第六十五音 死兵決戦
正門の向こうに、四つの影が立った。
白い影。
黒い影。
赤黒く揺れる影。
そして、空白の影。
サイレンシアは雪のように静かに立っていた。以前よりも輪郭が薄い。それでも、その沈黙は逃げではなかった。
ノクターンは黒い外套を夜明けの風に揺らしている。深い孤独をまとったまま、ただひとつの約束を抱えて立つ影。
カコフォニアは赤と黒の形を揺らしながら、笑っていなかった。いくつもの声が重なっているのに、今日は一つの方向を向いている。
ヴォイドリズムは、音のない穴のように立っていた。だが、その黒い瞳の奥には、完全には消えない何かが残っている。
ミヨリが低く言う。
「四奏卿じゃ」
詠は《祝華》を構えたまま、四人を見た。
「また、会ったね」
サイレンシアが答える。
「また来た」
その声は静かだった。
「今度は、退かない」
「わかってる」
「ディスコードの道を、お前たちには塞がせない」
天音が一歩前へ出た。
「聞いていいか」
四つの視線が天音へ向く。
「お前たちは、使われてると思わないのか」
ノクターンが静かに首を振った。
「思わない」
「どうして」
「選んでいるからだ」
黒い外套の奥で、低い声が続く。
「私たちは、それぞれの傷でディスコードの思想に辿り着いた。命令されたからではない。恐怖で従っているのでもない」
カコフォニアの声が重なる。
「感情を否定された者が、感情の行き場を探した」
サイレンシアが言う。
「届かなかった音が、沈黙を選んだ」
ヴォイドリズムが続ける。
「届いても変わらなかった現実が、空白を選んだ」
ノクターンが最後に言った。
「果たせなかった約束が、孤独を選んだ」
四つの声が、ひとつの覚悟になる。
「その選択の先に、ディスコードがいた」
琴羽が胸の前でタンバリンを握る。
「怖くないの?」
少しの沈黙。
答えたのはサイレンシアだった。
「怖い」
琴羽の目が揺れる。
「怖い。でも、行く」
詠は息を呑んだ。
昨夜、自分がミヨリに言った言葉と同じだった。
怖いまま行く。
それは、五人だけのものではなかった。
「お前たちも怖いだろう」
サイレンシアが言う。
詠は頷いた。
「怖いよ」
「それでも来た」
「うん」
「なら、同じだ」
夜明けの光が、五人と四人を照らす。
ディスコードの巨大な気配が背後にある。
音を諦めない者たち。
音に絶望した者たち。
どちらも、怖いままここに立っている。
「行くぞ」
ヴォイドリズムが告げた。
四奏卿が同時に動く。
「無響結界、ミュート・ドーム」
サイレンシアの白い光が広がる。
音が封じられる。
「断絶協奏曲、アイソレイト・コンチェルト」
ノクターンの黒い線が五人の間を切り分ける。
気配が遠ざかる。
「不協和崩壊、ディソナント・クラッシュ」
カコフォニアの赤黒い波が胸の奥へ入り込む。
感情が揺れる。
「空虚拍動、ヴォイド・ビート」
ヴォイドリズムの黒が、残響を削る。
手応えが薄れる。
四つの能力が、同時に来た。
音が出ない。
仲間が遠い。
感情が暴れる。
残響が消える。
初戦では、それぞれに苦しめられた否定が、ひとつの結界になって五人を包み込む。
詠の《祝華》が震えた。
弾こうとしても、音は出ない。
澪の気配が遠い。
琴羽の和音も、天音の拍も、理央の譜線も、すべて霧の向こうにある。
怖い。
胸の奥で、感情が波立つ。
その感情さえ、次の瞬間には残響ごと削られていく。
けれど。
知っている。
五人は、この四つの否定をひとつずつ越えてきた。
音が出なくても、弾く意志は消えない。
ひとりの音も本物。でも、閉じなくていい。
感情は殺さない。爆発だけにも渡さない。
証明できなくても、鳴った事実は残る。
詠は目を閉じた。
聴こえない。
それでも、聴こうとした。
澪がいる。
琴羽がいる。
天音がいる。
理央がいる。
カナミの残響が、《祝華》の奥で震えている。
「弾く」
声は届かないかもしれない。
でも、詠は言った。
「音が出なくても、弾く」
その頃、孤立の結界の中で、澪はノクターンと向き合っていた。
黒い外套の影が、静かに《断絶協奏曲》を強める。
「また、お前か」
ノクターンが言う。
「また、お前」
澪も短く返す。
「今度は逃げない」
「前回も逃げたのではない。退いただけだ」
「今日は?」
「退かない」
澪は《音幻》を構えた。
音は出ない。
それでも指は弦を押さえる。
「約束した人のこと、今日も思い出してる?」
ノクターンの影が少し揺れた。
「思い出している」
「ずっと?」
「ずっとだ」
「それが、あなたの音の根っこ」
ノクターンの黒い線が鋭くなる。
「黙れ」
「黙らない」
澪は弾き続ける。
音はない。孤立は深い。
けれど、指の動きは止まらない。
「果たせなかった約束が、あなたをここまで連れてきた」
「それは呪いだ」
「そうかもしれない」
澪の水色の光が、孤立の内側で細く灯る。
「でも、あの人が好きそうな曲だって、あなたは言った」
ノクターンが息を止めた。
「その言葉は、まだ閉じていない」
孤立の結界に、ひとすじ亀裂が入る。
別の場所で、琴羽はカコフォニアと向き合っていた。
赤黒い感情の波が、琴羽の胸へ押し寄せる。
「また、お前か」
いくつもの声が言う。
「また、私」
琴羽はタンバリンを強く握った。
「今日は爆発しない」
「無理だ。お前の中にはまだある。羨ましさも、寂しさも、欲しさも」
「あるよ」
琴羽は頷いた。
「まだある。消えてない」
カコフォニアの輪郭が喜ぶように揺れる。
「なら、鳴れ」
「鳴る。でも、壊すためだけには鳴らさない」
琴羽は《花奏鍵》に手を置いた。
音は封じられている。
けれど、鍵盤の光は消えない。
「私は、受け取ってもらった」
「だから何だ」
「だから、受け取れる」
カコフォニアの複数の声が乱れた。
「敵の感情を?」
「うん」
琴羽は前へ出る。
「あなたの怒りも、悲しみも、混沌も、聞いた。全部、本物だった」
「うるさい」
「うるさくても聞く」
琴羽のタンバリンが、音のないまま光を弾いた。
赤黒い波の中に、春桃の輪が広がる。
カコフォニアの形が、大きく揺れた。
さらに別の結界で、天音はヴォイドリズムと向き合っていた。
音を刻む者と、残響を消す者。
天音は《雷陣》の前に立ち、スティックを構える。
「お前が相手か」
ヴォイドリズムが言う。
「そうだ」
「残響は消える」
「知ってる」
「なら、刻む意味はない」
天音はスティックを振った。
音は出ない。
残響も残らない。
それでも、床がわずかに震えた。
「今、届いた」
ヴォイドリズムの黒い瞳が動く。
「音は出ていない」
「振動はある」
もう一打。
今度はもっと低く、足の裏へ伝える。
「音が消えるなら、地面に置く」
「それも消える」
「また置く」
天音は叩き続ける。
「あたしの拍は、みんなの足元に置くためのものだ」
ヴォイドリズムが沈黙した。
天音は一歩踏み込む。
「お前の大切な人も、感じてたんじゃないのか」
黒い影が揺れる。
「耳で聞けなくても、床から伝わる音を」
ヴォイドリズムの《空虚拍動》が、一瞬だけ乱れた。
最後に、理央はサイレンシアと向き合っていた。
白い無響の中で、サイレンシアは静かに立つ。
「論理で破るか」
「破らない」
理央は《律盤》を構えた。
「聴く」
「音はない」
「気配はある」
紫夜の譜線が、白い空間の中に細く伸びた。
「あなたは前に、ディスコードの前では無意味になると警告した」
サイレンシアの目がわずかに揺れる。
「警告ではない」
「警告だった」
理央は静かに続ける。
「本当に無意味なら、言う必要はない。でも、あなたは言った。私たちが傷つくことを、どこかで見ていた」
「違う」
「違うかもしれない」
理央は《律盤》に触れる。
「でも、あなたが今ここで怖いまま立っていることは、消えない」
サイレンシアの《ミュート・ドーム》が震えた。
四つの結界が同時に揺れる。
互いの力が干渉し合い、正門前の空間にひびが入る。
サイレンシアは沈黙を保とうとする。
ノクターンは孤立を深めようとする。
カコフォニアは感情を爆発させようとする。
ヴォイドリズムは残響を消そうとする。
だが、五人はもう、その否定を知っている。
完全には破れない。
まだ、押し返されている。
それでも、結界の揺れは止まらなかった。
ディスコードの気配が、正門の奥で重くなる。
四奏卿の輪郭が、少しずつ薄くなっていく。
「限界が近い」
ヴォイドリズムが平らな声で告げた。
「わかっている」
ノクターンが答える。
「それでも、立つ」
サイレンシアが言う。
「礎になる」
カコフォニアの声が重なる。
四つの否定が、最後の力で五人を押し潰そうとした。
詠は結界の中心で目を開く。
次の一音で、すべてを一点へ集めるしかない。
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