第六音 春風のすれ違いとことのは堂の娘
澪ちゃんとの出会いから、ほんの少し日が経った。
まだぎこちないけど、確かに——仲間になれた気がしていた。
ミヨリが言っていた。祝音少女は五人いる、と。
澪ちゃんが仲間になって、残るはあと三人。
だったら探さなきゃ。会いたい。もっと、この音を誰かと一緒に鳴らしたい。
……そんな気持ちが、胸の奥にぽっ、と灯っていた。
春の朝。
詠はいつものようにスケートで神響女学院の坂を駆けあがっていた。
スカートの裾を風が巻き上げ、髪がふわりと揺れる。
けれど——耳に届いたのは、違う『音』だった。
風にまぎれた、やわらかな旋律。
鍵盤からこぼれ落ちたような、淡く、やさしい響き。
「……また、聞こえた」
詠は滑走のスピードを落とし、音の気配を探るように校舎の方へ目を向けた。
中等部校舎の渡り廊下。
窓辺に立つ少女の姿が、一瞬だけ目に入る。
風にゆれる栗色の髪と、桃色のリボン。
やわらかな雰囲気をまといながらも、少女はこちらに気づくことなく、すぐに姿を消した。
旋律の残響だけが、詠の胸に残った。
※ ※ ※
「うちの姉ちゃんさ、昨日、中等部の裏庭でなんか演奏してたらしいのよ」
休み時間、詠のクラス。
隣の席の女子が、何気ない口調で話している。
「誰もいないって思って弾いてたら、急に風が吹いて木の葉が舞ったとか。まじ謎じゃない?」
詠の耳がぴくりと動いた。
演奏。風。裏庭。
今朝の旋律と重なる。
(やっぱり……あの音の子、だ)
胸元の祝華のストラップに、そっと手を添える。
(今日こそ、ちゃんと会えるかもしれない)
※ ※ ※
「……ねえ、澪ちゃん」
昼休み。詠は澪の教室の前まで来ていた。
「聞いてくれる? 今朝、また鍵盤の音がして——」
「聞いた」
澪は廊下に出ながら言った。
「え、聞いてたの?」
「中等部の裏庭で音がするって、昨日から気になってた」
「じゃあ一緒に探しに行ける?」
「行く」
澪は既に歩き出していた。
詠は慌ててスケートを抱えて後を追う。
こういうとき、澪は本当に早い。迷わない。気配を感じたらもう動いている。
(澪ちゃんって、わたしより鋭いのかも)
ミヨリが廊下の光の中からふいに姿を現した。
「風の鍵盤、感じたか?」
「うん。……音が、呼んでた」
「ならば、行くがよい。音は待たぬ。おぬしが動けば、それが合奏の始まりとなろう」
ミヨリはそう言い残すと、再び光に溶けるように消えた。
※ ※ ※
中等部棟を抜けて、裏庭への細い道を歩く。
「……どんな子だと思う?」
詠が聞くと、澪は少し考えてから答えた。
「音が、やさしかった。でも、怖がってた」
「音が怖がってた?」
「弾くのを、ためらってた。でも弾きたい気持ちが滲み出てた。……そういう音だった」
詠はそれを聞いて、少し胸が痛んだ。
自分は音が好きだから、弾くことに迷ったことがない。
でも、弾きたいのに弾けない事情がある子がいるとしたら——
「早く会いたいな」
「うん」
澪が珍しく、すぐに同意した。
※ ※ ※
千歳琴羽には、音にまつわる、少し複雑な記憶がある。
郊外の古民家で生まれ育った。
父はベーカリーの職人で、母はスイーツと軽食を担当する。「ことのは堂」という小さなパンカフェで、朝早くから夜まで、ふたりで切り盛りしている。
五人きょうだいの三番目。
上にふたり、下にふたり。いつも家は誰かの声でにぎやかだった。
音楽は、そんな家の「当たり前」だった。
父はパンを焼きながら鼻歌をうたい、母は接客のあいまに古いラジオをかけていた。きょうだいたちはそれぞれ好きな歌を歌い、琴羽はいつも耳を澄ませていた。
鍵盤が得意だったのは、気がついたら、だった。
小学校の音楽室でこっそり弾いていたら、先生に「才能がある」と言われた。
親に言うと「習いたいなら習わせてあげる」と言ってくれた。
でも、ある日。
発表会で、失敗した。
それだけのことだ。誰にでも起きる、よくあること。
でも琴羽にとっては——自分の音が、人を失望させるかもしれないという恐怖に変わった。
練習していても、うまく弾けないと「また失敗するかもしれない」と思う。
うまく弾けても、「本番ではどうせ崩れる」と思う。
そのうち、人前で弾くことができなくなった。
誰もいない場所なら、弾ける。
でも、誰かに聴かせることが怖い。
だから最近は、学院の裏庭にこっそり来て、ひとりで練習していた。
誰も来ない時間帯を選んで。
でも、本当は——聴いてほしかった。
聴いてもらって、それでも「いい音だ」と言ってもらえたら、どんなにいいか。
その朝も、琴羽は裏庭のベンチに簡易型の鍵盤を置いていた。
鍵盤に指を乗せる。
音を出すかどうか、迷っている。
そのときだった。
木立の奥から、黒い影が這い出してきた。
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