第六十九音 詠、問いの底へ
大否律の底は、白かった。
闇ではない。
沈黙でもない。
ただ、何も意味を持たない白。
詠はその中に膝をついていた。
《祝華》は手の中にある。
金色の新しい弦も、カナミの残響を宿した弦も、確かにそこにある。
けれど、触れても温度が遠い。
さっきまで胸を支えていた四奏卿の残響も、仲間の音も、自分の歌も、全部が白い空間の奥へ薄れていく。
「カナミさん」
詠は何度も呼んだ。
返事はない。
ディスコードの声だけが降ってくる。
「呼んでも変わらない」
詠は顔を上げた。
「カナミは笑った。だが、その笑顔は世界を変えなかった。お前たちが美しい物語にしただけだ」
「違う」
「違うと言うなら答えろ」
白い空間が詠の周囲に集まる。
澪たちの姿が遠ざかる。
詠だけが、問いの中心に置かれていた。
「カナミは、なぜ笑った」
詠は息を吸った。
届いたから。
言いかけて、止まる。
何が届いたのか。
笑ったから救われたのか。
救われたなら、なぜカナミの過去は戻らないのか。
「私たちの音が」
言葉が途中で崩れる。
「私たちの音が、カナミさんに」
「届いた。それで?」
ディスコードは詠の言葉を待たない。
「届いた音が、カナミの千年を消したか。仲間を戻したか。堕ちた事実をなかったことにしたか」
「それは」
「何も変わっていない」
詠の喉が詰まる。
変わった。
そう言いたい。
でも、何が変わったのかを問われると、言葉が形にならない。
カナミは笑った。
それは確かだ。
でも、それだけでいいのか。
一瞬の笑顔を、救いと呼んでいいのか。
「詠!」
遠くで天音の声がした。
「聞くな、飲まれるな!」
声はすぐ白に溶ける。
澪の水色の光が、遠くで揺れる。
琴羽の春桃の和音が、詠を包もうとして消える。
理央の紫夜の譜線が伸びてきて、途中でほどける。
みんながいる。
それなのに、届かない。
「お前は、友達がほしかった」
ディスコードの言葉が、詠の胸に触れた。
詠は肩を震わせる。
「転入生として孤独だった。音を鳴らせば、誰かとつながれると思った」
白い空間に、かつての教室が浮かぶ。
知らない顔。
知らない声。
輪の外に立っている自分。
形見のギターだけが、手の中にあった。
「お前の音は、孤独を埋めるための手段だった」
「違う」
「違わない」
ディスコードは淡々と続ける。
「友達ができた。仲間ができた。だから音に意味があると思った。だが、そのつながりもいつか切れる」
景色が変わる。
澪が遠ざかる。
琴羽が笑っているのに、声が聞こえない。
天音の拍が止まる。
理央の譜線が切れる。
ミヨリの小さな姿が白に沈む。
「切れるなら、最初から幻想だ」
「違う」
詠は《祝華》を抱きしめた。
「違う、はず」
「はず」
ディスコードがその言葉を拾う。
「お前は確信できない」
詠は唇を噛んだ。
確信できない。
大否律は、答えではなく確信を奪っていく。
怖いままでも前に出る。
そう決めたはずだった。
でも、怖いまま進む理由が白く薄れていく。
音を諦めない。
何度も言った言葉が、今は遠い。
「カナミさんは」
詠はそれでも言葉を探した。
「カナミさんは、笑った」
「それだけか」
「それだけじゃ」
続きが出ない。
それだけじゃない。
でも、何なのか。
詠は答えられない。
「それが、お前の限界だ」
白い空間が狭くなる。
「音を信じたい。だが、世界に対する答えを持たない。だから、お前の音はここで終わる」
《祝華》の弦が沈黙する。
詠の指から力が抜けかけた。
その瞬間、かすかな温かさが手のひらに触れた。
ほんの少し。
消えそうなほど小さい。
けれど、たしかにある。
《祝華》の奥。
カナミの残響が、白の底で震えていた。
詠は息を止めた。
「カナミさん?」
返事はない。
でも、温かさが広がる。
手のひらから、腕へ。
腕から、胸へ。
そして、耳ではない場所に、声のようなものが届いた。
怖かった。
それは、カナミの声に似ていた。
音を信じられない場所で、ずっと怖かった。
詠の目に涙が浮かぶ。
「やっぱり、怖かったんだ」
温かさは消えない。
届かなくても、弾きたかった。
救えなくても、届けたかった。
それだけだった。
詠は《祝華》を握り直した。
それだけ。
ディスコードなら、きっと否定する。
それだけでは世界は変わらないと言う。
でも、白い底で届いたカナミの残響は、詠にとって小さな火だった。
「みんな」
詠は顔を上げた。
まだ答えは出ていない。
カナミがなぜ笑ったのか。
世界を変えない音に、なぜ意味があるのか。
言葉にはできていない。
それでも、完全には沈まなかった。
「まだ、終わってない」
詠の声は小さい。
大否律の白にすぐ飲まれそうな声。
けれど、その声に反応して、遠くで水色が揺れた。
春桃の光が瞬いた。
雷金の拍が一度だけ床を打った。
紫夜の譜線が、白を細く裂いた。
ミヨリの声が聞こえた。
「詠、呼び続けるのじゃ」
「何を」
「カナミを」
詠は《祝華》を胸に抱えた。
「カナミさん」
白い底へ向かって呼ぶ。
「カナミさん」
もう一度。
「一緒に、弾いて」
その瞬間、《祝華》の奥から桜色と紫の光がこぼれた。
ディスコードの白が、初めてわずかに押し返される。
詠はその光を見つめた。
答えはまだない。
でも、音はまだ消えていない。
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