第二音 放課後と黒き音
ざっ……
校舎の裏手。倉庫と体育館のあいだの路地に、黒い影が揺れていた。
輪郭があいまいで、ノイズのようにチカチカと瞬く。
人のようで、人ではない。
音が消えた空間の中で、それだけが異質な密度を持って存在していた。
(あれが……)
言葉が、なぜか自然と浮かんだ。
まるで最初から知っていたように。
――虚音。
背中の《櫻音》が、びり、と震えた。
ケースのロックがひとりでに外れ、ほんのわずかに光が漏れ始める。
「……なんで。でも、わかる。これが……」
怖い。
でも、足が動いた。
ケースからギターを引き出す。
ネックに手が触れた瞬間――
温かかった。
熱いくらいに、温かかった。
祖母の手の温度が、まだそこに残っているようだった。
次の瞬間。
制服が変わった。
紅白の装束。袖口と裾を走る桜の刺繍。ギターのボディに、満開の桜紋様が刻まれていく。
背中に翻るのは、朱と白の長い帯。まるで、神楽舞の衣のように。
「――奏装、起動……祝・華!」
声が、自然と出ていた。
祝音が鳴った。
詠の第一の音が、世界に放たれた。
※ ※ ※
ギターをかき鳴らす。
高音の旋律が風を切ると同時に、桜色の光が弧を描いて舞う。
虚音は形を変え、長い腕のような影を地面から伸ばして詠に迫った。
「こ、こわ……でもっ!」
詠はギターを振るった。
けれど、腕が震えていた。
桜色の音波は虚音の肩をかすめ、校舎の壁に弾けて消える。
「うそ、外した……!?」
黒い腕が、足元を掠めた。
詠は反射的に飛び退く。膝が笑って、スケートの車輪が石畳を擦った。
虚音の輪郭が、ぶるりと震える。
次の瞬間、詠の耳から、さっきまで戻りかけていた音がまた遠ざかった。
チャイムも、風も、自分の息も。
全部が薄い膜の向こうへ押し込まれていく。
「音が……また、消える」
虚音は、音を奪って大きくなっていた。
校舎裏に残っていた誰かのため息。
誰にも言えなかった不安。
転入生の詠が抱えていた「ひとりかもしれない」という怖さ。
そういう小さな沈黙を集めて、黒い影は膨らんでいく。
詠の胸の奥で、嫌な声が鳴った。
――誰も、あなたの音なんて聴いていない。
「っ……」
逃げたい。
怖い。
どうして自分が、こんなものの前に立っているのかわからない。
それでも――背中ではなく、胸の前のギターが熱かった。
(届けたい)
なぜそう思ったのかはわからない。
でも、あの無音の中で、何かが泣いている気がした。
音を奪われた場所で。
それでも、まだ消えていないものがある。
詠は震える指で弦を押さえた。
うまく弾けているかなんて、わからない。
コードも、たぶん間違っている。
それでも、一音だけは鳴った。
桜色の小さな音。
虚音の黒い膜に、細いひびが入る。
詠はもう一度、一歩踏み込んだ。
今度は、両手でしっかりとネックを握る。
「お願い、鳴って……!」
ギターを大きく振り下ろす。
「――奏・一閃桜!!」
ピンクの斬撃が空を裂いた。
まっすぐに、迷いなく、虚音を貫いた。
影の身体が砕け、黒いノイズが四散する。
光が満ち、音が戻る。
……チャイムの音。
風のざわめき。
夕暮れの空。
「やった……の?」
桜色の光はすでに静まり、衣装も元の制服へと戻っていた。
ギターも、いつもの《櫻音》に戻っている。
ただ、ほのかなぬくもりだけが、詠の胸元に残っていた。
呆然と立ち尽くす。
膝が、少し震えている。
(なに、今の。なんで私、変身して。なんで戦って。なんで……)
考えがまとまる前に、声が降ってきた。
「ふむ、案外早かったな。初めてにしては上出来じゃ」
振り返ると、体育倉庫の屋根の上に、ちょこんと座る不思議な存在。
丸い体にふさふさの耳。ぬいぐるみのようなその姿は、明らかに現実のものではなかった。
桜色の耳と紫がかったしっぽ。眉間には音を模した印。
ふさふさの尾には五線譜と音符がきらめいている。
和風のマスコットキャラが命を宿したような、ちょっと可愛すぎる何か。
「ぬいぐるみ……? じゃない、よね……?」
「ワシは音の理を守る式神、ミヨリじゃ!」
軽やかに跳ね降りると、ふかふかの着地音と共にお辞儀をする。
「……なにそれ、かわ……いや、よろしく!」
詠の中で、何かが始まりかけていた。
※ ※ ※
その頃。
中等部棟の音楽室。
窓際に立つ少女が、演奏を止めた。
黒髪。
動かない目。
深海の底みたいな色をした、藍の瞳。
少女は窓の外を見ていた。
校舎裏の方角を。
(……今の音)
弦から指を離す。
祓われた虚音の残響が、まだ空気にある。
でも、それより気になるのは――もうひとつの音だった。
桜色の。
まっすぐで、迷いのない。
怖いのに踏み込んでいった、あの音。
(誰)
少女は、しばらくそこを見ていた。
やがて視線を窓から外し、ギターを抱え直す。
弾こうとして、やめた。
さっきまで弾いていた旋律が、どこかに消えてしまっていた。
「……変な音」
ひとりごちて、少女は窓を背にした。
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