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祝音少女《五色ノ契》〜音に選ばれた少女たちは、祝福の旋律で世界を救う〜  作者: たいしょう
第四譜 試練の変奏曲 -静と騒と虚と闇の四重奏-
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第六十音 虚音、空白の意味

 二月の夜、理央は自室の机に向かっていた。


 部屋は静かだった。


 窓の外では風が鳴っている。遠くを走る車の音も、時折かすかに届く。けれど、机の上だけは別の場所のように冷えていた。


 開いたノートには、同じ問いが何度も書かれている。


 音楽に意味はあるか。


 一行目は強い筆圧で書かれていた。二行目は少し薄い。三行目は途中で線が乱れている。


 理央はペン先を紙に置いたまま、しばらく動かなかった。


 カナミを浄化した。


 沈音を退けた。


 孤音を越えた。


 乱音の感情を、一度は音に変えた。


 結果だけ並べれば、答えは簡単に見える。音は届く。音には力がある。だから、音楽には意味がある。


 けれど、理央の中で、別の問いが残っていた。


 届いたあと、何が変わったのか。


 カナミが失った時間は戻らない。


 サイレンシアの沈黙も、ノクターンの約束も、カコフォニアの怒りも、消えたわけではない。


 商店街の老人の音は少し戻った。でも、律の穴はまだ神響に残っている。


「意味がある」


 理央は小さく呟いた。


 言葉にしてみる。


 だが、ノートの上では、その言葉が証明にならない。


 理央は《律盤》を机の端に置き、紫夜の縁に触れた。


 カナミの残響が宿った細い光が、盤面の奥で小さく揺れる。


 証明できないもの。


 それでも、確かにそこにあるもの。


 理央はペンを握り直した。


 答えは、まだ書けなかった。


 翌日の放課後。


 五人は旧市街へ向かった。


 乱音戦のあと、神響の律の穴は一時的に弱まったように見えた。けれど、ミヨリの観測では、別の場所に新しい空白が生まれているという。


「空白って、穴と違うの?」


 詠が聞くと、ミヨリは詠の肩の上で耳を伏せた。


「似ておるが、質が違う。穴は律が破れる場所じゃ。じゃが、今見えておるものは、破れたあとに何も残らぬ場所に近い」


「何も残らない」


 琴羽がタンバリンを胸に抱く。


「それ、なんか嫌だね」


「嫌な予感しかしないな」


 天音が《雷陣》のスティックを指で回した。


 澪は黙って前を見ている。


 旧市街の細い道は、いつもより音が少なかった。


 人がいないわけではない。店のシャッターを閉める音も、路地を抜ける自転車の音も、犬の鳴き声もある。


 聞こえている。


 なのに、聞こえた気がしない。


 音が耳に届いた瞬間、そのまま薄い紙のように剥がれ落ちていく。


「サイレンシアのときとは違う」


 澪が《音幻》の弦を軽く弾いた。


 音は鳴った。


 詠にも聞こえた。


 けれど、胸に残らない。


「鳴ってるのに」


 詠は自分の胸元を押さえた。


「何も来ない」


「残響がない」


 理央が端末を確認する。


 表示される波形は、確かに音を拾っていた。だが、波の後ろが不自然に平らになっている。余韻が存在しない。


「音は発生している。空気振動もある。ただし、感情反応と記憶への定着が消えている」


「どういうこと?」


 天音が眉をひそめる。


 理央は画面から目を離さずに答えた。


「音が、鳴った事実だけになっている」


 その瞬間、通りの奥で影が動いた。


 黒い。


 ただの黒ではない。


 色を塗った黒ではなく、そこだけ夜より深く切り抜かれたような黒だった。


 人の形をしている。立っている。けれど、存在感が希薄だった。目を向けた瞬間は確かにいるのに、まばたきの間に輪郭を忘れそうになる。


「四奏卿、最後の一人」


 ミヨリの声が低くなる。


「虚音ヴォイドリズム」


 黒い人影が、五人を見た。


 瞳も黒い。


 何かを隠している黒ではない。


 何も映さない黒だった。


「五色ノ契」


 声は平らだった。


 怒りも、悲しみも、嘲りもない。


 だからこそ、冷たかった。


「お前たちの音を聞いた」


「なら話が早い」


 天音が一歩前へ出る。


「あたしたちは止まらない」


 ヴォイドリズムは、天音を見た。


「止まるかどうかは問題ではない」


「何?」


「鳴ったところで、何になる」


 旧市街の空気が、さらに薄くなる。


 詠は《祝華》を握った。


「みんな、奏装」


 五人の祝具が光る。


「響け、私たちの祝音。途切れた律を、もう一度つなぐために」


 桜紅の弦が詠の胸元で鳴り、水色の旋律が澪の足元に広がる。琴羽の春桃の光が鍵盤から舞い、天音の雷金がドラムの縁を走り、理央の紫夜の譜線が地面に展開した。


「五色ノ契、奏装」


 詠はすぐに斬り込んだ。


 沈音のように封じられる前に。


 孤音のように分断される前に。


 乱音のように内側を暴かれる前に。


 一閃。


 《祝華》の光がヴォイドリズムの肩を捉えた。


 当たった。


 手応えはある。


 黒い影の輪郭も揺れた。


 けれど、次の瞬間には、何も残らなかった。


 傷の跡も、揺れた気配も、詠の中にあるはずの手応えの記憶さえ薄くなる。


「え」


 詠は自分の手を見た。


 今、確かに攻撃した。


 それなのに、攻撃したという感覚が空っぽになっていく。


「残響抹消」


 ヴォイドリズムが告げる。


「エコー・イレイザー」


 澪が横から《音幻》を走らせる。


 水色の刃が黒い影を切る。


 音は鳴る。刃も届く。


 しかし、切ったという余韻がない。


「気持ち悪い」


 澪の眉がわずかに歪む。


 琴羽が和音を広げた。春桃の光が旧市街の石畳を包む。


「みんなの音を戻す」


 だが、和音は鳴った瞬間から薄れていく。


 包むはずの音が、包んだという痕跡を残さない。


「届かない」


 天音が《雷陣》を叩く。


 一打。


 雷が走る。


 二打。


 ヴォイドリズムの足元を砕く。


 三打目で、天音は顔をしかめた。


「何だよ、これ」


 叩いた。


 確かに叩いた。


 けれど、胸の奥にいつも残る熱がない。


「音が空振りしてるみたいだ」


 理央は《律盤》を展開し、紫夜の譜線でヴォイドリズムの足場を囲んだ。


「物理干渉は成立している。問題は攻撃後の残響消失」


「残響が消えても、次を鳴らせばいい」


 詠が歌い出す。


 声は出た。


 旧市街の壁に反響する。


 五人の祝具がそれに応える。


 だが、歌い終えた瞬間、歌があった場所が空白になる。


 耳には聞こえた。けれど、心に残らない。


 ヴォイドリズムは、平らな声で言った。


「音は鳴る」


 黒い影が一歩近づく。


「だが、消える」


 もう一歩。


「感動も、余韻も、記憶も、時間に削られて消える」


 詠は《祝華》を構え直す。


「だからって、意味がないことにはならない」


「では、何が変わった」


 ヴォイドリズムの視線が、理央へ向いた。


「音が届いたとして」


 理央の指が止まる。


「感情が動いたとして」


 黒い瞳が、理央の奥まで覗き込む。


「現実が変わらなかったなら、それは何のために鳴った」


 理央は答えようとした。


 論理を組む。


 前提を置く。


 音楽は感情伝達の手段である。


 伝達が成立すれば、関係性に変化が生じる。


 変化が生じれば、意味がある。


 そこまで組んで、次の問いにぶつかった。


 その変化が、失ったものを戻さないなら。


 救えなかった現実を救えないなら。


 意味があると、どう証明する。


「理央?」


 琴羽の声が聞こえる。


 理央はノートを取り出した。


 戦闘中に、考えるためのノートを。


 天音が驚いた顔をする。


「今、書くのか」


「今、考える必要がある」


 理央はペンを走らせた。


 ヴォイドリズムの前提。


 音は鳴る。


 残響は消える。


 感動しても現実が変わらない場合、音楽の意味は証明できるか。


 ペン先が止まる。


 証明できるか。


 理央の手がわずかに震えた。


 ヴォイドリズムの声が、すぐ近くで聞こえる。


「出ないだろう」


 理央は顔を上げない。


「論理では、答えが出ない」


 ペン先が紙を押し、インクが滲む。


「お前は気づいている」


 黒い影が囁く。


「音楽が現実を救うという証明は、できない」


 理央の指から、ペンが滑った。


 続けて、ノートが落ちる。


 石畳に当たった音は、すぐに消えた。


 何も残らなかった。



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