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第一音 転入生と形見のギター

 夢を見ていた。




 火花を散らすギター。


 雷のように響く太鼓。


 風を巻き起こす鍵盤。


 そして、すべてを底から支える、静かな低音。




 それぞれの音が、まだ見ぬ誰かを探すように、夜明けの空へと溶けていった。




 その光景は、まるで物語の予兆――


 そして、わたしの運命の始まりだった。




 ジリリリ……




「……ん、今日から……神響……」




 目覚ましの音に瞼を開ける。


 詠はベッドの上でしばらくぼんやりと天井を見つめ、深く息を吐いた。




 夢の余韻が、まだ胸の奥でかすかに鳴っている。




 カーテンの隙間から差し込む朝日が、淡い桃色の光で部屋を照らす。


 窓の外では桜の蕾がゆるく揺れ、春の風が静かに吹いていた。




 今日から、新しい生活が始まる。




 神響女学院――音の都と呼ばれるこの街にある、由緒ある音楽学園。


 詠は、そこの初等部六年に転入することになっていた。




「うーん……緊張する……」




 そうつぶやいて、詠は布団をはねのける。


 制服に着替え、いつものように髪を右サイドにまとめる手つきは、ほんの少しだけ震えていた。




 だけど、胸の中には不思議と高鳴る何かがある。




(うまくなじめるかな……でも、音があるなら……)




 詠の視線が、部屋の隅に立てかけられたギターケースに向く。




 神響出身だった、もうひとりの祖母の形見。


 ギターケースの中に眠るのは、少し古びたエレキギター――《櫻音さくらね》。


 祖母がそう呼んでいた。「さくらね」と、いつも愛しそうに。




 音が鳴らないはずの、弦だけが張られたそのギター。


 けれど、なぜか最近、ケースの中から「ぬくもり」を感じている。




 それが何なのかは、まだわからない。


 だけど今日――何かが変わる気がしていた。




 ※ ※ ※




「ふぁ~……またコード間違えたぁ。ギター、ほんとムズい~!」




 詠はそうぼやきながら、ギターケースを背負い直す。


 木の引き戸を静かに閉め、足元のお気に入りの白いインラインスケートを履いた。




「いってきまーす!」




 声をかけると、奥の台所から祖母の「行ってらっしゃい」が返ってくる。


 母はすでに職場へ。父は庭の倉庫で朝から何かを組み立てていた。




(友達……できるかな)




 スケートを踏み出しながら、詠は小さく息を吐いた。


 転入は今日が初めてじゃない。でも、緊張は毎回する。




 ――ここは神響。


 亡くなったもうひとりの祖母が、生まれ育った街。




「さくらね、ここで何を弾いてたの」




 背中のギターに話しかけながら、詠は坂道を滑り出した。




 ゆるやかな坂をスイスイと滑りながら、詠は春風を受けて前傾姿勢をとる。


 背中のギターが揺れるたび、音のぬくもりが伝わってくるようだった。




「……なんか、温かいんだよね。なんでだろ」




 答えはなかった。


 でも、それでよかった。




 ここで新しく始まる「音の物語」に、胸が少しだけ高鳴っていた。




 ※ ※ ※




 神響女学院の初等部校舎は、想像していたよりずっと大きかった。




 重厚な門と校名のレリーフ。その先には桜並木と石畳の中庭。


 春の朝日を浴びて輝く校舎は、まるで音楽そのものが形になったような建物だった。




 スケートを脱ぎ、玄関脇の靴ロッカーへと滑り込む。




「今日から……よろしくね」




 独りごちるように小さく呟き、詠は上履きに履き替えた。




 廊下を歩いていると、あちこちから音が聞こえてくる。


 楽器の練習。誰かの鼻歌。遠くの吹奏楽。


 この学院の空気は、音でできているみたいだ、と詠は思った。




(音があるなら、きっと大丈夫)




 そのとき――




 廊下の向こうから、ギターの音が聞こえた気がした。




 授業の練習音とも、誰かの遊び弾きとも違う。


 もっと静かで、もっと深くて、まるで深い水の底から響いてくるような音。




(誰か、いる?)




 詠は足を止めた。


 けれど、音はすぐに消えた。




 風の気のせいだったのかもしれない。


 それでも胸の奥で、何かが微かに鳴った。




 教室の前には担任らしき女性が待っていた。




「花咲詠さんね。じゃあ、入って」




 深呼吸。


 扉が開く。




「今日から六年三組に加わる転校生を紹介します」




 視線が、一斉にこちらを向く。




 緊張と好奇の入り混じった空気。


 詠は思わずギターケースのストラップを強く握りしめた。




(やっぱり……少し、こわい)




 でも、クラスの子たちの顔は、思ったより優しかった。


 みんな、どこか興味津々といった面持ちでこちらを見ている。




(……とりあえず、変な人はいなさそう?)




 詠は少し安心し、担任の指示で自己紹介を始めた。




「花咲詠です。ギターが好きです。よろしくお願いします」




 軽く頭を下げたあと、拍手が起こる。


 中には「ギター?」「かっこいい!」という囁きも聞こえた。




(友達……できるかも)




 胸の奥で、そっと灯るものがあった。




 そのとき。


 心の奥でギターが微かに鳴った――


 まるで、呼ばれているような気がした。




 ※ ※ ※




 転入初日は、思っていたよりうまくいった。




 クラスメイトたちは思ったよりも優しく、自己紹介後に話しかけてくれる子もいた。


 ただ、ギターの話題になると、一瞬だけ空気が変わる。


 憧れと、ほんの少しの「異物感」。




(仕方ないか。《櫻音》は、普通のギターじゃないもんね)




 帰り支度を終えた詠は、スケートを履き、昇降口を出た。




 夕暮れの光が、桜並木の影を長く伸ばしていた。




 坂を滑り出す。


 風が頬を撫でる。


 背中の《櫻音》が揺れる。




(明日も、ちゃんと来よう)




 そう思った、その瞬間だった。




 ふと――空気の密度が、変わった。




 スピーカーから流れていたはずの校内放送のBGMが途切れる。


 足音も、風の音も、遠くの楽器の音も、全部が消える。




 ――無音。




 詠は足を止めた。




 これは、普通の「静けさ」じゃない。


 耳ではなく、肌で感じる異常。


 世界そのものが、息をひそめているような。








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