそ許せなくなった音。
それを見てしまえば、簡単に勝利の歌など鳴らせない。
詠の指も、ほんの少し震えた。
でも、震えたままでも弦は鳴る。
澪が隣で呼吸を合わせ、琴羽が小さく頷き、天音が拍を落とし、理央が譜線を支える。
怖さを消すのではない。
怖いまま、五人で持つ。
その一音を、誰も手放さなかった。
ミヨリの鈴が高く鳴った。
「千年閉じた律でも、完全には死なん」
六つの音が強まる。
大否律の亀裂はさらに広がった。
だが、カナミの体は限界に近づいていた。
光の輪郭が薄くなる。
詠が手を伸ばす。
「カナミさん」
「泣くな」
「無理」
「本当に手がかかる」
カナミは詠の額に指を当てた。
温かい光が、詠の中へ流れ込む。
「あとは任せた」
「まだ」
「まだ戦いの途中だろう」
詠は唇を噛んで頷いた。
「うん」
「なら、泣くのはあと」
カナミの光が、五人の祝具へ流れていく。
《祝華》が強く震える。
《音幻》が応える。
《花奏鍵》が新しい段を開くように光る。
《雷陣》が深く鳴る。
《律盤》の七つ目の譜線が明滅する。
カナミの一音が、五人の中へ戻っていく。
「ありがとう」
詠が言う。
消えかけたカナミの声が、風のように返る。
「泣いてるじゃないか」
「うるさい」
カナミは笑った。
その笑顔を最後に、桜色と紫の光が散る。
正門前に残ったのは、五人と、ミヨリと、カナミの残響。
そして、大きくひび割れたディスコードの大否律だった。
詠は、カナミが消えた場所からしばらく目を離せなかった。
泣くのはあと。
そう言われた。
だから、今は泣き崩れない。
でも、胸の中では確かに泣いていた。
澪が何も言わず、詠の隣に立つ。
琴羽が詠の背中にそっと手を添える。
天音は空をにらむように見上げ、理央は唇を結んで《律盤》を握っている。
誰も急かさなかった。
けれど、全員がわかっていた。
カナミが作った亀裂を、ここで閉じさせるわけにはいかない。
ディスコードの奥には、まだ音が残っている。
それを最後に受け取らせるための戦いが、ここから始まる。
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