第五音 静かなる演奏とふたりの音
放課後。
詠はひとり、音の記憶を頼りに中等部棟へ向かった。
初等部の廊下とは空気が少し違う。
掲示物の位置も、すれ違う生徒の背の高さも、聞こえる会話の速さも違っていた。
少しだけ、場違いな気がする。
でも、あの音をもう一度聴きたかった。
音楽室の前で足を止める。
扉の向こうから、ギターの音が漏れていた。
授業の練習音ではない。
誰かに聴かせるための音でもない。
もっと個人的な、自分の中だけに向けているような音。
詠はノックしようとして、できなかった。
この音の中に、土足で踏み込んでいい気がしなかったから。
だから、ただ聴いた。
深海の底みたいな音だった。
暗いのに澄んでいて、冷たいのに温かくて、孤独なのに、どこかで誰かを探しているような。
《櫻音》が、背中で静かに震える。
音が、共鳴している。
少女の名も、声もまだ知らない。
でも、その音が本物だということだけは、詠にはわかった。
※ ※ ※
そのとき、澪は気づいていた。
扉の外に、誰かいる。
でも演奏をやめなかった。
聴いているなら、聴かせてやればいい。
どうせ意味はわからない。
そう思った。
――でも。
扉の外の気配は、静かだった。
立ち去らなかった。
割り込んでこなかった。
ただ、聴いていた。
澪の指が、少しだけ迷った。
(なんで……)
いつもなら、人の気配を感じた瞬間に音を止める。
聴かれることが、嫌いだった。
でも今日は、止められなかった。
その気配が、音を邪魔していなかったから。
むしろ、音の一部になっているようだったから。
最後のフレーズを弾き終えて、澪はギターを膝に置いた。
「……入っていいよ」
扉の向こうに、声をかけた。
※ ※ ※
翌日の放課後も、詠は音楽室の前へ足を運んでいた。
あの音が、忘れられなかった。
そっと扉を開けると、少女はそこにいた。
今日は演奏を止めている。
ギターを膝に置いたまま、静かにこちらを見ていた。
澄んだ藍の瞳。
表情はほとんど動かない。
でも、その視線は逃げなかった。
「……ここ、中等部なんだけど。あなた、初等部でしょ?」
声は低く、静かで、よく通った。
詠は一瞬たじろぎながらも、勇気を出して答えた。
「う、うん……そうなんだけど……でも、すごく綺麗な音だったから」
少女は小さく瞬きをしたあと、視線をギターに戻した。
「それは、音に触れていい理由になるの?」
「……わかんない」
自分でも、驚くくらい正直な言葉だった。
「でも、聴きたかったの。心が勝手に動いたんだよ」
その返事に、少女の手がほんのわずか震えた。
「……変な人」
「うん、自分でも思う。でも、あなたの音も変だったよ。変っていうか、なんか……すごく悲しいのに綺麗で」
少女がギターを抱き直した。
指を弦へと添える。
「紫月澪」
「え?」
「名前。あなたが名乗らないなら、先に名乗る」
「……花咲詠!」
ふたりの間に、一瞬だけ風が通り抜けた。
沈黙のあとに鳴ったのは、澪の爪弾く静かなフレーズだった。
詠は、それを言葉のかわりとして受け取った。
それが、ふたりのはじめての会話だった。
夕陽が音楽室のガラス窓を照らし、澪の影が床に長く伸びている。
詠は静かに頭を下げ、ドアの外へ足を向けた。
けれど、ドアノブに手をかけたとき、背後から声が響いた。
「また、来てもいいよ」
振り返ると、澪はギターを抱えたまま、視線だけをこちらに向けていた。
「その……別に話したいとかじゃなくて。音、邪魔しないなら」
「……うん、邪魔しない!」
詠の顔がぱっと明るくなる。
音の中にだけ許された、ふたりだけの静かな約束。
この日を境に、詠は放課後、よく音楽室に立ち寄るようになった。
まだ会話は少ない。
でも、そこには確かに、音の友情が芽生えはじめていた。
※ ※ ※
その夜。
澪は団地の自室に戻り、ベッドに仰向けになっていた。
天井を見ている。
隣の部屋から、テレビの音が聞こえる。
母が帰宅している。
父の声は聞こえない。まだ帰っていないのか、もう寝たのか。
(変な子だった)
詠のことを考えていた。
音に触れていい理由になるの、と聞いたとき、詠は「わかんない」と答えた。
澪の予想では、「綺麗だったから」とか「好きだから」という答えが返ってくるはずだった。
でも、詠は言った。
心が勝手に動いたんだよ、と。
それが、引っかかっていた。
澪にとって、音は「勝手に動く」ものではなかった。
慎重に扱い、誰にも聴かせず、一人で完結させるもの。
でも昨日、扉の外の詠の気配を感じたとき、自分の音が少しだけ変わった気がした。
誰かに聴かれているのに、止められなかった。
(なんでだろう)
答えは出なかった。
ギターケースを見る。
父の家から持ち出してきた、あのギター。
広い屋敷に置いてきたものはたくさんある。
グランドピアノも。
友達も。
あの頃の自分も。
でも、これだけは手放せなかった。
「……まだ、弾いていいのかな」
誰に言うでもなく、呟いた。
返事はない。
けれど、ギターケースのファスナーが、街灯の光を受けてかすかに光った気がした。
※ ※ ※
数日後の夕刻。
澪はひとり、音楽室にいた。
詠はその日、少し遅れると連絡をしてきていた。
だから澪はいつも通り、静かにギターを弾いていた。
そのときだった。
音が、途切れた。
いや、世界から消えた。
校舎の外の風の音も、遠くの話し声も、すべてが消える。
空気の振動が、止まる。
「……虚音」
澪は立ち上がった。
黒い波紋が、窓の外から音楽室の床を這ってくる。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
そして、よっつ。
どれも同じ形ではなかった。
ひとつは譜面台の影に張り付き、黒い五線譜のように床を走っている。
ひとつは窓ガラスに映り、外へ逃げる道を塞いでいる。
ひとつは天井から垂れ下がり、音を吸う膜のように震えている。
最後のひとつは、澪のギターケースの近くでうずくまっていた。
まるで、部屋そのものを閉じ込めようとしているみたいだった。
澪の顔が強張った。
一人で抑えきれる数ではない。
でも、逃げるわけにはいかなかった。
この場所を。
詠が「また来ていい」と言ってくれた、この音楽室を。
汚させたくなかった。
ギターを構え、弦に指を添える。
手の中のギターが、藍色に光った。
ディープネイビーのボディに、金色の星と三日月の紋様が浮かび上がる。
夜空を閉じ込めたような光。
名前が、胸の奥に落ちてくる。
《音幻》。
低く、鋭く、深海の底から引き上げるような一音を放った。
「――奏・静波律」
音の波が虚音の動きを抑える。
けれど、四つ相手には時間が稼げるだけだった。
空間が不協和音で満たされ、窓が軋み始める。
天井の虚音が震えた。
澪の出した音が、途中で吸い込まれる。
低音が薄くなり、波紋の輪郭が崩れた。
(音を、閉じ込めてる)
澪はすぐに理解した。
これは、ただ襲ってくる虚音ではない。
音楽室を箱にして、音を外へ出さないようにしている。
誰にも聴かせない音。
誰にも届かない音。
自分がずっと選んできたものと、よく似ていた。
(一人では、足りない)
そのとき――
「澪ッ!!」
扉が開いた。
詠が飛び込んでくる。
胸の前で《櫻音》が光っていた。
「間に合った……!」
詠はギターのネックを握る。
「奏装、起動――祝・華!」
桜色の光が音楽室を満たした。
紅白の装束。
満開の桜紋様が刻まれたギター。
詠は《祝華》を構え、勢いよく空間に音を解き放つ。
桜の旋律が前へ出る。
澪の音がそれを支える。
バラバラだったふたりの音が、一瞬で絡み合った。
合わせたわけではない。
でも、自然に重なった。
床を這う虚音が、桜の音に引かれて顔を上げる。
窓を塞いでいた影が、藍の波紋に押し戻される。
けれど、天井の膜だけはまだ残っていた。
詠の音が、そこで止まる。
澪の音も、そこから先へ届かない。
「上……!」
「見えてる」
(この音……)
澪は驚いた。
誰かの音と重なったとき、自分の音がこんなふうに広がるとは知らなかった。
深海が、桜色に染まるような感覚。
「澪、もう一回!」
詠の声が飛ぶ。
澪は小さく頷いた。
もう一度、弦に指を置く。
今度は、ひとりで閉じるための音ではない。
詠の桜色の旋律に、深い藍の音を重ねる。
「閉じない」
澪は小さく言った。
「この音は、外へ出す」
藍の波紋が床から壁へ、壁から天井へ走る。
詠の桜色の旋律が、その波紋を追いかけるように伸びていく。
ふたりの音が、天井の膜を内側から押し広げた。
びしり、と黒い五線譜に亀裂が入る。
ふたりの音が虚音を包み、絡め取り、霧散させた。
音楽室に、静寂が戻る。
※ ※ ※
ふたりは並んで壁に背を預け、しばらく黙っていた。
「……助かった」
澪が、ぽつりと呟く。
その声は、これまでよりも少しだけ柔らかかった。
「わたしこそ。間に合ってよかった」
詠が笑いながら返す。
そこへ、音の粒がきらめくように、ミヨリが宙から現れた。
「ふたりとも、見事な連携だったのう」
「ミヨリ……」
「澪よ。おぬしも感じたはずじゃ。自らの音が、選ばれしものとして目覚めたことを」
澪は目を伏せ、指でギターの弦を軽く弾いた。
「……あの音は、拒めなかった」
「なぜじゃ?」
澪は少し間を置いた。
「……この場所を、守りたかったから」
ミヨリが、静かにうなずいた。
「それが、祝具との音の契じゃ。詠と同じく、おぬしもすでに祝音少女である」
光がゆるやかにふたりを包む。
心と心が、音を媒介にしてふわりと繋がる感覚。
「……変な感じ。でも、ちょっとうれしいかも」
「……私も、たぶん」
澪は自分の口から出た言葉に、少し驚いた。
「うれしい」なんて、いつ以来言っただろう。
屋敷がなくなって。
ピアノがなくなって。
ひとりで音を出すことにしてから、そんな言葉は必要なかった。
でも今、確かにそう思っていた。
詠が隣にいる。
それが、うれしかった。
※ ※ ※
その夜、団地の一室。
澪はギターケースを膝に乗せて、目を閉じていた。
(私には、必要ないって思ってた。誰かと関わることも、音を分かち合うことも)
(でも……)
音楽室の中で、詠と重ねたあの一瞬の音。
桜の旋律と、深海の低音が重なりあったあの響きが、ずっと胸に残っていた。
隣の部屋からテレビの音が聞こえる。
母の笑い声。
父の相槌。
今夜は、家族がそろっている。
(……あんな音が出るなら、もう少し……一緒にいても、いいのかもしれない)
澪の唇が、ほんのすこしだけ笑みに近づいた。
ギターケースのファスナーに触れる。
そっと、開けた。
弦を一本だけ、指先で弾く。
低い音が、団地の部屋に静かに広がった。
壁の向こうには生活音。
でも、その中にこの音もある。
澪は初めて、それを悪くないと思った。
少しでも続きが気になったら、ブックマーク・評価・いいねで応援していただけると励みになります。




