第七十音 七つの祝音
桜色と紫の光が、《祝華》の奥からこぼれた。
白い大否律の底で、その光だけが温かかった。
詠は両手で《祝華》を抱え、息を止める。
「カナミさん」
声はまだ弱い。
けれど、今度は白に完全には溶けなかった。
光の中から、かすかな声が返る。
「詠」
詠の胸が震えた。
それは耳で聞こえた声ではない。
弦を通じて、指先から胸へ届く声だった。
「私も、怖かった」
大否律の白が、少しだけ遠のく。
「音が信じられない場所に、ずっといた」
「それでも弾き続けたのは」
「怖くても、弾きたかったから」
「届かなくても、届けたかったから」
詠の目から涙がこぼれた。
「それだけ?」
「それだけ」
カナミの声は、少し笑っていた。
「でも、それが残っていた」
詠は《祝華》を握り直す。
答えはまだない。
世界は変わらないのかもしれない。
音楽はすべてを救えないのかもしれない。
それでも、弾きたかった。
届けたかった。
その小さな火が、詠の中に戻ってくる。
「みんな」
詠は顔を上げた。
「まだ、鳴らせる」
水色の光が揺れた。
澪がゆっくり立ち上がる。
「聞こえた」
「カナミさんの声?」
「声じゃない。でも、聞こえた」
琴羽が涙を拭きながら鍵盤に手を置く。
「怖くても、弾きたかった」
天音がスティックを握り直す。
「それなら、あたしにもわかる」
理央がほどけかけた譜線を拾い直す。
「証明ではない。でも、前提として置ける」
ディスコードの白い気配が圧を増した。
「小さな衝動だ」
「それだけでは世界は変わらない」
詠は頷いた。
「そうかもしれない」
その返答に、ディスコードの気配がわずかに止まる。
「でも、消えなかった」
詠は《祝華》の弦を鳴らす。
今度の音は、意味を奪われても完全には空にならない。
カナミの残響が、その音の芯に残っている。
「カナミさんは、ずっと弾きたかった。その気持ちは消えなかった」
澪が《音幻》を弾く。
「私も、ひとりでも弾きたかった」
琴羽が和音を重ねる。
「私は、包んでほしいって言いたかった」
天音が拍を置く。
「あたしは、怒りを拍にしたかった」
理央が譜線を結ぶ。
「私は、証明できないものを無意味と呼びたくなかった」
五つの音が、白い空間の中で細く重なった。
大否律はまだ強い。
五人だけでは、押し返しきれない。
そのとき、ミヨリが詠の肩から地面へ跳び降りた。
「ここまでじゃな」
「ミヨリ?」
詠が振り向く。
ミヨリは正門の白い地面に立ち、五本の尾を広げた。尾の先に、五線譜のような光が浮かぶ。
いつもの小さな案内役の姿ではない。
神響の律を見守ってきた式神としての気配が、そこにあった。
「ワシも鳴らす」
琴羽が目を丸くする。
「ミヨリの音?」
「言うておらんかったことがある」
ミヨリは五人を見た。
「ワシは音の理を守る式神じゃ。じゃが、守るだけの存在ではない。ワシ自身も、祝音を持っておる」
「どうして今まで」
理央が問う。
ミヨリは苦く笑った。
「おぬしたちの音で十分じゃと思っていた。ワシは導けばよいと。じゃが、今日は違う」
白い空間に、鈴のような音が鳴った。
大否律の中で、確かに鳴った。
深く、古く、千年以上の時間を抱えた音。
ミヨリの祝音だった。
「七つの祝音が重なったとき、世界は新しい音になる」
詠ははっとする。
それは、カナミが残した言葉。
「七つって」
「五人と」
ミヨリが言う。
「カナミと」
詠の《祝華》の奥で、桜色と紫の光が揺れる。
「ワシじゃ」
鈴の音が、五人の音へ重なる。
桜紅、水色、春桃、雷金、紫夜。
カナミの桜紫。
ミヨリの鈴の音。
七つの音が、白い底でつながった。
ディスコードの大否律が、初めて大きく揺れる。
白い空間の奥で、神響の街の輪郭が一瞬だけ戻った。
音楽準備室の窓。
商店街の看板。
川沿いの道。
五人が何度も歩いた場所が、薄い影ではなく、確かな場所として浮かび上がる。
それは七つの祝音が、失われた音の理を少しだけ呼び戻した証だった。
「見えた」
琴羽が息を呑む。
「神響が、戻りかけてる」
「まだ一瞬じゃ」
ミヨリの声は厳しい。
「じゃが、一瞬でも戻った。大否律の中では、それだけで大きい」
天音がスティックを握り直した。
「なら、もう一回だ」
理央が譜線を伸ばす。
「同じ反応を再現する。七つの音の同期を維持」
澪が頷く。
「詠、続けて」
「なぜだ」
白い空間の奥から、ディスコードの声が低く響く。
「意味を奪った」
「奪ったはずだ」
詠は立ち上がった。
膝は震えている。
でも、もう沈んではいなかった。
「奪えない」
「なぜ」
「音の意味は、音だけの中にあるんじゃない」
詠は七つの音の中心で、ディスコードを見上げる。
「鳴らす人の中にある」
澪が続ける。
「受け取る人の中にも」
琴羽が言う。
「一緒に鳴った時間の中にも」
天音が拍を強める。
「消されても、次を鳴らす体の中にも」
理央が譜線を固定する。
「証明できなくても、あった事実の中にも」
ミヨリの鈴が鳴る。
「世界の律の中にもじゃ」
そして、カナミの残響が、詠の指先で温かく震えた。
ディスコードが沈黙する。
大否律の白に、細い亀裂が入った。
七つの祝音は、まだ小さい。
けれど、確かに大否律を揺らしていた。
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