第六十四音 音を否定するもの
夜明け前の神響女学院は、息を止めていた。
正門前の道路にも、校舎の窓にも、商店街へ続く道にも、音がない。
風は吹いているはずだった。
木の枝はわずかに揺れている。制服の裾も動いている。けれど、葉擦れの音も、布が擦れる音も、どこにもなかった。
詠は正門の前に立ち、《祝華》のケースを抱えていた。
心臓の鼓動さえ、薄く感じる。
自分がここにいるという実感を、街全体が少しずつ奪っていくようだった。
「詠」
最初に来たのは澪だった。
声は出ている。
けれど、いつもより近くで消える。
「眠れた?」
「無理」
澪は短く答え、詠の隣に立つ。
すぐに琴羽が走ってきた。息が弾んでいるはずなのに、その呼吸音も妙に薄い。続いて天音と理央が来る。二人とも、寝不足の顔をしていた。
「全員、起きてたな」
天音が言う。
「寝られる状況ではない」
理央が端末を見ながら答える。
画面には、神響女学院を中心にした十三個の律の穴が表示されていた。点はすべて線でつながり、街を囲む輪になっている。
「包囲は完成。街全体の音響反応が低下している」
「つまり?」
「神響の音が、外側から削られている」
琴羽が周囲を見回した。
「音がないって、こんなに怖いんだね」
「うん」
詠は小さく頷いた。
音がない。
それだけで、街は見慣れた場所ではなくなる。
学校も、通学路も、いつもの商店街も、思い出のある角も、全部が薄い絵のように見える。
澪が《音幻》を取り出した。
「弾こう」
天音が顔を上げる。
「今?」
「今」
澪は弦に指を置く。
「音がないなら、今、ここに音を置く」
誰も反対しなかった。
変身はしない。
戦うためではなく、確かめるために。
澪の《音幻》が、一音を鳴らした。
水色の音が、正門前に落ちる。
最初はすぐに消えそうだった。けれど、詠の耳には確かに届いた。胸にも、ほんの少しだけ残った。
「届いた」
詠が言う。
琴羽が《花奏鍵》を開く。
「次、私」
春桃の和音が、澪の音の隣に置かれる。音のない朝に、柔らかな色が戻ったようだった。
天音が《雷陣》を肩から下ろす。
「じゃあ、足元」
こつん、とスティックが縁を叩く。
雷金の拍が、正門の石畳を震わせた。
今度は、音だけではない。足の裏に小さな振動が残る。
理央が《律盤》を展開した。
「記録する」
紫夜の譜線が、三人の音の位置を結ぶ。
消えそうな音の場所に、細い線が残った。
最後に、詠が《祝華》を抱え直す。
桜紅の弦を鳴らし、短く歌った。
五つの音が重なる。
音のない街に、ひとつだけ確かな場所が生まれた。
正門前の空気がわずかに揺れる。
遠くで、閉まっていた看板がかすかに軋んだ。
校舎の窓が、朝の風を受けて小さく震えた。
音が、戻ってくる。
ほんの少し。
けれど、確かに。
「今、ここに音がある」
詠は言った。
「それを確認したかった」
澪が頷く。
「確認できた」
琴羽がタンバリンを胸に抱いた。
「消されても、また鳴らせる」
天音がスティックを握り直す。
「足場は作れる」
理央が端末を閉じる。
「観測上も、正門前だけ音響反応が回復している」
ミヨリが詠の肩から空を見上げた。
「来るぞ」
東の空が白み始めた。
夜明けの光。
けれど、その白は不自然だった。朝焼けの温度がない。青へ変わる途中の柔らかさもない。ただ、色を抜き取るような白だった。
十三個の律の穴が同時に震える。
神響女学院を囲む見えない輪が、きしんだ。
空間が歪む。
音はない。
地面が揺れているのに、揺れる音がしない。窓ガラスが震えているのに、震える音がしない。
音のない衝撃だけが、体の奥へ押し寄せる。
正門の上に、何かが降りてきた。
形はなかった。
人影でも、怪物でも、楽器でもない。
ただ、そこにいる。
存在だけが、重い。
サイレンシアの沈黙とも、ノクターンの孤独とも、カコフォニアの乱れとも、ヴォイドリズムの空白とも違う。
それらをすべて通り越した先にある、巨大な否定。
ミヨリの声が震えた。
「ディスコード」
その名を聞いた瞬間、詠の背筋に冷たいものが走った。
ディスコードは声を出さなかった。
けれど、意味が流れ込んでくる。
耳ではない。
頭の奥へ、直接置かれる。
来た。
ただ、それだけの意味が、街全体に満ちた。
五人は構えた。
ディスコードの気配が、ゆっくりと詠たちへ向く。
「お前たちが、五色ノ契」
声ではないのに、言葉として理解できる。
詠は息を吸った。
「そうだよ」
「小さい」
感情のない言葉だった。
見下すというより、ただ事実を測っているような響き。
「だが、カナミが笑った」
五人の空気が変わる。
詠は《祝華》を強く握った。
「カナミさんを知ってるの」
「知っている」
ディスコードの気配がわずかに重くなる。
「あれは、私の否定に沈んだ音だ」
ミヨリが低く唸る。
詠は一歩前へ出た。
「カナミさんは、今も私たちの中にいる」
「いたとして、何になる」
白い朝が、さらに色を失う。
「カナミは届かなかった。救えなかった。壊れた。長い時間、絶望に沈んだ」
「でも、最後に笑った」
詠の声は震えた。
それでも言った。
「私たちの音で、笑ってくれた」
ディスコードはしばらく沈黙した。
その沈黙が、音のない街よりも重い。
「それが、わからない」
初めて、言葉にかすかな揺れが混じった。
感情ではない。
感情を切り捨てたあとに残った、ひっかかりのようなもの。
「なぜ笑った」
詠はすぐに答えようとした。
けれど、答えは簡単ではなかった。
届いたから。
救われたから。
そう言いたい。
でも、カナミの数百年は戻っていない。失われた仲間も、失敗した過去も、消えた時間も戻らない。
それでも、カナミは笑った。
ディスコードはそれを見ていた。
「届いても、世界は変わらない」
ディスコードの言葉が、街を押しつぶす。
「音楽が広まっても、争いは続く。歌が響いても、憎しみは残る。美しい旋律のあとで、人はまた傷つけ合う」
五人の祝具が小さく震えた。
「私は見てきた」
白い空の奥で、何か巨大なものが開く。
「音は救わない。音は変えない。音は、消える」
詠は首を振った。
「消えない」
「証明する」
ディスコードの気配が、五人を包む。
「お前たちの音を消すことで」
詠は《祝華》を掲げた。
澪、琴羽、天音、理央が並ぶ。
怖い。
怖いまま、前に出る。
「響け、私たちの祝音。途切れた律を、もう一度つなぐために」
五つの祝具が光る。
桜紅、水色、春桃、雷金、紫夜。
音のない夜明けに、五色の光が立ち上がる。
「五色ノ契、奏装」
その瞬間、正門の向こうに四つの影が浮かんだ。
沈黙の影。
孤独の影。
乱れた鼓動の影。
空白の影。
ディスコードの問いが、五人の胸に残る。
なぜ、カナミは笑った。
答えるための戦いが、夜明けに始まった。
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