第三音 夜の部屋とぬいぐるみ疑惑
夜。家に帰った詠は、夕食を済ませて部屋に戻ってきていた。
祖母が用意してくれた煮物の香りが、まだ鼻に残っている。
ギターケースをいつもの位置に立てかけ、制服を脱いでルームウェアに着替える。
(……今日の、あれは……夢じゃないよね)
ベッドの上で考え込んでいると、突然――
「ふむ、なるほど。こうして見ると、やはり布団というものは文化的であるな」
「……はあぁあああっ!?」
振り返ると、机の上に例のぬいぐるみ――ミヨリが、腕組みしながら座っていた。
「な、なんでついてきてんの!?!? 校舎にいたじゃん!」
「おぬしの祝具が覚醒した以上、ワシも共に行動するのは道理。心配無用、姿は人には見えぬ」
「いやそういう問題じゃなくて! 勝手に家入ってくるとか、ぬいぐるみが勝手に喋るとか、そういうのが問題なの!」
「ふむ、確かに勝手に押しかけたのは事実。だが、音の契約とはすなわち縁……」
「説明は明日でいいから寝かせてよ! ていうかその場所、私のスマホ充電スペースなんだけど!」
「うむ。ではその隣に移動するのじゃ」
「かわいい!……じゃなかった、なにこのノリ!」
――賑やかな夜が始まった。
詠の部屋には、確かに一人ぶん以上の音が満ちていた。
※ ※ ※
ひとしきり騒いだあと、ミヨリは詠の膝にちょこんと座り直すと、小さく咳払いをした。
「さて、詠よ。今夜こそ本格的に話すのじゃ」
その声は、さっきまでのコミカルな調子とは少しだけ違った。
静かで、どこか古いもののような、重みのある声。
詠もそれを感じ取ったのか、自然と姿勢を正した。
「……聞く」
「この世界には、虚音と呼ばれる負の旋律が存在する」
ミヨリは静かに続ける。
「心の歪みや絶望、誰かにぶつけられない怒りや悲しみが音となって形を取り、現実を侵食するもの。今日おぬしが戦った黒い影の正体じゃ」
「じゃあ、わたしが持ってる……あの力は、その反対?」
「うむ。祝音とは、音に祝福を宿す者の力。正しき旋律で虚音を祓い、人々の想いを調和へ導く。祝具を媒介として、選ばれた者――祝巫女のみが奏でられる音じゃ」
「……わたしが、その祝巫女?」
「すでに選ばれておる」
詠は《櫻音》のネックをそっと撫でた。
さっきは《祝華》として戦っていたギター。
でも今は、ずっと一緒にいた《櫻音》に戻っている。
祖母が「さくらね」と呼んでいた、あの温かいギター。
(どうして覚醒したんだろう。どうして私が)
「……ひとつだけ聞いていい?」
「なんじゃ」
「この街で、祖母は何か知ってたのかな。このギターのこと」
ミヨリはしばらく黙っていた。
「……わからん。ワシにも、すべては見えておらん」
正直な答えだった。
詠は少し意外に思いながら、でも、それ以上は聞かなかった。
今は、まだ聞かなくていい気がした。
「それで」
ミヨリが続ける。
「もうひとつ、大事なことがある」
ミヨリはくるりと宙に跳ね、詠の目の前でくるくる回る。
「おぬしのほかに、あと四人おる」
「四人?」
「うむ。五つの音がそろって初めて、本当の祝音になる。祝音少女《五色ノ契》とは、そういうものじゃ」
「……五人」
「うむ。おぬしはそのひとり目じゃ」
五人で音を鳴らす。
まだ名前も知らない、まだ顔も知らない。
だけど、もうどこかで響き合っているような気がした。
「……ちゃんと、仲間になれるかな」
つぶやいた言葉は、「友達ができるかな」とほとんど同じ意味だった。
ミヨリがふさふさの耳をぱたぱたと揺らした。
「さあ、それはおぬし次第じゃ。ワシにも、保証はできん」
「正直すぎない?」
「うむ」
「……なんか、それの方が信用できる気がする」
詠はそっと《櫻音》を膝に乗せて、弦を一本だけ弾いた。
音は出ない。でも、温かかった。
(会いに行こう。四人、どこかにいるんだから)
「……なんだか、少しワクワクするかも」
ミヨリがふさふさの耳をぱたぱたと揺らし、満足げに微笑んだ。
「それでこそ、祝音少女の器よ」
こうして詠の静かな夜は、音と秘密に満ちたものへと変わった。
窓の外では、夜桜がひっそりと揺れていた。
まるで、これから始まる物語の幕を開けるように。
※ ※ ※
その夜、詠はもう一度だけ《祝華》のケースに触れた。
ぬいぐるみがしゃべったことも、音を喰らう黒いもののことも、まだ全部を受け止めきれてはいない。けれど、胸の奥には小さな熱が残っていた。
怖かった。
それでも、逃げたいだけではなかった。
放課後の校舎裏で、自分の音が誰かを守った。その事実だけが、眠れない夜の中でかすかに光っている。
「……明日、ちゃんと聞こう」
ミヨリの言葉も、祝音少女という名前も、まだわからないことばかりだ。
でも、神響で始まったこの音から、もう目を逸らすことはできなかった。
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