第六十三音 包囲完成
二月の終わり、神響の街は少しずつ音を失っていた。
最初に気づいたのは、朝の通学路だった。
車は走っている。信号機の電子音も鳴っている。商店街のシャッターが上がる音も、道の向こうから聞こえてくる。
けれど、どれも薄い。
耳には届くのに、街の奥まで響いていない。
いつもの神響なら、朝はもっと騒がしい。パン屋の焼き上がりを知らせるベル、学院へ急ぐ生徒の声、川沿いの道を抜ける風の音。いろいろな音が重なって、今日が始まるという合図になっていた。
その合図が、少しずつ削られている。
詠は通学鞄の肩紐を握り直した。
「ミヨリ」
「わかっておる」
ミヨリは詠の肩の上で、街の空を見上げていた。
「律の穴が増えた」
「どのくらい?」
「神響女学院を中心に、十二か所」
詠の足が止まる。
「十二」
「うむ。最初は点じゃった。それが線になり、今は輪になりかけておる」
学院の方角を見る。
朝の空は青いはずなのに、校舎の向こうだけ、白く色が抜けたように見えた。
「あと、いくつ?」
ミヨリは少しだけ黙った。
「一つじゃ」
詠の喉が鳴る。
「一つで、包囲が完成する」
「完成したら?」
「ディスコードが、降りてくる」
言葉は重かった。
けれど、不思議と足は止まらなかった。
詠は校門へ向かって歩き出す。
足音はいつもより静かだった。
その静けさが、街の異変をはっきり教えていた。
放課後、音楽準備室には五人が揃っていた。
誰も遅れなかった。
誰も、今日はただの練習だとは思っていなかった。
窓の外では、春に近づく夕暮れが校庭を淡く染めている。部活動の掛け声は聞こえる。ボールが地面を跳ねる音もある。
それでも、部屋の中には、薄い膜のような緊張が張っていた。
理央が端末を机に置く。
「律の穴は現在十二。十三個目の反応が、まだ弱いけれど出ている」
天音がスティックを握った。
「今夜か」
「可能性は高い」
澪は《音幻》を膝に置き、静かに弦を弾いた。
音は鳴る。
胸に届く。
だからこそ、今のうちに確かめておきたい音だった。
「弾こう」
澪が言った。
「最後かもしれないなら、今日一番いい音を出す」
「最後って言い方、縁起悪い」
天音が苦笑する。
「でも、賛成」
琴羽が《花奏鍵》を開いた。
「私も。怖いまま黙ってるより、鳴らしたい」
理央が《律盤》を置く。
「練習記録としても、現在の五人の音を残す意味がある」
「理央、それだけ?」
詠が聞くと、理央は一拍置いた。
「それだけではない」
短い答えだった。
でも、十分だった。
詠は《祝華》を構えた。
五人は特別な曲を選ばなかった。
今まで何度も合わせた曲。
転入したばかりの詠が、まだ誰の音にも入れなかった頃から、少しずつ形を変えてきた曲。
最初に詠の弦が鳴る。
澪の水色の旋律が、その横へ並ぶ。
琴羽の春桃の和音が、二人の音を包むだけでなく、前へ押し出す。
天音の雷金の拍が足元を支える。
理央の紫夜の譜線が、全員の音をひとつの流れにする。
途中で、カナミの六番目の残響が小さく震えた。
誰も驚かなかった。
もう、そこにある音だった。
曲が進むほど、音楽準備室にいつもの空気が戻ってくる。譜面台の小さな揺れ、床板のきしみ、窓の外から入る風の音。全部が、五人の演奏に混ざっていく。
神響の街が薄くなっている。
それでも、この部屋には音がある。
詠は歌いながら、そのことを胸に刻んだ。
練習が終わっても、誰もすぐには片づけなかった。
ミヨリが机の上へ降りる。
いつもなら軽口の一つも挟むところだが、今日はまっすぐ五人を見ていた。
「話しておかなければならぬことがある」
詠は背筋を伸ばした。
「ディスコードのこと?」
「そうじゃ」
ミヨリの声は低い。
「ディスコードは、最初から音を否定していたわけではない」
天音の眉が動く。
「違うのか」
「かつては、深く音を愛していた。感情もあった。音が誰かを救えると信じていた」
琴羽が小さく息を吸う。
「でも、今は」
「切り捨てた」
ミヨリの目が伏せられる。
「音では救えないものを見すぎたのじゃ。音が届いても争いは終わらず、感動しても憎しみは消えず、美しい旋律のあとで人はまた誰かを傷つける」
理央が静かに言った。
「ヴォイドリズムと似ている」
「似ておる。じゃが、範囲が違う」
ミヨリは窓の外を見た。
「ヴォイドリズムは、一人の大切な人を救えなかった。ディスコードは、世界そのものを救えなかったと考えておる」
部屋に沈黙が落ちる。
澪が《音幻》の弦に指を添えた。
「だから、四奏卿は集まった」
「うむ」
ミヨリが頷く。
「サイレンシアは、届かなかった音の傷を持っていた。ノクターンは、果たせなかった約束を抱えていた。カコフォニアは、感情を受け取ってもらえなかった。ヴォイドリズムは、届いた音が現実を変えなかったことに絶望した」
「それぞれの傷が、ディスコードの否定に重なった」
理央が言う。
「その通りじゃ」
ミヨリは五人を見渡した。
「四奏卿は恐怖で従っておるわけではない。自分の傷で、ディスコードの思想に共鳴しておる。だから強い」
琴羽が膝の上で手を握る。
「私たちと、似てるんだね」
詠が琴羽を見る。
琴羽は少し迷いながら、それでも言葉を続けた。
「私たちは、音を諦めたくない気持ちで一緒にいる。あの人たちは、音に絶望した気持ちで一緒にいる」
天音が低く言う。
「どっちも、本気」
「そうじゃ」
ミヨリの声は重かった。
「死兵として戻ってくる四奏卿は、ただ操られて立つわけではない。自分の意志で、ディスコードの門を守る」
「救えば終わり、じゃない」
澪が呟く。
「うむ。おぬしたちは初戦で、それぞれの傷に触れた。じゃが、救い切ってはおらぬ」
詠は《祝華》を見る。
桜紅の弦の奥で、カナミの残響が揺れた気がした。
「なら、ぶつかるしかないんだね」
「本物と本物が、じゃ」
ミヨリが言った。
「音を諦めない者と、音を否定する者。どちらも本気で鳴る。だから、次の戦いは重い」
怖い。
詠はそう思った。
でも、その怖さを隠さなくてもいいことを、もう知っている。
「それでも」
詠が口を開く。
四人がこちらを見た。
「私たちは、音を諦めない」
澪が頷く。
琴羽も。
天音も。
理央も。
ミヨリは何も言わず、ただ目を細めた。
その夜、詠は眠れなかった。
部屋の明かりを消しても、天井ばかり見ていた。
枕元には形見のギターが置いてある。覚醒して《祝華》となった祝具。祖母が残してくれた、詠の始まりの音。
ミヨリは机の上で丸くなっていたが、眠ってはいなかった。
「ミヨリ」
「なんじゃ」
「怖い」
「うむ」
すぐに返ってきた。
否定しない声だった。
「怖いまま行けるかな」
「怖いまま行くのじゃ」
詠は小さく笑った。
「やっぱり、そうだよね」
《祝華》に触れる。
カナミの残響が、ほんのかすかに震えた気がした。
「カナミさんも、怖かったのかな」
「おそらくの」
「でも、弾き続けた」
「うむ」
詠は目を閉じた。
怖くても、弾く。
それは、もう詠だけの決意ではなかった。
そのとき。
外の音が、消えた。
風の音も。
遠くの車の音も。
夜の街が持っているはずの、細かな息づかいも。
全部、止まった。
ミヨリが跳ね起きる。
「詠」
「わかってる」
詠はベッドから起き上がり、窓を開けた。
神響の街が、音のない夜に沈んでいた。
空の端に、十三個目の白い傷が開いている。
最後の律の穴。
包囲が、完成した。
ミヨリが低く告げる。
「夜明けに来る」
詠はスマホを手に取った。
四人へ短いメッセージを送る。
夜明け。学院正門前。
返事はすぐに来た。
澪も、琴羽も、天音も、理央も。
誰も眠っていなかった。
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