第七音 守りたいという音
虚音が、こちらへ向かってくる。
それは、風の形をしていた。
黒い木の葉のようなノイズが渦を巻き、鍵盤の音をばらばらに散らしていく。
吹き抜けるたびに、さっきまで琴羽が弾いていた旋律が違う音へねじ曲がった。
やさしい和音が、耳障りな不協和音に変わる。
「……っ」
琴羽の肩が跳ねた。
発表会で間違えたときの記憶が、一瞬で蘇る。
押したはずの鍵盤。
出なかった音。
客席のざわめき。
笑われたわけではない。
でも、笑われたような気がした。
虚音の風は、その記憶まで巻き上げてくる。
琴羽は動けなかった。
怖い。でも逃げる足が動かない。
脳の中で、ただ「守らなきゃ」という言葉だけが鳴っていた。
守る? 何を?
視線が、鍵盤に落ちた。
この音を。
ここで弾いていたこの音を。
誰かに奪わせたくない。
「……守りたい」
声が出た。
指が、鍵盤に触れた。
ふわり、と風が巻き起こった。
琴羽は驚いた。自分でも驚いた。
ただ弾いただけなのに、音が風になって、虚音の動きを止めた。
でも、止めたのは一瞬だけだった。
黒い風が、琴羽の音を横からさらう。
和音がばらけ、花びらのような光が散っていく。
「やっぱり……私の音じゃ、弱い……」
胸の奥に、いつもの言葉が落ちてくる。
ふんわりしてるね。
やさしいね。
癒されるね。
褒め言葉のはずなのに、そこにはいつも少しだけ痛みがあった。
前に出なくていい音。
誰かを支えるだけの音。
本当に、それだけでいいのだろうか。
「ッ……!」
そのとき、校舎の方から走ってくる足音が聞こえた。
「逃げて!」
叫んだのは、赤茶の髪をサイドアップにした女の子だった。
後ろには、黒い長髪の女の子もいる。
でも、琴羽は逃げなかった。
もう一度、弾きたかった。
さっきの感覚を——音が自分の「守りたい」という気持ちと重なった、あの感覚を、もう一度。
指が鍵盤を叩く。
今度は一音だけじゃない。
フレーズが生まれて、和音が重なって、風が舞い上がる。
「澪、合わせるよ!」
詠の声。
「了解」
澪の声。
詠の炎が前を照らし、澪の旋律が虚音を断ち切る。
けれど、黒い風はふたりの音の隙間を縫って入り込んだ。
詠の斬撃が逸れる。
澪の波紋が歪む。
「音が、流される……!」
琴羽はそこで、ようやく気づいた。
この虚音は、強い音を正面から受け止めない。
横から崩し、散らし、届く前にばらばらにする。
なら。
受け止める音が必要だった。
散った音を、もう一度包み直す音が。
「私が……包む」
琴羽は鍵盤を抱えるように腕を広げた。
逃げない。
後ろに下がらない。
やさしいだけじゃない。
守るために、前へ出る。
そして——琴羽の鍵盤が光に包まれた。
旋律が拡張する。
一音が、三音になる。
風が巻き、桜の花びらが舞った。
三人の音が、重なった。
琴羽の和音が、散りかけた詠の音を受け止める。
澪の旋律が、その中に静かな芯を通す。
黒い風はもう、三人の音をばらばらにできなかった。
むしろ、琴羽の春風に巻き込まれ、花びらの渦へ変わっていく。
ミヨリの声が空から響く。
「三つ目の音、共鳴せしは風の鍵盤! 三音の契、ここに結ばれたり!」
風の虚音は、花吹雪のなかで溶けるように消えていった。
※ ※ ※
静けさが戻ってきた。
琴羽は鍵盤から手を離して、ふたりを見た。
「……ごめん、助けるつもりじゃなくて……でも、音が動いたから」
「ううん、ありがとう。わたし、花咲詠。あなたは……?」
「……千歳琴羽。中等部三年生」
詠が目を丸くした。
「えっ、中等部三年生!? てことは、わたしより……澪ちゃんよりも……」
「ふふ、見えないってよく言われます。でも、年は関係ありませんよね?」
澪も、小さくうなずく。
「年じゃない。音が……つながった」
それから澪が、いつものように静かに、でもまっすぐに言った。
「あなたの音。怖がってたのに、それでも出した」
琴羽は少し驚いた。
「……わかった?」
「音に出てた。でも最後は、ちゃんと鳴った」
琴羽の目が、じわりと滲んだ。
怖かったのは本当だ。
発表会で失敗してから、音が怖くなった。人に聴かせることが怖くなった。
でも今日——誰かに届けたくて、音を出した。
守りたくて、音を出した。
「……また、弾いていいですか。あなたたちと」
詠が笑った。
「当たり前じゃん! むしろ来てほしかった、ずっと待ってたよ、三人目の音!」
ミヨリが枝の上で得意げに言った。
「ふぉっふぉ、風の鍵盤は柔らかく、されど芯がある。なかなかよい音じゃったぞ、琴羽」
「……ミヨリ、って言うんですね」
「うむ! よろしく頼むぞい、琴羽!」
夕風が三人の髪を揺らした。
桜の花びらが舞う、その中で。
詠と澪と琴羽が、並んで立っていた。
詠は思った。
三人になると、こんなに空気が変わるんだ。
ひとりより、ふたりより、もっと音が広くなる感じがする。
「ねえ、ふたりに聞きたいんだけど」
詠が言った。
「なに?」と澪。「はい?」と琴羽。
「四人目、どこにいると思う?」
「……わからない」
「遠くない気がします。でも、強そう」
「強そう?」
「音が、どこかから響いてくる気がして。やさしい音じゃなくて……もっと、力強いやつ」
詠は耳を澄ませた。
風の中に、まだ何かある。
遠くて、でも確かな、音の気配。
次の仲間が、もうそこまで来ている気がした。
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