第四音 深海の底で、はじまる旋律
紫月澪には、ピアノの記憶がある。
広い屋敷の応接間に、黒いグランドピアノがあった。
父が趣味で弾いていたものだ。
澪は小さい頃からその音を聴いて育ち、いつの間にか、自分でも鍵盤に触れるようになっていた。
音は、家の中にあった。
高い天井に響くピアノ。
磨かれた床に落ちる午後の光。
母が淹れる紅茶の音。
父が笑う声。
その頃の澪は、音がなくなるなんて思っていなかった。
でも、父の会社が倒産した。
屋敷はなくなった。
家具もなくなった。
グランドピアノも、もちろん。
新しく住んだのは、団地の一室だった。
薄い壁の向こうから、隣の生活音が聞こえる。
廊下には他の住人の靴が並び、階段では誰かの足音がよく響いた。
父は再就職先を探している。
まだ、見つかっていない。
母は黙って働いた。
澪も、黙っていた。
「もういい」
そう思ったのは、いつだっただろう。
誰かに話しかけることも。
誰かと音を合わせることも。
自分の音が誰かの役に立つと信じることも。
全部、少しずつ遠くなっていった。
それでも、ギターだけは手放さなかった。
屋敷にあった父のギターを、荷物に紛れ込ませて持ち出した。
持ち出すなと言われていた。
それでも持ち出した。
後悔はしていない。
ひとりで弾く分には、誰も傷つけない。
誰も失望させない。
誰にも期待されない。
だから澪は、ひとりで弾いていた。
神響女学院の、放課後の音楽室で。
誰も来ない時間に。
誰にも届けるつもりのない音を。
※ ※ ※
昨日。
校舎裏から、桜色の音が聞こえた。
まっすぐで。
怖いくせに、踏み込んでいく音だった。
澪は窓辺で、その音を聴いていた。
自分の音とは違う。
静かでもない。
整ってもいない。
なのに、耳に残った。
弾こうとした旋律が、指の中でほどけていく。
いつもなら簡単に戻れるはずの深海へ、戻れない。
「……変な音」
そう呟いて、澪はギターケースを閉じた。
けれど、その夜。
団地の自室で目を閉じても、桜色の音は消えなかった。
誰にも届けるつもりのなかった自分の音が、ほんの少しだけ揺れた気がした。
澪はその理由を、まだ知らなかった。
※ ※ ※
転入二日目の朝。
詠はインラインスケートで神響女学院の坂を駆けあがりながら、胸の奥に微かに響く音の気配を感じていた。
昨日、音が消えた。
黒い影が現れた。
祖母の形見のギター《櫻音》が光り、《祝華》になった。
そして、ミヨリは言った。
――おぬしのほかに、あと四人おる。
(四人……)
まだ名前も知らない。
顔も知らない。
でも、この学院のどこかにいる。
そう思うと、転入二日目の朝は、昨日とは少し違って見えた。
桜並木を抜ける風。
校舎の窓から漏れる練習音。
誰かの笑い声。
遠くで鳴るチャイム。
全部の音が、誰かへ続いている気がした。
(友達……じゃなくて、仲間? いや、まず友達からだよね)
自分で考えて、少し照れた。
その日、神響女学院ではいつもより少しだけ風が強かった。
音の通りが違っている。
ふと見上げた中等部棟の渡り廊下。
そこに、黒髪の少女が立っていた。
窓辺。
動かない影。
深い藍色の目。
一瞬だけ、詠と視線が交差する。
けれど少女は、すぐに視線を外した。
(あの子……)
胸で聴くような、無音の旋律。
昨日、廊下の向こうから聞こえた深いギターの音。
それと同じ気配がした。
詠が足を止めていると、校舎の裏手で風が巻き起こり、木の葉が舞った。
「わっ」
スケートの止まり際、通りすがりの生徒と少しだけ肩がぶつかった。
「ご、ごめん!」
「……気にするな」
低く、凛とした声。
詠が顔を上げたときには、その子はもう通り過ぎていた。
ポニーテールが揺れている。
足取りが速い。
まるで、体の奥に太鼓を持っているみたいだった。
(……雷、みたい)
名前も知らない。
でも、確かに音をまとっている。
詠はギターケースのストラップを胸元で握りしめた。
(きっと、この学院にいる)
まだ見ぬ四人の音は、もう神響の中に鳴っている。
※ ※ ※
昼休み。
初等部校舎の中庭では、友達同士の声が飛び交い、春の陽射しがベンチに踊っていた。
詠は弁当箱を膝に乗せたまま、ふと顔を上げた。
ピリッ、と空気が震えた。
風が止まる。
遠くの校舎の屋上あたりに、うっすらと黒い揺らぎが見えた気がした。
(昨日の……?)
胸が冷える。
けれど次の瞬間――
ザァァン……!
重く、鋭く、突き刺さるような音の一閃が鳴った。
黒い揺らぎが、ほどけるように消えていく。
詠は息を呑んだ。
(私じゃない)
《櫻音》は反応していない。
自分の祝音ではない。
別の誰かの音が、あの黒い揺らぎを祓った。
答えは、昼休みが終わる直前に聞こえてきた。
廊下の開け放たれた窓から、低く、静かなギターの音が流れ込んでくる。
深海みたいな音色。
暗いのに澄んでいて、冷たいのに、どこか温かい。
昨日の音だ。
詠は、はっと顔を上げた。
(見つけた)
音の方向へ走り出したくなる。
でも授業開始のチャイムが鳴って、足が止まった。
放課後。
絶対に、あの音を探しに行こう。
そう決めたとき、胸の奥で《櫻音》が、ほんの少しだけ温かくなった。
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